《拾った人が持ち主バーガー》
地方裁判所の地下倉庫で、十四歳の見習い製本工が探していたのは、一冊の本ではなかった。
一枚の紙だった。
「青い測量図。A2。端に赤鉛筆で三角」
師匠の戸田が電話で言った。
「昨日、綴じ直した記録簿に挟まってたはずだ」
「挟まってませんでした」
「じゃあ落としたんだろ」
「僕が?」
「俺かもしれん」
それを先に言え、と柊は思った。
口には出さない。
今日中に見つければ、誰が落としたかを決めなくて済む。
それが柊の目的だった。
*
地下倉庫には、町の区画整理をめぐる訴訟資料が運び込まれていた。
古い測量図。
現況写真。
土地台帳。
模型。
製本所は、水濡れした記録簿の修復を請け負っている。
柊は夏休みだけの手伝いだった。
なくなった測量図は証拠資料ではない。
裁判所の測量担当者が現場確認に使った作業用の複写図。
それでも紛失は紛失だった。
管理官へ言えば話は早い。
柊は言いたくなかった。
謝るのが嫌なのではない。
謝った瞬間、誰の失敗かが決まってしまうのが嫌だった。
*
棚の下を覗く。
紙はない。
代わりに、黒い電話線が一本あった。
柊のものだった。
製本所で紙束を仮止めするとき、太いコードを重し代わりに巻く癖がある。
昨日ここへ持ってきた。
「これも忘れてたのか」
拾い上げる。
被覆の一部が潰れて平たい。
昨日、資料運搬用のローラー台に噛んだらしい。
柊は線をポケットへ入れた。
財布は空だった。
昼のパンも買えない。
今日は本当に、ろくなものを持っていない。
*
倉庫の奥には、係争地の立体模型があった。
道路予定地を示す白い砂利が、透明ケースの中へ敷かれている。
一か所だけ穴が開いていた。
砂利が減っている。
床を見る。
白い粒が点々と続いていた。
「道みたいだ」
柊は辿った。
非常扉の前で途切れる。
扉は開かなかった。
向こうから何かが押している。
「誰かいます?」
返事。
「いる」
女の声だった。
*
扉の向こうは、隣接する旧庁舎の地下通路だった。
改修工事中で閉鎖されている。
清掃員が一人、資材棚の転倒で閉じ込められていた。
怪我はない。
内側から棚を押しているが動かない。
「人呼んで」
「はい」
柊は階段へ走りかけた。
女が扉越しに言った。
「その前に、そこに白い石ない?」
「あります」
「私の」
「え?」
「模型から落ちたやつ。昨日、借りた」
「砂利を?」
「棚の脚ががたつくから」
裁判所の展示模型から勝手に持っていったらしい。
柊は管理官を呼ぶのをやめたくなった。
面倒の種類が増えた。
*
女の名は水沢。
清掃会社のアルバイト。
棚を動かすには、扉の下の隙間から何かを入れ、倒れた棚の脚を少し持ち上げる必要があるという。
柊は白い砂利を一粒差し込んだ。
小さすぎる。
二粒。
砕ける。
「駄目」
「石、袋に入れられない?」
柊は周囲を探した。
袋はない。
代わりに麻縄があった。
昨日、戸田が大型台帳を縛って運んだもの。
柊の私物扱いになっている。端に名前を書いた布片が結んであるからだ。
「縄なら」
「編める?」
「本なら綴じられる」
「似たようなもんでしょ」
「違います」
言いながら、柊は編み始めた。
*
砂利を麻縄の目へ押し込む。
ばらばら落ちる。
柊は電話線を取り出した。
平たく潰れた部分を床のローラー台へ通した。
何度も往復させる。
丸かった線が帯になる。
銅芯は切れていない。
柔らかい黒い帯で、編んだ麻縄を外側から巻いた。
砂利が落ちなくなった。
「できた?」
「たぶん」
扉の下へ差し込む。
向こうで水沢が引く。
ぎりぎり通った。
「重い」
「石ですから」
「これ、何?」
「僕も分かりません」
*
水沢が即席の砂利袋を棚脚へ噛ませた。
持ち上がったのは数ミリ。
足りない。
「もう一個ほしい」
「砂利、もう勝手に使えないです」
「今さら?」
正しかった。
柊は模型を見る。
白い砂利の道。
赤い杭。
小さな家。
道路予定線。
その下に、青い紙が見えた。
「あった」
透明ケースの底。
なくした測量図だった。
昨日、誰かが模型ケースを開けたとき、下へ滑り込んだらしい。
見つかった。
目的達成。
柊は青い図面を引き抜いた。
帰れる。
*
扉の向こうで、水沢が言った。
「ねえ」
「はい」
「棚、戻った」
砂利袋が潰れたらしい。
「人呼びます」
「その図面、硬い?」
柊は黙った。
A2の測量図。
水濡れ防止のためラミネートされている。
折れば厚みは出る。
だが探していたものそのものだ。
「それ使ったら怒られる?」
「怒られます」
「じゃあやめとこ」
水沢はあっさり言った。
その言い方が、柊には困った。
*
階段を上がれば管理官がいる。
事情を話せば終わる。
測量図も戻せる。
自分も戸田も謝ればいい。
柊は一段上がった。
止まった。
扉の向こうから、金属が軋んだ。
「水沢さん?」
返事がない。
柊は戻った。
「図面、使います」
「怒られるんでしょ」
「あとで怒られます」
初めて、順番を決めた。
*
測量図を折ろうとして、やめた。
折り目をつければ、位置情報が読めなくなる。
倉庫の隅に測量用の蛍光管があった。
現場写真を確認する携帯照明の交換品。
一本だけ、保護ケースが割れて廃棄予定になっている。
ガラス管は無事だった。
柊はそれを布で包み、床へ置いた。
「何するの」
「薄くします」
「蛍光管を?」
「図面を」
蛍光管をローラー代わりにして、ラミネート図を何度も押した。
熱で波打っていた部分が平らになる。
しかし管の端が欠けた。
白い粉が布の中へ落ちる。
柊は手を止めた。
割らない。
ここから先は使えない。
異常なことは何も起きなかった。
壊れかけた蛍光管は、壊れかけたままだった。
*
平らになった図面を二つ折りにする。
間へ砂利袋を挟む。
上下から図面が砂利を押さえる。
だが滑る。
麻縄を追加して締める。
電話線の帯を外周へ巻く。
まだ柔らかい。
水沢が向こうから言った。
「棚の角、尖ってる」
「どのくらい?」
「指二本くらい」
柊は蛍光管の金属口金だけを外した。
ガラスには触れない。
口金を布で包み、靴底で踏んだ。
薄く潰れる。
二枚になった金属片を、図面の上下へ当てる。
砂利。
麻縄。
電話線。
ラミネート図。
潰した金属口金。
全部が一つの厚い塊になった。
長さ二十六センチ。
幅十五センチ。
厚さ九センチ。
上下は青い測量図。
中央は白い砂利を抱いた麻縄。
黒い電話線が層を締め、銀色の金属片が端に食い込んでいる。
持つと予想以上に重い。
砂が擦れる音がする。
ラミネートは冷たく、電話線にはローラーの熱が少し残っていた。
柊は扉の隙間へ押し込んだ。
*
水沢が引く。
「入った」
棚脚の下へ置く。
「押すよ」
柊も扉を押した。
向こうで水沢が棚を持ち上げる。
塊が潰れる。
砂利が麻縄の中で組み替わる。
図面が上下からたわむ。
電話線が締まる。
金属片が脚へ噛む。
棚が止まった。
扉が五センチ開く。
十センチ。
水沢の手が出た。
柊が掴む。
「引っ張るよ」
「待って」
「何」
「これ、置いてく」
「何を」
「挟んだやつ。抜いたら棚倒れる」
柊は頷いた。
探していた測量図は、そこに置くしかなかった。
見つけたのに、持ち帰れない。
*
管理官が来たのは、そのあとだった。
水沢は助かった。
棚は業者が固定した。
模型の砂利を勝手に使ったことも、測量図を折ったことも、廃棄予定の蛍光管から口金を外したことも、全部ばれた。
「誰がやった」
管理官が聞いた。
柊と水沢は同時に口を開いた。
「僕です」
「私です」
二人とも止まる。
柊は水沢を見る。
水沢が笑った。
「交換しない?」
「何を」
「怒られる係」
柊も少し笑った。
「半分ずつで」
*
戸田は電話で三十秒黙った。
それから言った。
「図面は?」
「あります」
「あるなら持って帰れ」
「持って帰れません」
「なんで」
柊は説明した。
長かった。
途中で何度も、自分の責任ではない部分を強調したくなった。
しなかった。
最後まで話す。
戸田はまた黙った。
「で、お前は何をなくした」
「図面です」
「違う」
柊は考えた。
財布は最初から空だった。
電話線は扉の向こう。
麻縄も向こう。
図面も向こう。
「いろいろです」
「じゃあ明日、取りに行け」
「日曜です」
「月曜だな」
*
月曜日。
地下倉庫の棚は撤去されていた。
例の塊もなかった。
柊は青い図面だけでも回収できないかと探した。
ない。
管理官へ聞く。
「工事業者が持っていったかもしれない」
「廃棄ですか」
「さあ」
水沢も知らなかった。
誰かに拾われた。
それだけだった。
*
三週間後。
町の反対側にある古道具市で、妙な物が売られていた。
青い板を上下に重ね、その間に白い砂利と麻縄を挟み、黒い線でぐるぐる巻きにした塊。
端には潰れた銀色の金属。
値札はない。
店主も由来を知らない。
「工事現場の箱に入ってたんだよ」
客の男が持ち上げる。
「何に使うんです?」
「さあね」
「じゃあ、なんで売ってるの」
店主は答えた。
「拾った人が、いらないって言わなかったから」
男は百円玉を置いた。
*
そのころ柊は製本所で、新しい台帳を綴じていた。
戸田が聞いた。
「今度は落とすなよ」
「はい」
「返事だけはいいな」
柊は麻糸を締めた。
少し迷ってから言った。
「この前の図面、僕がなくしました」
戸田は手を止めた。
「知ってる」
「でも、見つけました」
「それも聞いた」
「それで、またなくしました」
戸田は笑った。
「じゃあ次は?」
柊は糸を結んだ。
「なくしたって言います。先に」
その日、製本所から落とし物は一つも出なかった。




