《拍手は二階に置いてきたバーガー》
市民文化会館の二階席には、客が一人もいなかった。
それでも十八歳の久我真帆は、そこへ上がった。
十分後に始まる朗読大会で、客席係をさぼるためではない。
自分の名前を消すためだった。
出演者一覧の七番。
久我真帆『銀河鉄道の夜』。
昨夜までは読むつもりだった。今朝、声が出なくなった。
風邪ではない。
舞台袖で一度だけ試した。
「では」
そこまで言った瞬間、喉が閉じた。
母親は一階最前列にいる。
学校の先生もいる。
棄権すると言えば済む。
それが言えないから、真帆は二階へ逃げた。
*
二階席は改修前の資材置き場になっていた。
取り外された赤い座席クッションが積まれている。
避難誘導灯の交換業者は、古いアクリル板を箱へ入れていた。
舞台美術部が置き忘れた大きなコルクボードも壁に立てかけてある。
足元には、細い銅線。
昨夜のアマチュア無線展示で使ったアンテナ線らしい。
真帆は出演者用の紙札を持っていた。
名前を消して受付へ戻すつもりだった。
消しゴムを忘れた。
「最悪」
声は出た。
小さかったが、出た。
誰もいない場所なら。
*
下から拍手が聞こえた。
開会式が始まった。
真帆は紙札を裏返した。
棄権、と書けばいい。
ペン先が紙へ触れない。
代わりに銅線を拾った。
指で曲げる。
輪。
直線。
また輪。
緊張すると何かを編む癖があった。小学生のころは髪、中学ではイヤホンのコード。
銅線は柔らかかった。
途中で切れた。
「うわ」
今度も声が出た。
真帆は気づいた。
二階席では、声が出る。
舞台が駄目なのではない。
人が見ている場所が駄目だった。
それは発見ではなく、悪化だった。
*
階段から足音がした。
大会スタッフではない。
七歳くらいの男の子だった。
「お姉ちゃん、ここ入っちゃだめだよ」
「君もね」
「ぼくは探しもの」
片方の補聴器がないという。
一階席で落としたと思ったが、母親に叱られるのが嫌で一人で探している。
真帆は時計を見た。
自分の出番まで二十五分。
「形は?」
「耳のやつ」
「それは分かる」
二人で探した。
*
補聴器は座席クッションの山の下にあった。
ただし壊れていた。
クッションを運んだ台車に踏まれたらしい。
外装は割れ、電池蓋が飛んでいる。
男の子は泣かなかった。
「聞こえる?」
真帆が聞く。
「こっちは」
右耳を指す。
左が壊れた方。
「お母さんに言える?」
「言わない」
「なんで」
「今日、お母さん読むから」
真帆は黙った。
男の子の母親も出場者だった。
「聞こえないって言ったら、読むのやめるから」
下でまた拍手。
真帆は自分の紙札を握った。
棄権、とまだ書けていない。
*
補聴器を直すことはできなかった。
だが外装を固定するくらいならできそうだった。
舞台美術部のコルクボードから、傷んだ部分を小さく切る。
薄すぎる。
二枚に割って、補聴器を挟もうとした。
合わない。
交換業者が残したアクリル板を借り、端を紙やすりで削った。
透明な粉が落ちる。
板は補聴器よりずっと大きい。
「これ、耳につけるの?」
男の子が聞く。
「つけない」
「じゃ何するの」
「考えてる」
真帆は本当に考えていた。
*
舞台から声が聞こえた。
マイクの音が、空の二階席まで届く。
男の子が手すりへ寄った。
「聞こえる」
右耳で聞いている。
真帆は銅線を見る。
無線展示のアンテナ。
補聴器そのものを直さなくても、舞台の音をここまで持ってくればいい。
スタッフを呼んだ。
事情を説明する。
最初は喉が詰まった。
男の子が横にいる。
真帆は彼の頭を見ながら話した。
「一階の音を、二階のスピーカーへ分けられませんか」
声が出た。
*
設備室には予備の小型振動スピーカーがあった。
ただし固定具がない。
改修中で二階席の手すりへ取り付けられない。
真帆はさっきの材料を持ってきた。
コルクは振動を逃がしすぎる。
そこで舞台美術部のハンドプレスを借り、二枚を圧縮した。
厚みが半分になる。
アクリル板には穴を開けた。
銅線は切れた部分を撚り合わせ、編み直した。
補聴器の割れた外装は使わなかった。
代わりに、男の子がポケットへ入れていた座席番号札を使った。
薄いアルミ板。
昨夜、外れたものを拾っていたらしい。
振動スピーカーへ当てると、細かく震えた。
「これなら」
真帆は言った。
*
一階から音声を分岐する。
二階の手すりへ、圧縮したコルクを上下から当てる。
間に穿孔したアクリル板を差し込む。
編んだ銅線で全体を締める。
中央には振動スピーカー。
その表面へ、座席番号札を重ねた。
試験音。
ぶうん。
失敗。
番号札だけが耳障りに震えた。
男の子が笑った。
「変な音」
真帆も笑った。
スタッフは困った顔をした。
「外します?」
「待って」
真帆は番号札を裏返した。
金属面をスピーカーではなく、アクリルへ接触させる。
もう一度。
今度は声になった。
小さい。
少し籠もっている。
それでも言葉が分かる。
手すりに固定された塊は、二枚の褐色のコルクに透明板と黒い振動体を挟み、編んだ銅線を周囲へ食い込ませていた。
銀色の番号札が斜めに載っている。
男の子は右耳を塞いだ。
左側を手すりへ近づける。
「聞こえる」
*
次の朗読者が舞台へ出た。
男の子の母親だった。
真帆は二階席を出ようとした。
袖を掴まれた。
「ここで聞いて」
「私、次だから」
「読むの?」
真帆は答えられなかった。
階下から、母親の朗読が始まる。
男の子は手すりに頬をつけた。
壊れた補聴器ではなく、建物の振動で母親の声を聞いている。
真帆は出演者札を見た。
名前はまだ消していない。
棄権とも書いていない。
朗読が終わった。
男の子は拍手した。
二階席で一人だけ。
真帆も拍手した。
二人分の音は、一階まで届かなかった。
*
「七番、久我さん」
階段の下からスタッフが呼んだ。
真帆は立った。
喉が閉じる。
男の子が言った。
「ここで読めば?」
「大会だから」
「ここも会館だよ」
それは子供の理屈だった。
真帆はスタッフを見る。
「二階から読んだら、失格ですか」
「規定では、舞台上で朗読を」
やっぱり。
真帆は頷いた。
「じゃあ失格でいいです」
紙札を渡さなかった。
舞台にも行かなかった。
二階席の最後列へ立った。
マイクはない。
一階の審査員には聞こえない。
母親にもたぶん聞こえない。
男の子と、スタッフ一人だけがいる。
真帆は本を開いた。
読み始めた。
最初の一行で声が震えた。
二行目は出た。
三行目も。
最後まで読んだ。
*
大会記録には、久我真帆は棄権と残った。
賞も順位もない。
帰り際、母親は怒らなかった。
「聞きたかった」
それだけ言った。
真帆は少し考えた。
「次は、聞かせる」
約束ではなく、予定として言った。
*
改修工事が終わると、二階席の臨時装置は撤去された。
振動スピーカーだけは備品へ戻った。
残った塊は、取り外すと崩れそうだったので、手すりの端へしばらく置かれた。
圧縮された二枚のコルク。
穴の開いた透明アクリル。
編まれた銅線。
振動で細かな傷の入った銀色の座席番号札。
持つと軽い。
耳を当てても、もう何も聞こえない。
翌年。
朗読大会の参加者受付で、十九歳になった真帆は名札を受け取った。
今度は出演者ではない。
二階席担当、と書いてあった。
真帆はそれを胸につけ、最初の客が階段を上がってくる前に、二階の扉を開けた。




