《鍵穴のない庭バーガー》
地下駐車場の二区画を、朝顔が占領していた。
鉢は白線の内側。蔓は天井の配管まで伸びている。
市民園芸交換会は、雨で公園からここへ移されたらしい。
六十五歳の鍵師、柴崎徹は、花を見に来たのではなかった。
娘の美紀に謝りに来た。
三年前、母親が死んだあと、実家の庭を売ると決めたのは徹だった。美紀が育てていたものまで、相談せず全部処分した。
電話では謝れなかった。
だから今日は、仕事用の鍵束を家に置いてきた。鍵師としてではなく、父親として来たつもりだった。
ただし胸ポケットには、期限切れの鍵師組合ICカードが一枚入っていた。捨て忘れである。
*
美紀は球根交換の机にいた。
「何しに来たの」
「謝りに」
「何について」
徹は詰まった。
「庭」
「庭の何」
隣で段ボールが崩れた。小袋が床へ散る。
乾燥剤だった。輸入球根の箱に大量に入っていたものを、分別していたらしい。
美紀はしゃがんで拾い始めた。徹も拾った。
「そういうところ」
「何が」
「聞かれると、作業で逃げる」
徹は乾燥剤を置いた。
そのとき駐車場の奥で金属音がした。
*
植物棚が傾いていた。
キャスター付きの棚を固定していたチェーンが、床の排水溝へ噛み込んでいる。雨水が坂から流れ込み、棚を少しずつ押していた。
管理員がチェーンを外そうとしている。
「切ればいい」
徹が言った。
美紀が睨んだ。
「今日は鍵師じゃないんじゃなかった?」
「切るくらい誰でもできる」
「じゃ、やって」
工具はなかった。
徹は黙った。
美紀が笑った。三年ぶりだった。
*
雨脚が強くなった。
入口の砂袋が一つ破れた。砂が流れ、園芸交換会の一角にある廃プラスチック再生実演機へ入り込んだ。
係員が非常停止する。
投入途中だった古い土嚢袋の樹脂は、金型の中で止まった。
冷えて取り出されたものは、二枚の厚い殻だった。砂粒を噛み、表面がざらついている。
「失敗作ですね」
係員が脇へ置いた。
美紀はそれを雨受けに使った。一枚を棚の上、一枚を下。
「捨てるよりまし」
徹は返事をしなかった。その言葉は、自分に向けられた気がした。
*
チェーンは外れなかった。
管理員が床補修業者からディスクグラインダーを借りてきた。切断砥石がない。あるのは研削用だけ。
火花を散らしながら、一こまずつ削る。切るより遅い。
だが削られたチェーンは平たくなり、排水溝から抜けた。
棚が動いた。
成功したのはそこまでだった。
水に押され、棚が坂を滑った。
「押さえて!」
全員で止める。
徹は足元に落ちていた自分のICカードを拾った。棚の車輪に踏まれていた。
カードは薄く延び、内部のアンテナ線が透けている。
美紀が言った。
「それ、大事なやつ?」
「もう使えない」
徹は少し考えた。
「いや。使えなかった、だな」
*
棚を避難させる場所がなかった。
出口側へ動かせば浸水する。奥へ動かせば他の鉢を潰す。
美紀は、閉鎖された旧管理室を指した。
「中、空いてる」
扉には鍵穴がなかった。
電子錠の読取部だけが剥がされ、四角い窪みが残っている。改修待ちだった。
「開かないよ」
管理員が言った。
徹は窪みを見る。
鍵師の顔になった。
美紀が先に気づいた。
「今日は鍵師でいいよ」
徹は、そこで初めて仕事用の鍵束を置いてきたことを後悔した。
*
旧管理室の錠は、扉の中に残っていた。
読取部がないだけで、押し込まれた板が内部の解錠レバーまで届けば動く。
必要なのは鍵ではない。厚みだった。
徹は床に散った乾燥剤の小袋を集めた。
水を吸ったものと、まだ乾いたもの。交互に重ねる。高さを一ミリずつ変えるためだった。
上から、平たくなったICカードを置く。棚の車輪に何度も往復させ、窪みに入る幅まで圧延した。
だが柔らかすぎる。押すと曲がる。
「芯がいる」
研削され、平たくなったチェーンを折り返した。カードの下へ差し込む。
まだ厚みが足りない。
美紀が、雨受けにしていた二枚の樹脂殻を持ってきた。
「これは?」
「でかすぎる」
「削る?」
「もう機械は借りない」
「なんで」
「ろくなことにならん」
また美紀が笑った。
二人で殻を押した。
砂を含んだ樹脂はたわみ、乾燥剤の層を上下から挟んだ。中央には平たいチェーン。その表面を、薄く延びたICカードが覆っている。
厚さ七センチ。幅十八センチ。重さ一・九キロ。
樹脂の殻はまだ生温かく、砂粒が指にざらつく。乾燥剤の袋は水を吸って膨れ、押すとかすかに鳴った。チェーンは鉄臭い。カードの青い印刷だけが、妙にきれいに残っていた。
徹はそれを両手で持ち上げた。
誰も食べ物の話はしなかった。
*
四角い窪みへ押し込む。
入らない。
美紀が言った。
「失敗?」
「まだ」
徹は抜いた。乾燥剤を一袋減らす。
もう一度。
入る。
押す。
内部でチェーンがレバーへ触れた。
かちん。
扉が開いた。
園芸棚を全員で押し込む。鉢も球根も朝顔も、旧管理室へ逃がした。
最後に美紀が振り返った。
「それ抜いたら閉まる?」
「たぶん」
「じゃ、挿しといて」
徹は手を離した。
奇妙な塊は扉に半分食い込んだまま、錠を開け続けた。
鍵になった。
*
雨は夕方に弱くなった。
徹は帰ろうとした。
美紀が呼び止めた。
「謝らないの」
徹は振り向いた。
「庭を勝手に売って悪かった」
「うん」
「母さんが死んで、早く片づければ楽になると思った」
「誰が?」
また答えに詰まる。
今度は作業へ逃げるものがなかった。
「俺が」
美紀は頷いた。
許すとは言わなかった。
代わりに、球根を一個渡した。
「これ、余った」
「庭ないぞ」
「鉢くらい買えば」
徹は受け取った。
*
一週間後。
旧管理室には新しい電子錠が付いた。
工事業者は、扉に挟まった古い塊を外そうとした。
美紀が止めた。
「それ、残してください」
「鍵はもう要りませんよ」
「知ってます」
塊は壁際へ移された。
砂を噛んだ二枚の樹脂殻。水を吸って固くなった乾燥剤の層。研削痕のあるチェーン。車輪に潰されたICカード。
もう何も開けない。
その横で、徹が持ち帰らなかった朝顔の鉢から蔓が伸びた。
蔓は塊を一周してから、鍵の要らない方へ伸びていった。




