《名前を返す休憩室バーガー》
十七歳の訪問美容師、久住ミナは、髪を切るより名前を直すほうが苦手だった。
町工場の休憩室には、今日の出張散髪の順番が貼られている。
一番 佐伯
二番 長谷川
三番 石戸
四番 久住ミナ
四番だけ、客ではない。
「これ、私です」
工場長は老眼鏡を上げた。
「知ってるよ。今日で辞める子だろ」
違う。
ミナが辞めるのは、この町の訪問美容コンテストだった。
工場への出張は続ける。
だが先週、電話で緊張して「訪問美容を辞退します」と言ってしまった。
本当は「コンテストを辞退します」だった。
訂正できないまま話が回り、工場では今日が最後の日ということになっている。
しかも休憩室の掲示板には、送別会まで書き足されていた。
《四番 久住ミナ 最後の散髪》
声は朝から枯れている。
「これ、直していいですか」
「最後なんだから好きにしな」
そこも違う。
ミナは赤ペンを取った。
*
掲示を一枚直せば済むはずだった。
ところが工場長が言った。
「同じ紙、各棟に貼ってあるぞ」
「何枚ですか」
「十二枚」
工場は小さい。
敷地は広い。
金属加工棟、塗装棟、熱処理棟、倉庫、事務所。
昼休みまで四十分。
散髪の客が来る前に十二枚を直さなければ、午後には「最後だから」と十二回見送られる。
ミナは赤ペンを握って休憩室を飛び出した。
これが、妙に長い冒険の始まりになった。
*
一枚目は事務所。
二枚目は塗装棟。
三枚目を直したところで、赤ペンが書けなくなった。
ミナは振った。
インクは出ない。
塗装棟の作業員が、机の輪ゴムを渡した。
「ペンに巻けば滑らないよ」
役には立たなかった。
ただ、輪ゴムはもらった。
四枚目の掲示は洗浄室にあった。
消毒液の容器が倒れ、床が濡れている。
ミナは紙を剥がそうとして、輪ゴムを落とした。
透明な液へ沈む。
拾い上げると、表面がぬるりとしていた。
「それ捨てて」
作業員が言う。
「薬液吸ってるから」
ミナは廃棄袋へ入れた。
そのとき放送が鳴った。
《久住さん、休憩室へ戻ってください。お客様がお待ちです》
まだ四枚。
ミナは走った。
*
待っていたのは佐伯だった。
八十二歳。
元旋盤工。
「最後なんだってな」
「違うんです」
言えた。
だが枯れた声は小さく、ドライヤーの試運転に消された。
「え?」
「……あとで言います」
また逃げた。
佐伯の髪を切る。
床を掃く。
清掃用のちり取りが割れていたので、休憩室の隅にあった古い植木鉢へ髪を集めた。
誰も植物を植えていない鉢だった。
「それ、熱処理棟の試験片入れだぞ」
工場長が言った。
「植木鉢に見えます」
「植木鉢だよ。安いから使ってる」
散髪が終わる。
佐伯は代金と一緒に、黄色いテニスボールを一個置いた。
「孫の忘れ物。椅子ががたつくから脚に噛ませてた」
「持って帰ってください」
「俺のじゃない」
ミナの荷物が増えた。
*
五枚目は熱処理棟。
掲示を直している間、作業員が植木鉢を持っていった。
「試験片、これに入ってる?」
「髪です!」
遅かった。
鉢は耐火トレーに載せられ、高温炉の予熱側へ入った。
止められない工程ではない。
止めればいい。
けれど炉内には別会社から預かった試験材がある。
ミナは叫んだ。
「鉢だけ取れませんか!」
「もう軟化域まで上がってる!」
安物の鉢は耐火容器ではなかった。
赤くなり、縁から崩れ、釉薬と素地が粘る。
作業員が火ばさみでトレーごと引き出した。
鉢は、平たい二つの塊へ分かれていた。
中の髪は焦げて消えている。
「ごめん」
「私の鉢じゃないです」
二人とも少し黙った。
*
六枚目は塗装棟の裏。
そこでテニスボールを落とした。
運悪く、廃溶剤を拭き取る金属バットへ転がった。
黄色いフェルトがみるみる縮れる。
接着層が侵され、表面が剥がれた。
作業員がトングで拾う。
「これはもう返せないな」
中のゴム球も白く荒れている。
ミナは思った。
返せないものばかり増えていく。
鉢。
ボール。
言い間違えた言葉。
そのとき初めて、掲示を十二枚直しても駄目だと気づいた。
紙を直すことと、本人に訂正することは違う。
七枚目へ向かう足が止まった。
*
休憩室へ戻ると、二番の長谷川が待っていた。
テーブルには古いカセットテープ。
「これ、店で流せる?」
「何ですか」
「工場歌」
「工場歌?」
創業四十周年に社員が録音したらしい。
再生機は壊れている。
磁気テープだけ取り出し、長谷川は指に絡めていた。
「最後なら記念にやる」
「最後じゃありません」
今度は聞こえた。
長谷川が止まる。
「じゃ、送別会は?」
「ありません」
「弁当、十二人分頼んだぞ」
「……すみません」
そこへ工場長が入ってきた。
「二十六人分だ」
増えていた。
ミナは目を閉じた。
掲示十二枚の問題ではなくなった。
*
訂正は、一人ずつすることになった。
散髪しながら。
「辞めません」
「大会だけ辞退します」
「電話で言い間違えました」
「そのままにしてました」
「すみません」
三番。
四番。
五番。
言うたびに少し声が出るようになった。
誰も怒らなかった。
ただ、注文済みの弁当二十六個だけが残った。
「これどうする」
工場長が聞く。
「私が払います」
「高校生が二十六個?」
「働いてます」
「そういう問題じゃない」
送別会は消えた。
昼食会だけ残った。
*
午後、清掃当番が始まった。
ミナも残った。
自分のせいで増えた弁当の容器を片づけるためだった。
洗浄室の廃棄袋から、薬液に浸かった輪ゴムが出てきた。
膨潤して柔らかくなり、何本かが互いに貼りついている。
熱処理棟からは、溶けて平板状になった植木鉢の欠片が二枚返ってきた。
塗装棟からは、腐食してフェルトの剥げたテニスボール。
長谷川はカセットを分解したまま忘れて帰り、磁気テープが長く垂れていた。
「全部、持ち主不明だな」
工場長が言った。
「だいたい持ち主、分かります」
「じゃあ返せ」
それが難しい。
鉢は工場。
ボールは佐伯の孫。
テープは長谷川。
輪ゴムは塗装棟。
ミナは四つを、それぞれ返しに行くことにした。
まずテープを巻き直そうとした。
だが洗浄室の温風機の前に置かれていた部分だけ、樹脂が熱で軟らかくなっている。
冷えると、その形のまま固まった。
細い黒い帯が、何重にも折れた硬い束になった。
「最悪」
直すつもりが、さらに壊した。
*
佐伯はまだ駐車場にいた。
腐食したボールを見せると笑った。
「孫に返したら怒るな」
「弁償します」
「いらん。代わりに何があったか覚えとけ」
「覚えてます」
「お前じゃない。物にだ」
意味が分からなかった。
佐伯は工場へ戻り、溶けた鉢の板を二枚持ってきた。
その間へ、潰れて半球になったテニスボールを置く。
「挟め」
「なんでですか」
「転がるから」
ミナは膨潤した輪ゴムを巻いた。
柔らかいゴムが板の縁へ密着する。
固定しようとして、固まった磁気テープの束を隙間へ差し込んだ。
それだけでは緩い。
上からもう一枚の鉢片を重ねる。
ずしり、と沈む。
白茶色の焼けた板。
中央で潰れた黄色い球。
縁を這う半透明の輪ゴム。
横から突き出す黒い磁気テープ。
熱と溶剤と消毒液の匂いが、わずかに混じっている。
高さ十二センチほどの、不格好な一個の積層物になった。
「何ですか、これ」
「知らん」
佐伯は黒いテープの端を引いた。
磁性面には、熱で固まらなかった部分が残っている。
工場長が古い再生ヘッドを倉庫から持ってきた。
手回しでテープを走らせる。
ざあっ。
雑音。
そのあと、長谷川の若い声がした。
『四十周年、おめでとうございます』
全員が黙った。
テープは壊れ切っていなかった。
固まった部分が重しになり、輪ゴムがテンションを保ち、二枚の鉢片が即席の台になっている。
腐食したボールは中央で潰れ、回転するテープの振動を吸収していた。
まともな再生機ではない。
一曲もきれいには聞けない。
それでも、記録は出てきた。
途中で工場歌が途切れた。
代わりに今日の声が入った。
再生ヘッドの配線を試していたとき、誤って録音側へ通電したらしい。
『辞めません』
『大会だけ辞退します』
『電話で言い間違えました』
ミナの声。
二十六人へ、何度も同じ訂正をしている。
ミナは頭を抱えた。
「消してください」
佐伯が笑った。
「記録されたものは、そう簡単に消すな」
「間違いの記録ですよ」
「訂正した記録だろ」
*
夕方。
ミナは十二枚の掲示を回収した。
赤ペンで直すのをやめた。
新しい紙を一枚だけ、休憩室へ貼った。
《次回 来月第二火曜日》
名前は書かなかった。
工場長が見る。
「四番は?」
「予約表は私が持って帰ります」
「また来るのか」
「来ます」
今度は声が枯れなかった。
*
四つの物は、それぞれ返された。
輪ゴムは塗装棟へ。
鉢片は熱処理棟へ。
ボールは佐伯へ。
磁気テープは長谷川へ。
ただし、ばらばらにはできなかった。
外せば再生できなくなる。
だから四人は相談して、一個のまま順番に所有することにした。
一週間ずつ。
最初は長谷川。
次は佐伯。
その次は熱処理棟。
最後は塗装棟。
四週間後、また休憩室へ戻す。
ミナには回ってこない。
それでよかった。
翌月第二火曜日。
ミナが休憩室へ入ると、例の塊がテーブルに置かれていた。
佐伯が椅子に座っている。
「一番、俺」
「予約してませんよね」
「した」
「誰に」
工場長が手を挙げた。
壁の新しい予約表には、今度こそ正しい名前が並んでいる。
一番 佐伯。
その下に、仕事をする側の名前が小さく書かれていた。
久住ミナ。
ミナはそこを直さなかった。




