《海を渡らない切手バーガー》
港の待合所には、海を渡れなかった郵便物が飾られている。
古い絵葉書。
外国の封筒。
消印のない切手。
そのガラスケースの前で、六十三歳の新人漫画家、久世昭二は原稿を抱えていた。
新人と呼ばれるたび、少し笑う。
漫画を描き始めたのが去年だから、間違ってはいない。
フェリーは欠航していた。
強風。
次便は未定。
昭二は海の向こうの島に住む女性へ、完成した漫画を見せに来た。
郵送では駄目だった。
メールでも駄目だった。
四十年前に彼女から届いた手紙へ、まだ返事をしていなかったからだ。
原稿の題名は『返事』。
一人にだけ読ませるつもりだった。
*
待合所では改修工事をしていた。
作業員が壁際の古新聞を束ねている。
「それ、捨てるんですか」
昭二が聞いた。
「雨漏りの養生に使ったやつです。濡れてますよ」
一部だけ、妙に新しかった。
昭二の記事が載っている。
六十二歳で漫画賞佳作。
写真の自分は、人生をやり直した人みたいに笑っていた。
実際は違う。
やり残したまま老いただけだ。
「一枚もらえます?」
作業員は肩をすくめた。
*
風が強くなった。
自動ドアが閉鎖される。
売店もシャッターを下ろした。
暇になった昭二は、待合所の隅にある将棋盤を見つけた。
港の老人会が寄贈したものらしい。
駒はガラスケースの中に展示されていた。
ただし盤面は途中だった。
王将が二枚、向かい合っている。
その間に、歩が一枚。
ケース脇の説明には、対局者の名前が二つあった。
片方を見て、昭二は原稿を落とした。
彼女の名前だった。
「将棋、やってたのか」
知らなかった。
四十年あれば、知らないことくらい増える。
*
天井から音がした。
ごん。
工事中の石膏像が落ちてきた。
港の開港百周年記念に置かれていた、船員の胸像。
首に亀裂があり、修復のため台座から外されていた。
作業員が受け止め損ねる。
昭二は原稿を抱えて避けた。
胸像は床へ倒れた。
割れなかった。
代わりに顔へ穴が開いた。
丸い穴。
向こう側が見える。
待合所ではない。
青い空だった。
「島だ」
昭二には分かった。
穴の向こうに、島の港が見えた。
人が歩いている。
フェリーなら二時間かかる距離が、石膏の厚みしかない。
昭二は原稿を掴んだ。
穴へ腕を入れる。
通らない。
直径は八センチ。
「手紙なら通るな」
作業員が言った。
昭二は首を振った。
「手紙じゃ駄目なんです」
*
風圧で展示ケースが倒れた。
将棋駒が床へ散る。
駒は割れた。
木ではなかった。
薄い破片になって、床を滑る。
一枚拾う。
角度を変えると、文字が変わった。
歩。
香。
桂。
さらに傾ける。
距離が出た。
《2.1km》
石膏像へ近づける。
《0m》
「測ってる」
昭二は駒片を穴へ差し込んだ。
数字が増える。
百メートル。
五百。
二千百。
穴の向こうは島ではなかった。
島の港にある、もう一つの待合所だった。
直線距離二・一キロ。
海を挟んだ姉妹港。
昭二が行きたい島は、そのさらに先だった。
「違ったか」
笑ってしまった。
人生二度目の大遠回りだった。
*
そのとき、古いレコード盤が転がってきた。
売店の改修材を包んでいた段ボールの底から出たものだった。
港音頭。
昭二が子供のころ、祭りで流れていた曲。
風に押されて床を走り、石膏像へぶつかる。
割れない。
ぐにゃりと曲がった。
盤面の溝がほどけ、黒い線になる。
線は勝手に絡み始めた。
一本。
二本。
何十本。
編まれた黒い網が穴の縁へ引っかかった。
穴の向こうでも、同じ網が伸びている。
対岸まで一本の印ができた。
作業員が呟いた。
「目印にはなるな」
直後、胸像の亀裂が広がった。
*
石膏が半透明になった。
穴を開けられた部分から、像全体が柔らかく膨らむ。
作業員が補修用樹脂を塗ろうとしたが、刷毛が沈んだ。
「触らない方がいい!」
昭二は原稿を抱え直した。
胸像は崩れなかった。
むしろ広がった。
透明な塊になって、待合所の出口を塞いだ。
自動ドアも非常口も覆う。
対岸への穴だけが残る。
出口は八センチ。
待合所には昭二と作業員、それから欠航で残った十七人。
誰も出られない。
原稿を一人へ届けるどころではなくなった。
昭二は、そこで初めて原稿の紐を解いた。
「皆さん、これ踏んでもいいですか」
「漫画を?」
「コピーです」
嘘だった。
原稿は一部しかない。
*
新聞紙を床へ広げる。
その上に原稿を置いた。
濡れた新聞紙が妙な音を立てた。
ぷつ。
ぷつ。
紙面が溶け、原稿の線を吸い込む。
射出成形機などない。
それでも紙は自分を細い筒へ押し込み、反対側から厚い塊となって出てきた。
昭二の記事。
漫画のコマ。
四十年前の切手広告。
全部が混ざった灰色の板。
「先生」
作業員が言う。
「それ、戻らないですよ」
「先生じゃないです」
昭二は残りも置いた。
「新人です」
最後のページが吸い込まれた。
*
薄く砕けた将棋駒を、透明な石膏へ貼る。
距離の数字を見ながら、最も薄い場所を探すためだった。
駒片が並ぶ。
1.8m。
1.2m。
43cm。
中央だけ、7cm。
昭二たちはそこへ灰色の新聞板を押し当てた。
一枚では足りない。
板が上下に割れた。
上から押す。
下から支える。
間へ半透明の石膏が盛り上がる。
黒いレコードの網が周囲を締める。
駒片がその隙間へ食い込み、距離を示す。
奇妙な塊になった。
上下に灰色の厚板。
中央に乳白色の石膏。
黒い網。
文字の消えかけた薄片。
食べ物には見えない。
それでも、重なり方だけは妙に見覚えがあった。
昭二は気づかなかったふりをした。
「押してください」
十八人で押した。
*
石膏が縮む。
七センチ。
六。
五。
出口が広がる。
新聞板は圧力を受け、粉になり、また固まる。
そこへ原稿の黒線だけが残った。
一コマ目。
若い男が港に立っている。
二コマ目。
若い女が船に乗っている。
三コマ目。
男は何も言わない。
昭二が描いた『返事』だった。
バーガーじみた塊が、出口を塞ぐ代わりに石膏壁を支えていた。
障害物だった。
同時に、崩壊を止める楔になった。
一人ずつ外へ出る。
最後は昭二。
原稿はもうない。
目的を失ったはずだった。
*
風は夕方に止んだ。
フェリーの運航再開が決まった。
昭二は乗らなかった。
待合所の床に、切手が一枚落ちていた。
古い外国切手。
展示ケースから風で飛んだらしい。
消印はない。
彼は拾った。
裏返す。
何も書いていない。
作業員が聞いた。
「島、行かないんですか」
「見せるもの、なくなったんで」
「描き直せば?」
昭二は、出口に残った塊を見る。
灰色の上下層には、漫画の線がまだ見える。
透明な中央部を、黒いレコードの網が囲んでいる。
将棋駒の薄片は、最後の数字で止まっていた。
《0m》
「もう見せたみたいです」
「誰に?」
昭二は答えなかった。
*
三日後。
海の向こうの姉妹港から、修理業者が来た。
待合所を塞いでいた塊は、工事の邪魔なので取り外された。
重さ十一キロ。
廃棄するはずだった。
だが対岸の作業員が、表面を見て手を止めた。
漫画の最後のコマ。
そこには六十三歳の男が描かれていた。
船には乗らない。
港で、誰かへ一枚の切手を差し出している。
作業員はその顔を知っていた。
島から時々ここへ来る、七十歳の女性が財布に入れている古い写真と同じ男だった。
翌週。
塊は修理品の返却便へ、間違えて積まれた。
姉妹港。
フェリー。
島。
昭二が乗らなかった航路を渡った。
*
女性は十一キロの包みを受け取った。
注文した覚えはない。
玄関先で梱包を解く。
灰色の層。
乳白色の中心。
黒い網。
薄い将棋駒。
そして表面に、漫画がある。
彼女は立ったまま最後まで読んだ。
四十年前の手紙を出した日のことを、途中で一度だけ思い出した。
最後のコマまで来る。
六十三歳の昭二が、切手を差し出している。
女性はしばらくそこを撫でた。
それから家へ入り、机の引き出しを開けた。
返事を待つために取っておいた便箋を出す。
四十年ぶりに、一行目を書いた。




