《十二分遅れの遺失物バーガー》
空港の遺失物倉庫で、四十六歳の時計修理工、戸川修一は、自分の時計をなくしていた。
正確には、売り物だった。
明日の朝、常連客へ渡す予定の古い腕時計。修理を終え、帰省する娘を迎えに空港へ来たところで、工具鞄ごと保安検査場脇に置き忘れた。
「届いてます。ただし、引き渡しは明日です」
倉庫係の青年は、金網の向こうを指した。
最終便到着後の仕分け中。立入禁止。二十二時で窓口も閉まる。
修一は壁の時計を見た。二十一時四十八分。
娘の便は二十二時ちょうどに着く。
「十二分だけでいいんです」
「十二分あっても規則は変わりません」
修一は昔から、待つのが下手だった。
娘にもそれで嫌われた。進学も就職も結婚も、答えが出る前に「こうした方がいい」と言った。
今日、三年ぶりに会う。
余計なことを言わず、ただ迎える。
それだけが今日の仕事だった。
そのとき、倉庫の奥で警報が鳴った。
火災ではない。
荷崩れだった。
自動棚から落ちた箱が、非常口の前を塞いだ。仕分け担当が三人、奥に取り残された。
「そこの赤いホース!」
青年が叫んだ。
壁の消火ホースは、先月の訓練で交換予定になり、古いものが床に束ねてあった。水は通っていない。
修一はそれを引いた。
箱を引っ張るロープ代わりにする。
しかし長すぎる。
青年が倉庫用のカッターを投げた。
修一はホースを箱へ巻いた。
引く。
滑る。
締めても、箱の角でずれてしまう。
そのとき、足元で砂利が鳴った。
なぜ屋内に。
昼間、滑走路脇の植栽工事から戻った作業員が、破れた土嚢を遺失物として持ち込んでいた。持ち主不明の砂利が床へ漏れている。
「踏むな!」
青年が叫んだ直後、修一は踏んだ。
滑った。
「砂利をどけましょう」
「いや、平らな石だけ拾って」
倉庫の脇には、保守班が使う小型の湿式タイルソーがあった。修一は砂利の中から大きめの石を四つ選び、刃へ通した。
甲高い音と水しぶき。
丸い石の腹が切断され、四枚の平たい噛ませ石になった。
箱の四隅へ差し込むと、床との隙間ができた。
次に修一はホースへ等間隔に穴を開けた。革ベルト用の回転パンチが工具棚にあった。穴へ結束具を通し、箱の角ごとに固定する。
二人で引く。
今度はホースが外れない。
箱が十センチ動いた。
非常口の向こうから声がした。
「あと少し!」
そこで、二つ目の問題が起きた。
動かした箱の下から、大きな時計の文字盤が出てきた。
直径五十センチ。針はない。
空港ロビー改装で撤去された古い親時計の部品で、廃棄業者へ渡すまで遺失物倉庫の隅を借りていたらしい。
箱が乗ったせいで反っている。
青年が舌打ちした。
「それ、明日回収なんですよ」
「今は人が先です」
修一は言った。
自分でも少し驚いた。
昔なら、壊した物の弁償額を先に聞いていた。
非常口は、あと二十センチ。
だがホースを引く角度が足りない。
修一は反った文字盤を箱の下へ差し込んだ。
即席のそりにするつもりだった。
重みでさらに曲がる。
「戻らなくなりますよ!」
「戻さなくていい」
青年が修一を見た。
修一は箱を見ていた。
文字盤の縁が床に噛む。
これでは滑らない。
倉庫の隅に、手動の板金ローラーがあった。壊れた案内板や薄板を平らにする保守班の備品だ。
その横に、張り替え用の陶器タイルが二枚立てかけてあった。工事業者が置き忘れ、遺失物扱いになっている。
修一は一枚をローラーへ噛ませた。
青年が叫ぶ。
「陶器ですよ!」
分かっている。
ハンドルを回す。
タイルは平らにはならなかった。
ばきん、と割れた。
さらに圧をかけると、破片が細かな白い粒へ潰れた。
失敗だった。
だが、修一は白い粉を文字盤の反った裏へ押し込んだ。粉が隙間を埋め、がたつきが止まる。
文字盤を箱の下へ差し込む。
切断した平たい砂利が四隅を支え、白い陶器粉が接触面を噛む。
今度は滑った。
非常口が開いた。
三人が出てくる。
二十一時五十六分。
間に合った。
と思った瞬間、青年が言った。
「工具鞄、今なら出せます」
倉庫内に入った以上、仕分けは一度中断されている。本人確認さえすれば、例外処理ができるという。
修一は窓口へ走りかけた。
四歩で止まった。
壁の時計は二十一時五十七分。
工具鞄を受け取れば、娘の到着口へは間に合わない。
三年間、娘に会っていない。
腕時計の客とは二十年の付き合いだ。
どちらにも遅れたくなかった。
だから、いつも他人を急がせた。
「明日でいいです」
青年が聞き返した。
「時計ですよね?」
「時計だからです」
修一は走った。
到着口へ。
娘の便は、十二分遅れていた。
修一は笑った。
こんなに腹の立たない遅延は初めてだった。
*
倉庫では後始末が続いていた。
切断され、平たい面を持った砂利。
穴だらけになった消火ホース。
ローラーで砕け、白い粉になった陶器タイル。
反った時計の文字盤。
「これ、ばらします?」
仕分け担当が聞いた。
青年は首を振った。
非常口の下枠は荷崩れで歪み、閉めると今度は開かなくなる。朝の修理まで、人が通れる状態を保たなければならない。
修一が残した噛ませ石を二段に置く。
その間へ、陶器粉を詰めた浅い袋を挟む。
穴を開けたホースを折り返し、上下の石を縛る。
最後に、反った文字盤をその上へ被せた。
文字盤は金属製だった。
青年は保守班の溶接機で、その縁をホースの留め金へ溶接した。
火花が三度散った。
上には銀色の文字盤。
中央には白い陶器粉と赤いホース。
下には切断面を持つ砂利。
扉へ差し込むと、二つの塊が蝶番側と取っ手側を支えた。ホースを引けば扉が開き、離しても完全には閉まらない。
横から見ると、何かを何かで挟んだ、分厚い一個の塊だった。
「何ですか、これ」
「朝までの非常口」
青年は答えた。
翌朝、施設管理会社が来た。
非常口は修理された。
仮設の塊は不要になった。
ところが廃棄物回収業者は、時計の文字盤だけを指して言った。
「それ、うちの回収品です」
消防設備会社は赤いホースを指した。
「それはうちです」
工事会社は砂利を指した。
「それ、たぶんうちの土嚢です」
空港の清掃会社は陶器粉の入った袋を見て言った。
「それは倉庫の床材ですよね」
誰の物か決まらなくなった。
四社が相談した結果、塊は一度、遺失物として処理されることになった。
拾得場所は、遺失物倉庫。
持ち主は、未定。
*
翌日。
修一は工具鞄を受け取った。
娘も一緒だった。
「昨日、何時まで待ったと思う?」
修一は反射的に「便が遅れたから」と言いかけた。
やめた。
「ごめん」
娘は少しだけ目を丸くした。
それから、金網の向こうにある奇妙な塊を見つけた。
「なに、あれ」
「知らない」
修一は本当に知らなかった。
青年が奥から出てきた。
「戸川さん。昨日の時計、どうします?」
工具鞄の中には、客へ渡す腕時計がある。
修一は文字盤を見た。
十二の数字が、箱の重みで少し歪んでいる。
時間は正しく読めない。
それでも昨日、あれがなければ三人は出られなかった。
「それは、そっちで」
「回収されますよ」
「はい」
娘が修一を見た。
「珍しいね。時計、捨てるの」
「俺のじゃないから」
修一は答えた。
少し考えて、付け足した。
「俺の時間でもないし」
娘は何も言わなかった。
ただ到着ロビーへ向かうとき、いつも半歩先を歩く父親の横へ並んだ。
修一は追い越さなかった。
*
三か月後。
四社とも所有権を放棄した塊は、空港の遺失物払い下げ会に出た。
品名は「混合物」。
用途は「不明」。
最低価格は八百円。
舞台道具を集めている古道具商が、八百円で落札した。
係員二人でも持ち上がらず、台車ごと回収車へ載せる。
荷台で赤いホースが揺れた。
その下で、切断された石と白い陶器粉は崩れず、溶接された文字盤を支えていた。
十二の数字だけが、空を向いていた。




