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《一室だけの洗車場バーガー》


山あいのガソリンスタンドで、客が来ないことは珍しくない。


客が帰らないのは、少し困る。


「ここに署名だけお願いします」


二十九歳の瀬尾直樹は、休憩室のテーブルへ申請書を置いた。


向かいの老人は読まない。


窓の外で、自分の軽トラックを見ている。


泥だらけだった。


「洗ってくれたら書く」


「僕、店員じゃないです」


「知っとる」


直樹は三日前まで、住宅設備の営業だった。


今日は会社から頼まれた最後の仕事として、老人の給湯器交換に必要な補助金申請書を回収しに来た。


退職したことを会社は老人へ伝えていない。


直樹も言っていない。


一枚だけ署名をもらえば、これで終わる。


それなのに老人は言った。


「お前が汚した」


軽トラックの側面には、山道で直樹の車が跳ねた泥が、扇形に乾いていた。


確かに自分のせいだった。


「分かりました。洗います」


*


スタンドは改装前で、洗車機が止まっていた。


店主は給油所に一人。


「裏の清掃室なら水道あるよ」


直樹は軽トラックを洗うのではなく、泥のついたドアだけ外して持ち込むことになった。


老人が自分で外した。


「昔、板金屋だったから」


「先に言ってくださいよ」


「聞かれとらん」


清掃室は六畳ほどだった。


流し台。

業務用掃除機。

洗剤棚。

床の排水口。


壁には、改装で剥がした白い陶器タイルが積んである。


棚の箱には、制服から外した大量のプラスチックボタン。


スタンドで貸している自転車の交換済みチューブも束ねてあった。


流しの横には黄色い洗車スポンジ。


由来の違うものが、狭い部屋へただ集まっていた。


直樹は老人のドアを床へ置いた。


「これ洗ったら、署名してください」


「きれいになったらな」


*


最初に壊れたのは、直樹の靴だった。


水を撒いた瞬間、剥がれかけていた右の靴底が完全に外れた。


老人が笑う。


「人の車より自分を直せ」


「今日は車です」


スポンジへ洗剤を含ませる。


泥を擦る。


落ちない。


山道の赤土に、道路工事の石灰が混じって固まっている。


老人が言った。


「凍らせろ」


「なんで?」


「泥が縮む」


清掃室には、飲料用製氷機の故障確認に使う保冷庫が残っていた。改装業者が電源を入れたままにしている。


直樹は濡らしたスポンジを二個、保冷庫へ入れた。


「ドアを入れれば早い」


「入りません」


「じゃあスポンジで冷やせ」


妙な洗車だった。


*


十分後。


凍ったスポンジは硬かった。


泥へ押し当てる。


ぱき、と薄い層が割れた。


「おお」


直樹は嬉しくなって、もう一個を取ろうとした。


そのとき停電した。


照明が消える。


換気扇も止まる。


自動ドアではない。


問題ない。


そう思った直後、外から轟音がした。


山の上で雷が落ちたらしい。


店主が扉を開けた。


「二人とも、ここから出ないで!」


「なんで」


「雹!」


屋根を叩く音が急に大きくなる。


ぱらぱらではない。


石を投げつける音だった。


直径三センチほどの氷が、給油所へ降り始めていた。


軽トラックの残った車体は屋根の下。


直樹たちのいる清掃室も安全。


ただし一室だけだった。


*


老人は窓へ近づいた。


「ドア」


外した軽トラックのドアだけが清掃室にある。


「これだけ無事でもしょうがないですね」


「そういうことじゃない」


老人はドアの泥を指した。


凍ったスポンジを当てた場所だけ、きれいに剥がれている。


「続き」


「今?」


「今だからだ」


直樹は呆れた。


だが署名はまだない。


もう一個のスポンジを保冷庫から出した。


停電で少し柔らかくなっている。


床へ落とした。


そこへ雹が一個、換気口を突き破って飛び込んだ。


スポンジに当たる。


黄色い塊が裂けた。


「うわ」


「凍って脆くなっとる」


スポンジの破片が床へ散った。


一個は排水口へ詰まった。


水が引かなくなる。


反転は早かった。


泥を落とす道具が、今度は清掃室を水浸しにし始めた。


*


直樹は排水口へ手を突っ込んだ。


スポンジが奥へ入って取れない。


業務用掃除機を見る。


乾湿両用。


吸える。


電気がない。


「手動で吸えんのか」


「掃除機を?」


老人が、壁際の真空保存機を指した。


清掃用の布を圧縮保管するためのものだった。


停電する前に途中まで動いていたらしく、透明袋の中で自転車チューブが一束、ぺしゃんこになっている。


店主が廃棄チューブを省スペース化しようとして、試しに入れたらしい。


真空処理は終わっていた。


「それ使え」


「どうやって」


袋を開く。


潰れたチューブは、平たい黒い帯になっていた。


空気を入れれば戻る。


だがポンプは外だ。


直樹は帯を排水口へ押し込み、スポンジへ引っ掛けた。


引く。


途中で切れた。


「駄目だ」


老人が言う。


「結べ」


*


結び目を細くするため、直樹はボタン箱をひっくり返した。


ボタンを留め具に使おうとする。


だが古い洗剤が漏れていた箱の底では、金属メッキされたボタンだけ表面が腐食していた。


縁がざらざらに欠けている。


一個をチューブへ押しつけると、ゴムに噛んだ。


もう一個。


三個。


腐食した縁が、滑るチューブを固定する。


「こんな使い方するものじゃないな」


「掃除ってのは、だいたいそうだ」


老人が言った。


「汚したやつの予定通りには進まん」


直樹は返事をしなかった。


会社を辞めた理由を思い出したからだ。


自分が取った契約の工事日を間違えた。


後輩の入力ミスということにした。


あとで訂正した。


でも、訂正するまでの半日だけは、逃げた。


今日この申請書を自分で回収すると言い出したのは、その後だった。


*


チューブを引く。


スポンジが出た。


排水が一気に流れる。


成功。


そして別のものが流れた。


老人の申請書だった。


テーブルから落ちて水に浸かり、床を滑って排水口へ向かう。


「待って!」


直樹が踏む。


右足。


靴底のない靴下が水へ沈む。


紙は止まった。


しかし濡れた。


署名欄はまだ空白。


「乾かせば使えます」


「書き直せばいい」


「予備、車です」


外は雹。


老人が笑った。


「今日は何でも外にあるな」


*


紙を乾かす場所がない。


停電。

暖房なし。

外へ出られない。


直樹は壁の陶器タイルを見た。


改装前、清掃室の壁だったもの。


二枚を流し台へ置く。


申請書を挟む。


水を吸わない陶器だから乾燥には向かない。


むしろ逆だ。


そこで一枚を床へ置き、老人に踏んでもらった。


表面を靴底で研ぐ。


目地材の残りが削れ、ざらつきが減る。


もう一枚も研磨する。


「何してる」


「紙を破らないようにしてます」


「乾かんぞ」


「分かってます」


濡れた申請書を布で挟み、その上下へタイルを置いた。


重しにする。


紙の水分を布へ移す。


上に、腐食したボタンで固定した黒いチューブを置く。


押さえとしては足りない。


老人が、凍ったスポンジの残りを持ってきた。


「これも乗せろ」


「冷やしたら乾きません」


「紙じゃない。ずれる」


スポンジをタイルの四隅へ噛ませる。


滑り止めになった。


*


雹はさらに強くなった。


換気口の穴が広がる。


氷が清掃室へ飛び込む。


直樹と老人は流し台の下へ逃げた。


だが申請書がある。


直樹は積んだものを抱えようとした。


重い。


陶器タイル二枚。

間に布と申請書。

その上へ平たく真空処理された自転車チューブ。

腐食したボタン。

四隅に凍った黄色いスポンジ。


持ち上げた瞬間、タイルがずれた。


「危ない!」


老人が下から支える。


二人で押さえる。


雹が一発、上のタイルへ当たった。


割れない。


もう一発。


白い表面に小さな傷。


そのまま二人は、積層した塊を頭上へ掲げた。


一人では狭い。


二人なら、流し台と壁の間へ渡せる。


置く。


黒いチューブを壁の配管へ巻く。


腐食したボタンがゴムへ噛み、ほどけない。


凍ったスポンジがタイルと壁の隙間を埋める。


即席の屋根になった。


その下へ二人が入る。


上下の白い板。

厚い黄色の層。

黒い帯。

銀色の小さな粒。


中央には、乾かしかけの申請書。


食べ物には見えない。


けれど横から見れば、妙に一個の塊として完成していた。


幅四十八センチ。

奥行き三十二センチ。

重さ七・四キロ。


濡れた陶器は冷たい。

凍ったスポンジから水が滴る。

チューブはゴム臭い。

ボタンは触れるとざらつく。


雹が当たるたび、屋根全体が低く鳴った。


とん。

とん。

ごん。


一室の中に、もう一つ小さな建造物ができた。


*


「署名」


老人が言った。


「今ですか」


「紙、そこだろ」


中央から申請書を引き抜く。


布が水を吸い、書ける程度には乾いていた。


老人は膝の上で署名した。


直樹は受け取る。


目的は達成した。


老人が聞いた。


「これで会社に戻るのか」


「戻りません」


「じゃあ何でこんなことしとる」


直樹は申請書を見た。


「僕が始めた仕事だからです」


「会社の仕事だろ」


「僕が間違えた仕事でもあります」


老人は少し黙った。


「なら、最初からそう言え」


直樹は笑えなかった。


痛いところだった。


*


三十分後、雹は止んだ。


店主が清掃室へ入ってきた。


二人を見て、それから流し台の上の構造物を見る。


「何これ」


直樹は説明しようとした。


老人が先に言った。


「屋根」


間違ってはいない。


店主は割れた換気口を見上げた。


「それ、外さないで」


「もう雹、止みましたよ」


「雨が来る」


山の向こうが真っ黒だった。


直樹と老人は顔を見合わせた。


別の事件が、こちらへ向かっていた。


*


直樹は申請書を鞄へ入れた。


スマートフォンを出す。


会社ではなく、母親の番号を開いた。


三か月、かけていない。


発信ボタンの上で指が止まる。


老人が軽トラックのドアを持ち上げた。


泥は半分しか落ちていない。


「洗車、途中だぞ」


「雨で落ちませんか」


「それをお前が言うか」


直樹は笑った。


電話をかけた。


呼び出し音の向こうで、最初の雨粒が、即席の屋根を叩いた。

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