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《返却物には含まれないバーガー》


十九歳の小田切澪は、裁判所へ喧嘩をしに来たわけではなかった。


なくしたSDカードを返してもらうだけだった。


カードには卒業制作の図面が入っている。溶接科一年分。バックアップはない。


「証拠袋に混ざった可能性があります」


受付で三度目にそう言うと、書記官は困った顔をした。


今日は、猫砂メーカーと清掃会社の民事訴訟の和解期日だった。


澪は清掃会社で実習中、床洗浄機の金属部品が一晩で錆びた事故を見つけ、写真を撮った。その写真を移したSDカードを、現場資料と一緒に封筒へ落としたらしい。


原告でも被告でもない。


ただの実習生だった。


なのにカードは、証拠品になっていた。


*


証人待合室には、裁判より生活感のある物が多かった。


撤去したアルミブラインド。

修繕業者の箱。

清掃カート。

碁石の入った小袋。


澪が白い碁石をつまむと、清掃員が言った。


「それ、ごみ袋の重し」


袋をカートへ掛けるとき、四隅へ入れて口が戻らないようにするらしい。


「碁石で?」

「前の人の置き土産」


床の隅には、透明なガラスビーズが一箱あった。石材研磨後の汚れを落とすため、修繕業者が試験的に使っているブラスト材だという。


そして机の上に、問題の猫砂。


裁判所へ提出された未開封品だった。


澪は袋を見た。


「これ、同じロットです」


メーカー側の男が顔を上げた。


「触らないでください」


「触りません。番号見ただけです」


「あなたは専門家ではない」


「実習生です」


「なら、なおさらです」


澪は口論を避けるつもりだった。


五秒で失敗した。


*


SDカードは見つかった。


猫砂の証拠箱の底。


透明袋越しに見える。


「返してください」


書記官は首を振った。


「和解が成立するまで証拠物の扱いは変えられません」


「私のです」


「分かっています」


分かっていて返らない。


澪が一番嫌いな種類の答えだった。


そのとき、猫砂の袋の底が抜けた。


灰色の粒が机から落ちる。


誰も触っていなかった。


金属製の証拠箱へ広がった猫砂が、湿った音を立てた。


じゅ。


箱の表面が茶色く変わった。


メーカー側の男が立ち上がる。


「水分です。保管状態の問題でしょう」


澪はしゃがんだ。


「違います」


粒の間に黄色い結晶がある。


実習先で見たものと同じだった。


再生原料へ混入した塩化物。


猫砂そのものが、金属を腐食させていた。


*


証拠箱の底が抜けた。


SDカードが猫砂ごと落ちる。


運悪く、その下を修繕業者の床研削機が通った。


「止めて!」


機械は止まった。


一秒遅かった。


ガラスビーズが床へこぼれ、回転砥石に巻き込まれた。


しゃり、と嫌な音。


透明な粒は削られ、白い粉になった。


SDカードは無事だった。


ただし腐食した箱の薄板と猫砂の下に挟まれている。


持ち上げようとすると、箱が崩れる。


「そのまま」


澪が言った。


メーカー側の男が言う。


「あなたに何ができます」


「溶接なら」


初めて、実習生であることが役に立った。


*


使える鋼材はなかった。


澪は撤去済みのアルミブラインドを見る。


薄い。


弱い。


普通なら構造材にはしない。


だから二枚ずつ折り、腐食していない箱の縁へ渡した。


修繕業者の小型TIGを借りる。


「アルミできます?」

「学校では」


「本番は?」

「今からです」


メーカー側の男が何か言いかけた。


清掃会社の代理人が止めた。


「やらせましょう」


澪は溶接した。


一箇所目は汚い。


二箇所目も汚い。


三箇所目で、ようやくブラインドの帯が箱を支えた。


だが熱が裏へ回った。


清掃カートからこぼれていた白黒の碁石が、箱の下に入り込んでいた。


安物の樹脂製だった。


白い石から先に縁が崩れた。


黒も続く。


柔らかくなり、互いに繋がる。


「溶けてる」


「熱、止めます」


「待って」


澪は止めなかった。


溶けた樹脂が、腐食した猫砂の層へ入り込んでいた。


崩れかけた底を包んでいる。


SDカードの手前まで。


そこでトーチを離した。


*


冷えるまで動かせない。


待合室で、和解協議が始まった。


メーカーは猫砂の回収費用を負担する。


清掃会社は追加損害の請求を取り下げる。


だが原因については「特定しない」。


澪は廊下で聞いていた。


「特定しないって何ですか」


誰も答えなかった。


メーカー側の男だけが言った。


「和解とは、そういうものです」


「錆びた理由が分かったのに?」


「勝ち負けを決めないための契約です」


澪は机を見る。


猫砂はまだ金属を侵している。


錆がゆっくり広がっていた。


そこへ研削されたガラスの粉が入り、ざらざらした層になる。


溶けた碁石は冷えて薄い膜になった。


上下から渡したアルミの帯は、熱で歪み、中央へ丸く落ち込んでいる。


SDカードは、その真ん中。


取り出そうと思えば、全部壊すしかない。


*


「壊してください」


書記官が言った。


「カードは返却できます」


澪は工具を持った。


それが今日の目的だった。


なのに切れなかった。


これを壊せば、猫砂が金属を腐食した状態も、メーカーが保管状態のせいだと言った瞬間も、全部ばらばらになる。


写真なら撮れる。


報告書にもできる。


けれどメーカーは「写真では条件が分からない」と言える。


清掃会社は「現物がない」と言える。


澪は工具を置いた。


「返却、いりません」


「卒業制作は?」


「描き直します」


財布には小銭しかない。


帰りに新しいSDカードを買う金も足りない。


それでも言った。


「これを、和解条件に入れてください」


代理人たちが見る。


「これ?」


「廃棄しないこと。どっちの会社も持ち帰らないこと。裁判所で封印して保管すること」


メーカー側の男が眉を寄せた。


「何のために」


澪は答えた。


「原因を特定しないなら、原因だったかもしれない物くらい残してください」


*


契約書に一項が増えた。


双方の合意なく、現物を分解、廃棄、加工しない。


所有権をどちらにも移さない。


保管期限は十年。


署名が終わったあと、書記官が現物を量った。


三・四キロ。


上下には溶接されたアルミの帯。

中央には、冷えて一枚になった白黒の樹脂。

腐食した猫砂が茶色い縁を作り、研削されたガラス粉が表面で光っている。


押すと硬い。


持ち上げると、中でまだ猫砂が小さく鳴る。


焦げた樹脂と湿った鉱物の匂い。


その中心に、黒いSDカードが一枚だけ見えていた。


澪は最後まで、それを取り出さなかった。


*


十年後。


裁判所の保管庫整理で、その物体が再び机へ出された。


契約上、勝手には捨てられない。


メーカーはもうなかった。


清掃会社は社名が変わっていた。


二社の承継先へ照会が飛んだ。


返事は一通だけ来た。


「契約条項を継承する」


廃棄できない。


分解もできない。


所有者もいない。


若い書記官が中央のSDカードを見つけた。


「これ、何が入ってるんですか」


隣の職員は記録をめくった。


「返却物だったらしいよ」


「返さなかったんですか」


「本人が断った」


*


そのころ澪は、工場で新人にアルミ溶接を教えていた。


一箇所目のビードを見て言う。


「汚いね」


新人が青くなる。


澪は続けた。


「残しといて」


「え?」


「一箇所目。削らなくていい」


新人は不思議そうにトーチを置いた。


澪は十年前、取り戻さなかったもののことを、もう毎日は思い出さない。


ただ、失敗を消す前に一度見る癖だけが残っていた。

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