《一周ぶんの着信バーガー》
最終送迎バスは、二十一時十二分に出る。
警備員の柊奏太は、その時刻を今日だけは三度確認していた。
右手の絆創膏はもう半分浮いている。制服の胸ポケットには、白い封筒が一通。昼過ぎ、競輪場の正門で七十代の女に預けられたものだ。
「整備の野上さんへ。今日でここを辞めるって聞いたから」
郵便では間に合わない。本人の電話番号も知らない。女はそう言って、封をしたままの手紙を奏太へ押しつけた。
本来なら遺失物窓口へ回すべきだった。
奏太は「分かりました」と受け取った。
その判断を上司に知られたくなかった。
野上はバックヤードの反対側、選手通路の奥にいる。だが今夜は若手記念競走の決勝で、走路横断通路は封鎖中だった。
決勝が終われば開く。
そのあと走れば、バスには間に合う。
予定では。
最終周回、先頭二車がほとんど同時に線を踏んだ瞬間、場内の照明が一度だけ暗くなった。
歓声が途中で切れた。
写真判定装置も切れた。
「復旧まで走路横断禁止!」
無線から主任の声が飛ぶ。
奏太は胸ポケットを押さえた。
二十一時まで、あと二十六分。
*
判定室前には人が詰まっていた。
審判員、機材担当、選手係。誰も怒鳴ってはいない。だから余計にまずい。正式着順が出なければ表彰も動線解除もできない。
「予備カメラは?」
「同じ瞬間だけ欠落してます」
「回線側か」
奏太は通路の端を抜けようとした。
「柊」
主任だった。
反射的に向きを変える。
「どこ行く」
「巡回です」
「今、全員ここだ」
最も会いたくない相手に捕まった。
そのとき、係員が古い内線電話の受話器を叩いた。
「こっちも死んでる。改修前の線、生きてないか?」
壁際の点検口から、灰色の電話線が引きずり出された。何年も使われていなかった銅線は硬く、被覆は粉を吹いていた。
奏太は、それを見て思い出した。
「ゴール線の接点、別系統ですよね」
主任が眉を寄せる。
「だから?」
「車輪が踏んだ順番だけなら、接点に残ってませんか」
機材担当が首を振った。
「信号は飛んだ。記録側が落ちたんだよ」
飛んだ。
なら、もう一度記録する場所があればいい。
奏太がそう言うと、主任は露骨に嫌な顔をした。
「お前、警備だぞ」
「はい」
それでも奏太は走った。
野上へ近づくためではない。
通路を開けるためだった。
*
最初に持ってきたのは救護室の防災毛布だった。
銀色の薄膜を床へ広げた瞬間、乾いた空気の中でぱちぱち鳴った。折り畳まれていた膜同士が剥がれるたび、腕の産毛が立つ。
「それで信号を取る気か?」
「電極の代わりに」
機材担当が鼻で笑った直後、毛布の端が奏太の袖へ吸いついた。
「……静電気、ひどいな」
使えるかもしれない。
奏太は二枚を何度も擦り合わせ、帯電させた。だが薄すぎる。踏ませれば破れる。
クッションになる物を探して選手休憩室へ入ると、イベント用に置かれていた卓球台の脇に交換済みのラバーが束ねてあった。地域交流イベントで使ったものらしい。
借りる、と無線で告げる。
返事を待たずに持っていく。
ラバーを一枚置いた。
足りない。
二枚、三枚、向きを変えて重ねる。粘着の残った面同士がずれ、奏太は膝で押さえた。積層したゴムは不格好な黒い板になった。
そこで一度目の失敗が起きた。
防災毛布で上下から挟み、古い電話線を接点へつないで試す。係員が靴で踏む。
ぱちっ。
反応はした。
だが、離しても反応が消えない。
「静電気拾いすぎだ」
主任が言った。
奏太は唇を噛んだ。
絆創膏が完全に剥がれ、床へ落ちた。
二十一時まで十八分。
*
「濡らせば逃がせるんじゃない?」
声は背後からした。
高校生くらいの女の子が、透明ケースを抱えている。場内イベントに出ていた地元の海洋部だった。停電で展示を撤収している途中らしい。
ケースの中には、乾燥した海藻標本。
「水は?」
「標本、戻らなくなるけど」
「借りられる?」
「返せないなら、借りるじゃないでしょ」
正しい。
奏太は一秒迷った。
「ください。弁償します」
少女は笑わなかった。
一本だけ差し出した。
乾いた海藻を水へ浸す。ぱりぱりだった葉がゆっくりほどけ、暗緑色へ戻った。食べ物には見えない。薬品臭と海の古い匂いが混じっていた。
それをラバーの上へ這わせ、防災毛布を重ねる。
再試験。
踏む。
ぱちっ。
離す。
消えた。
「いける」
機材担当がしゃがみ込んだ。
だが二度目の反転は、その直後だった。
「一台ならな。二台の順番は残らない」
信号が鳴るだけでは判定にならない。
奏太は床に垂れた古い電話線を見る。
さっき点検口から引き出す際、シャッター台車に噛まれて一部が潰れていた。被覆の中で銅線が細かく切れ、束がばらけている。
「これ、もっと砕けますか」
「線を?」
ニッパーで細かく切る。さらに工具箱のハンマーで叩く。古い銅線と被覆片が、数ミリの破片になる。
機材担当が途中で気づいた。
「散らすのか」
奏太はうなずいた。
湿った海藻の上へ銅片を置く。
その上から防災毛布を被せる。
車輪が通れば、圧力の強い位置で銅片が海藻へ食い込み、上下の膜を局所的につなぐ。二本のタイヤが完全に同じ場所を踏まないなら、痕跡が残る。
「電子記録じゃないぞ、これ」
「残ればいいです」
主任が時計を見た。
「本番の選手をもう一回走らせる気か?」
奏太は固まった。
当然だった。
レースは終わっている。
正しい装置を作ることに夢中で、終わった出来事を記録しようとしていた。
三度目の失敗だった。
*
高校生が言った。
「さっきの自転車、まだそのままじゃないの」
全員が彼女を見る。
決勝車は検車場へ運ばれていた。
ゴール後、判定確定までタイヤ交換は禁止。
タイヤそのものに何か残っている可能性がある。
奏太は走った。
二台の後輪には、ゴール付近で撒かれていた白いライン材の微粉がわずかに付着していた。肉眼ではほとんど差がない。
だが防災毛布を帯電させ、積層した卓球ラバーの上へ置き、浸した海藻を薄く挟み、砕いた電話線を散らして、その間へタイヤを一台ずつ押し当てると、銅片と粉が膜へ転写された。
一台目。
二台目。
銀色の膜に、二本の弧が残る。
先に線を踏んだタイヤほど、白い粉の帯が外周の前側へ寄っていた。
審判員は長く黙った。
「これだけでは正式判定にできない」
奏太の肩が落ちる。
「ただし」
審判員は二枚の膜を重ねた。
「残っていた接点ログの時刻差と一致する。補助資料にはできる」
そこからは大人たちの仕事だった。
奏太の即席装置が勝者を決めたわけではない。
だが、欠けていた記録をつないだ。
二十時五十八分。
着順確定。
走路横断通路、開放。
*
「行け」
主任が言った。
「え」
「巡回なんだろ」
奏太は返事をせず走った。
銀色の防災毛布二枚の間には、黒い卓球ラバーが厚く重なり、その隙間から濡れた海藻がはみ出していた。砕かれた電話線の銅片が上面に食い込み、踏まれた箇所だけ鈍く光る。
横から見れば、妙に整った層になっていた。
誰もそれについて何も言わなかった。
それは判定室の机に残され、二台の車輪が通過した順番を抱えたまま、透明袋へ収められた。
奏太は見なかった。
もう走っていた。
*
二十一時九分。
整備棟の出口で、野上は工具鞄を肩にかけていた。
「野上さん!」
振り返った老人へ、奏太は白い封筒を差し出す。
「正門で、預かりました」
野上は差出人の名前を見た。
顔から、何かが一つ抜けた。
「……まだ生きてたか」
奏太は笑いそうになったが、笑っていいのか分からずやめた。
「返事、預かりますか」
「いや」
野上は封筒を工具鞄へ入れた。
「今度は自分で行く」
二十一時十二分。
二人は最終バスに乗った。
*
翌週、競輪場では妙な変更が一つ決まった。
写真判定装置の更新ではない。それはもともと予定されていた。
停電時に電子記録だけへ依存しないよう、ゴール周辺で物理痕跡を保存する手順が追加されたのだ。
防災毛布も、卓球ラバーも、海藻も、古電話線も使わない。
当然だった。
あの一個だけは、透明袋の中で保管された。
銀の上下膜。
黒い積層ゴム。
乾き直して波打った海藻。
潰れた銅線片。
食べられない。
押せばかすかに鳴る。
そして中央には、二台の車輪が一度しか通らなかった夜の痕跡が残っている。
奏太はその保管棚の前を、辞表を持って通り過ぎた。
主任室の扉まで行き、今度は向きを変えなかった。




