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《月曜まで預かれないバーガー》


閉館五分前、図書館の返却口から亀が出てきた。


本ではない。


甲羅に白い番号が書かれた、手のひらより少し大きなクサガメだった。


「生きてる」


高校二年の図書委員、御厨杏奈が言うと、亀は首を引っ込めた。


司書の野上は返却口の奥を覗いた。


本が三冊。

DVDが一枚。

亀が一匹。


「月曜まで預かれないな」


今日は土曜日だった。


*


杏奈には亀より先に困っていることがあった。


閉館後、学校へ戻って図書委員会の推薦文を提出しなければならない。


大学の学校推薦に必要だった。


締切は今夜六時半。


あと五十分。


文章はできている。


ただ、最後の一行だけ空白だった。


《私は将来、》


そこから書けない。


進路希望には司書と書いた。


本当は分からない。


先生には「迷っていることは書かなくていい」と言われた。


だから書けなかった。


「私、もう行きます」


杏奈が鞄を持つ。


亀が返却台から落ちた。


ころん、と甲羅で一度回った。


杏奈は鞄を置いた。


*


警察へ電話すると、拾得物として生き物は受けられないと言われた。


保健所は時間外。


近くの動物病院は診察終了。


甲羅の番号は油性ペンではなかった。


白い塗料で、17。


「レース亀?」


「そんなものある?」


野上が検索する。


出てこない。


杏奈は亀を段ボール箱へ入れた。


底に、廃棄予定だったゴム製のブックカバーを敷く。


滑らないようにするためだ。


亀はその上でじっとした。


「これで朝まで」


「図書館、日曜休館」


「月曜まで」


野上は首を振った。


「空調切れる」


*


返却口の奥から、もう一つ出てきた。


古い方位磁針だった。


学校教材のような大きなもの。


返却本に挟まっていたらしい。


針は北を向かない。


亀を向いていた。


杏奈が箱を動かす。


針も動く。


「飼い主の手掛かり?」


方位磁針の裏に、隣町の自然観察会の刻印があった。


電話番号は消えている。


野上が市役所の古い広報誌を探し始める。


杏奈は時計を見る。


六時まで、三十八分。


帰れば間に合う。


亀を見る。


「私じゃなくてもいいですよね」


「もちろん」


野上は答えた。


杏奈は鞄を持った。


方位磁針の針が、今度は杏奈を向いた。


「……なんで」


亀は箱の中にいる。


針だけが彼女を追う。


*


杏奈は方位磁針を裏返した。


底板が浮いている。


隙間に紙が挟まっていた。


自然観察会の古い参加証。


二十年前の日付。


名前は御厨沙織。


杏奈の母だった。


「うそ」


母は亀が嫌いだ。


少なくとも杏奈はそう思っていた。


子供のころ、公園で亀を拾ったとき、絶対に持ち帰るなと言われた。


杏奈は母へ電話した。


出ない。


もう一度。


留守番電話。


「お母さん。亀、知ってる?」


自分でも意味が分からない伝言になった。


*


広報誌が見つかった。


二十年前の自然観察会。


写真の端に、中学生の母がいた。


手には亀。


甲羅に17。


「同じ?」


野上が聞く。


「クサガメなら二十年以上生きます」


杏奈は写真を拡大した。


母の隣に、もう一人いる。


少年。


顔は半分切れている。


記事には、観察会終了後、標識個体を元の池へ放流したとある。


なら、どうして図書館へ来た。


しかも返却口から。


*


亀が動き始めた。


箱の角を押す。


ゴムのブックカバーがめくれる。


その下にあった古い吸水紙へ水が染みた。


亀の甲羅が濡れている。


野上が雑巾を取りに行った。


杏奈は吸水紙を持ち上げた。


紙には何も書かれていなかった。


だが水を吸った部分だけ、細かな凹凸が浮いた。


池の形。


「地図?」


方位磁針を置く。


針が地図の一点を指した。


自然観察会の記事にあった放流池だった。


杏奈は時計を見た。


六時九分。


学校まで二十分。


今出ればぎりぎり。


*


「行って」


野上が言った。


「でも亀」


「私が池へ持っていく」


「車ないですよね」


「タクシー」


杏奈は推薦文を取り出した。


空白の最後の一行。


亀。

母。

二十年前。

自分の締切。


何の関係もない。


だから腹が立った。


「なんで今日なの」


亀は答えない。


代わりに段ボール箱を押し、机から落とした。


杏奈が受け止める。


その拍子に、廃棄箱の中身まで床へ散った。


ゴム製ブックカバー。

古い吸水紙。

方位磁針。


それから、改装業者が忘れていったアルミ製のパンチング板。


返却口の内側を補強するために切った余りだった。


*


亀を安全に運ぶ容器がない。


段ボールでは濡れて底が抜ける。


杏奈はパンチング板を二枚借りた。


業者が角を落とすため置いていた手動ローラーへ通す。


板が緩く湾曲する。


上下から箱を挟める形になった。


ゴム製ブックカバーは細長く切った。


乾いて硬くなっていたので、給湯室の湯へ浸す。


柔らかくなったゴムを、二枚の板の縁へ巻く。


亀が金属へ直接当たらないためだ。


吸水紙は何枚も重ねた。


水を含ませ、中央へ置く。


その上へ亀。


方位磁針は外した。


なくても池の場所は分かる。


すると亀が首を伸ばし、磁針の革紐を噛んだ。


「いるの?」


離さない。


仕方なく杏奈は磁針を上へ載せ、革紐をパンチング穴へ通した。


二枚の湾曲板。

水を含んだ厚い紙。

黒いゴムの縁。

中央で甲羅を低くした亀。

その上で揺れる方位磁針。


持ち上げると、ずしりと重い。


金属はまだローラーの摩擦で温かく、濡れた紙は冷たい。ゴムから古い図書館の埃の匂いがする。


亀だけが静かだった。


「これで行ける」


杏奈は言った。


「どこへ?」


野上が聞く。


杏奈は推薦文を鞄へ戻した。


「池」


*


タクシーの中で母から電話が来た。


『亀って何』


「十七番」


沈黙。


『どこにいるの』


「今、一緒」


また沈黙。


『返して』


「誰に?」


母は答えなかった。


代わりに池の名前を言った。


同じだった。


*


池には母が先にいた。


仕事帰りの服のまま。


杏奈が運搬具を下ろすと、母は亀を見た。


「まだ生きてたんだ」


「知ってたんじゃん」


母はしゃがんだ。


甲羅の17を指でなぞる。


「観察会のあと、一度だけ持ち帰った」


「記事には放したって」


「放した。次の日に」


「なんで?」


母は亀を見たまま言った。


「一緒にいた子が、引っ越す日だったから」


写真の少年。


「好きだったの?」


「中学生に聞く質問じゃない」


「今四十過ぎでしょ」


母が笑った。


初めて、写真の中の中学生と同じ顔になった。


*


亀を水際へ置く。


ところが動かない。


母が首を傾げた。


「ここじゃない」


「え?」


二十年前、池は改修されていた。


放流場所は現在の水際ではなく、柵の向こうの小さな湿地だった。


立入禁止。


杏奈は係員を探した。


管理事務所は閉まっている。


柵を越えれば戻せる。


母は言った。


「やめよう。明日にしよう」


「明日、図書館休み」


「家で預かる」


「亀嫌いじゃなかったの?」


母はしばらく黙った。


「嫌いだったことにしたの」


少年と亀を、同じ場所へ置いてきたから。


*


杏奈は柵を越えなかった。


推薦を諦めたうえに、不法侵入まで追加する気はなかった。


代わりに、湿地へ続く排水路を見つけた。


幅は運搬具より少し狭い。


二枚のアルミ板をさらにローラー代わりの柵柱へ押しつけ、母と曲げた。


上下の湾曲が深くなる。


吸水紙が圧縮される。


ゴムが縁を締める。


方位磁針が上から押され、亀の甲羅へ触れない位置で固定された。


細長くなった塊を排水路へ差し込む。


押す。


途中で止まる。


母も押す。


もう一度。


通った。


向こう側で、上下のアルミ板が湿地の泥へ開いた。


亀が這い出す。


方位磁針の針が震えた。


北ではなく、亀を追った。


十センチ。

二十。

五十。


やがて針は止まった。


普通に北を向いた。


*


帰り道。


母が聞いた。


「推薦、間に合った?」


杏奈は時計を見た。


七時十二分。


「終わった」


「ごめん」


「お母さんのせいじゃない」


「じゃあ亀?」


「亀のせいにはしづらい」


母はまた笑った。


杏奈は推薦文を取り出した。


《私は将来、》


空白。


街灯の下で、その続きを書いた。


司書、とは書かなかった。


*


月曜日。


野上は返却口の奥から、例の運搬具を見つけた。


誰が戻したのか分からない。


二枚の湾曲したアルミ板の間に、圧縮された吸水紙と黒いゴムが挟まり、上には古い方位磁針が固定されている。


亀はいない。


泥だけが残っていた。


野上はそれを廃棄箱へ入れなかった。


返却物でもなかったからだ。


*


杏奈は学校で推薦文を出し直した。


締切後なので、推薦枠には使われない。


先生は最後の一行を読んだ。


「これでいいの?」


「はい」


そこには職業名がなかった。


《私は将来、分からないものを、分からないまま預かれる人になります。》


先生は赤ペンを持ったまま、何も直さなかった。

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