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《撤収十八時の観覧席バーガー》


 河川敷の仮設観覧席は、十八時に撤去される。


 保険調査員の榊原征二は、その十五分前になっても放送テントから出なかった。


「榊原さん、残り一枚です。写真だけなら私が」


「私の担当です」


 声が掠れた。六十八歳の喉は、朝からずっとこんな調子だった。


 今日が最後の現場だった。


 来月から内勤へ移る。会社は「経験を若手へ」と言ったが、征二には、現場から外されるという意味にしか聞こえなかった。


 だから最後の損害確認くらい、自分一人で終えたかった。


 昨日の突風で壊れた夏祭り会場。そのうち保険対象になっているのは、この放送テント一室だけだ。


 屋根の裂け目。机の水濡れ。折れた支柱。


 あと一つ。


 天井から外れた仮設雨樋。


「これを確認したら終わりです」


 征二は若手の真鍋を外へ出した。


 十八時まで十二分。


 延長はしない。


 それも今日、自分で決めた。


     *


 問題の雨樋は、妙に柔らかかった。


 仮設用の成形セルロース製で、昨夜から床に落ちたままになっている。中には甘酸っぱい臭いのする薄茶色の泥が溜まっていた。


「それ、捨てないでください!」


 入口から祭り実行委員の女性が叫んだ。


「昨日、甘酒をこぼして。排水に流せないから、そこへ吸わせてたんです」


「雨樋に?」


「非常時だったので」


 一晩置かれた米麹の残りが、濡れたセルロースへ染み込んでいる。暑さで発酵が進み、雨樋の内側には細かな泡まで浮いていた。


 征二は写真を撮った。


 これで終わりのはずだった。


 そのとき、外で金属音がした。


 自転車が倒れた。


 撤収を急ぐ配送員が、放送テントの脚へ巻いていたチェーンを外そうとしている。


「鍵が回らないんです」


 十八時まで九分。


「切断工具は?」


「撤収車に積んじゃいました」


 チェーンが残れば、テントの脚を畳めない。


 征二の担当ではない。


 そう言おうとして、やめた。


 自分がここに居座っているせいで、撤収車はまだ出ていない。


「工具を借りましょう」


 声はほとんど音にならなかった。


     *


 舞台班が持ってきたのは、小型の電気溶断機だった。


「一リンクだけ溶かします」


 火花が飛んだ。


 赤くなった鎖の一節が垂れ、切れたチェーンは二本に分かれた。配送員は自転車を引き取ったが、熱を持ったチェーンは置いていった。


「冷めたら廃棄で」


 征二は頷いた。


 十八時まで六分。


 そこで突風が来た。


 屋根の裂け目が開き、テント内の書類が舞った。


 征二は机を押さえた。


 真鍋が外から叫ぶ。


「榊原さん、もう出てください!」


「写真が一枚」


「撮りました!」


「私が撮っていない」


 言った瞬間、自分でも馬鹿だと思った。


 風で、壁代わりの遮光カーテンが外れた。


 白い洗浄液のバケツへ落ちる。


「あっ!」


 清掃員が駆け込んだ。撤収前にカビ跡を落とすため、塩素系漂白剤を薄めていたという。


 黒かった布の下半分が、まだらな灰色へ抜けていく。


「弁償ですかね……」


 清掃員が青ざめた。


 征二はカメラを向けた。


 損害が一つ増えた。


 最後の一枚は、また最後ではなくなった。


     *


 十八時まで四分。


 今度は入口が塞がった。


 撤去班が観覧席の案内板を運び込み、風を避けるため一時的に床へ寝かせたのだ。


「すぐ出します!」


「待って」


 征二は案内板の端を見た。


 透明なプラスチック定規が一本、ガムテープで貼られている。席番号の間隔を測るための忘れ物だった。


「これ、借ります」


「何に?」


 答える代わりに、征二は定規を床の段差へ当てた。


 放送機材を載せた台車を外へ出すには、入口のアルミレールを越えなければならない。車輪が一つ欠け、段差で腹を擦る。


 撤収班は持ち上げようとしたが、三人でも傾く。


「滑らせる」


 征二は言った。


 舞台班のグラインダーを借り、定規の目盛りが消えるまで端を研削した。短い硬質片に分け、レールの隙間へ差し込む。


 台車は数センチ進んだ。


 そこで止まった。


 短冊状の定規片が荷重で散った。


「失敗ですね」


 真鍋が言った。


「いや」


 征二は床を見た。


 散った硬質片は、台車の底を床からわずかに浮かせている。


 失敗したから、隙間ができた。


     *


 十八時。


 撤去責任者が入口へ来た。


「終了です。全員退場してください」


 征二は初めて時計を見なかった。


「三分ください」


 朝から拒んできた言葉だった。


 責任者が眉を上げる。


「延長しないんじゃなかったんですか」


「変更します」


「理由は?」


 征二は真鍋を見た。


「私一人では終わらないからです」


 真鍋が一瞬だけ黙り、それから袖をまくった。


「三分ですね」


     *


 台車を持ち上げる必要はなかった。


 低くすればいい。


 発酵して柔らかくなったセルロース雨樋を開くと、繊維が剥がれた。真鍋と二人で薄く押し広げる。甘酸っぱい臭いが立った。柔らかな膜になったそれを、レールの上へ敷く。


 漂白された遮光カーテンは、濡れて重かった。


 征二は細長く裂けた部分をねじり、二つの太い輪にした。一つを台車の手前へ、もう一つを向こう側へ置く。車輪の代わりに荷重を受ける輪だ。


 溶断したチェーンは、冷えていた。


 二本をそれぞれ短く折り返し、散った定規片と組ませる。定規片がチェーンの節の間へ噛み、即席の硬い支持材になった。


 下の布輪。


 その上に、研削された透明定規と、溶けた跡の黒いチェーンを密に重ねた支持層。


 さらに、発酵で柔らかくなった雨樋の薄い膜をかぶせる。


 最後にもう一つの布輪を上から押し当てた。


 持ち上げるためではない。


 壊れた台車の腹を、その厚みで床から浮かせ、膜ごと滑らせるためだった。


 真鍋が手を止めた。


「榊原さん」


「何です」


「これ」


 征二も見た。


 二つの丸く膨らんだ布の輪が上下にある。


 間には、黒いチェーンと透明な短冊がぎっしり挟まっている。発酵した薄茶色の膜が縁から垂れ、研削された定規片がところどころ外へ突き出していた。


 直径は五十センチほど。


 湿って重く、甘酒と漂白剤と熱い金属の残り香が混じっている。


 食べ物には一ミリも近づいていない。


 それでも、どう見ても巨大なハンバーガーだった。


「……写真、撮ります?」


 真鍋が聞いた。


 征二は首を振った。


「先に出します」


     *


 即席の塊は、建造物として働いた。


 ほんの四十秒だけ。


 壊れた台車の下で荷重を受け、入口の段差をまたぐ低い橋になった。


「押して!」


 六人で台車を押す。


 布の輪が潰れる。


 チェーンが鳴る。


 研削した定規片が軋む。


 雨樋だった膜が床へ貼りつき、滑走面になる。


 台車がレールを越えた。


 その瞬間、上側の布輪がぽん、と戻った。


 黒いチェーンの層を挟んだまま。


 ハンバーガーの形も戻った。


 誰かが笑った。


 征二も笑おうとして、咳になった。


     *


 撤収責任者は、塊を捨てようとした。


「待ってください」


 止めたのは征二ではなく真鍋だった。


「来年も使えます」


「何に」


「段差越えです」


「これを?」


 真鍋は上の布輪を踏んだ。


 潰れて、離すと戻る。


 チェーンと定規の層はまだ荷重を支え、発酵した雨樋膜は乾き始めていた。


 責任者はしばらく考えた。


「倉庫に入るなら」


 入った。


 翌年から、河川敷の仮設観覧席には一つだけ妙な備品が加わった。


 車輪の壊れた台車や、段差を越えられない機材の下へ差し込むためのもの。


 誰も食べない。


 誰も商品名を付けない。


 ただ、上下の布輪の間に黒い鎖の層を抱えた形だけは、毎年ほとんど変わらなかった。


     *


 征二は最後の損害写真を、真鍋に撮らせた。


 会社へ戻る車の中で、真鍋が言った。


「最後、自分で撮らなくてよかったんですか」


「最後ではありません」


「現場は今日で最後ですよ」


「あなたが撮った写真を、月曜に私が確認します」


 真鍋が笑った。


「内勤で?」


「内勤で」


 征二は窓の外を見た。


 河川敷では、最後の観覧席が畳まれていた。


 声はまだ出なかった。


 だから帰社報告は真鍋に任せた。


 それが、征二がその仕事を誰かに渡した最初の一件になった。

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