↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
109/124

《六番テーブルを片づけないバーガー》


「六番だけ、触らないでください」


ホテルの宴会係は、手を止めなかった。


「撤収は二十二時までです」


「十分ください」


「九分です」


壁の時計は二十一時五十一分。


六番テーブルには、何も載っていない。


四十一歳の手品師、倉田シンジは、その何もないテーブルを両手で守っていた。


三十分前まで、ここでは全国アマチュア写真展の表彰式が開かれていた。


最優秀賞は妹のユリ。


そして受賞取り消しも、三十分前に決まった。


「合成写真ではありません」


シンジは言った。


審査員は帰った。


ホテル側は椅子を積んでいる。


妹も帰った。


最後に兄へ言った。


「もういいよ」


だから、よくなかった。


シンジは昔から、妹の「もういい」を一度も信用していない。


*


問題の写真は、一枚の家族写真だった。


二十五年前。


雨の日。


父と母と、十五歳のシンジと、九歳のユリ。


ところが写真には、父が二人写っていた。


一人は家族の隣。


もう一人は、遠くの横断歩道を渡っている。


審査員は多重露光だと言った。


ユリは一枚撮りだと言った。


フィルムは紛失。


ネガもない。


残っているのは、今夜ここで展示されたプリントだけ。


そのプリントも審査委員会が証拠として持ち帰った。


ただしシンジは見ていた。


撤収中、写真を外した壁の裏から、細い黒い帯が落ちたのを。


フィルムではない。


カセットテープだった。


ラベルに、父の字。


「六月十三日」


六番テーブルの下へ隠してある。


*


「お兄ちゃん」


妹が戻ってきた。


「帰ったんじゃなかったのか」


「傘忘れた」


透明なビニール傘。


ユリはそれを持ち上げた。


骨だけだった。


ビニールがない。


銀色の傘骨が十二本、開いたまま残っている。


「なにこれ」


「俺じゃない」


「手品師が言うと信用できない」


そのとき、六番テーブルの下で音がした。


ごと。


カセットテープの隣に、ボウリング球が転がっていた。


青い十二ポンド。


「これは?」


「俺じゃない」


「二回目はもっと信用できない」


宴会係が来た。


「上の階にボウリング場はありません」


「聞いてません」


「昔はありました。二十年前に閉鎖しました」


ボールには指穴がない。


代わりに、表面へ写真のような像が浮いていた。


雨の道路。


二人の父。


ユリの顔が変わった。


「これ、私の写真」


*


宴会係が六番テーブルを畳もうとした。


シンジが止める。


脚が床から離れない。


テーブルクロスの下から白い泡が出た。


ホテルの固形石鹸だった。


一個。


二個。


二十個。


石鹸は床を滑り、ボウリング球へ貼りついた。


シンジが一個剥がそうとする。


手の中で震えた。


次の瞬間、部屋中の金属が石鹸へ飛んだ。


フォーク。


椅子のボルト。


名札の安全ピン。


ユリの傘骨。


がしゃん。


「磁石?」


「石鹸が?」


「だから俺を見るな」


宴会係が非常停止ボタンへ走った。


シンジは止めなかった。


妹がカセットを拾ったからだ。


テープが勝手に回り始めた。


再生機もないのに、父の声がした。


『シンジ、そこ立つな。写るぞ』


十五歳のシンジの声。


『俺、撮ってないよ』


『ユリが撮ってる』


『父さん、向こうにもいる』


沈黙。


そして父が笑った。


『じゃあ、どっちか消えるまで待て』


録音はそこで切れた。


ユリが兄を見る。


「知ってたの?」


シンジは答えなかった。


それが答えだった。


*


「なんで黙ってたの」


「父さんに言われた」


「二十五年?」


「お前が写真家になると思ってなかった」


「なった後も黙ってた」


「そうだな」


ユリは傘骨を一本引き抜いた。


磁化した石鹸から外れない。


力いっぱい引く。


骨が曲がる。


十二本が絡まり、上下二つの籠になった。


そのまま空調の冷気を受ける。


白く霜がつく。


凍る。


シンジはカセットを取った。


「これを審査員に渡す」


「何の証拠になるの。父さんが二人いたって音声?」


「少なくとも、お前が後から合成した証拠にはならない」


「ならないものを証拠って言わない」


正しかった。


手品師は、正しいものより信じさせるものを扱ってきた。


妹は逆だった。


見えたものを、見えたまま残そうとしていた。


兄妹が二十五年間うまく話せなかった理由を、シンジは今さら理解した。


*


二十一時五十八分。


宴会場の照明が落ちた。


非常灯だけになる。


青いボウリング球が動き出した。


転がらない。


表面が膨らむ。


酸っぱい匂い。


発酵していた。


硬い球の内部で何かが増え、外殻を押す。


ぱき。


球が割れた。


中から平たい青黒い塊が出た。


表面には、雨の日の像が何層にも重なっている。


父。


父。


父。


同じ人物が少しずつ違う場所にいる。


ユリは息を呑んだ。


「写真が増えてる」


「違う」


シンジは一枚ずつ見る。


「移動してる」


父は一人だった。


ただし一枚の写真の中で、時間の違う父が同時に残っていた。


なぜかは分からない。


分からないままでよかった。


ユリが撮ったものは、そこにあった。


*


カセットテープがほどけた。


黒い磁気テープが天井へ吸い上げられる。


非常灯の光を受け、表面に銀色の膜が生まれた。


蒸着したように、薄い鏡になる。


鏡の帯には宴会場が映る。


ただし数秒ずつ遅れていた。


シンジが手を上げる。


鏡の中のシンジは、まだ下ろしている。


ユリが言った。


「これ、使える」


「何に」


「現像」


彼女は兄の手を取った。


「六番テーブル、ひっくり返して」


「ホテルに怒られるぞ」


「もう怒られてる」


二人で返した。


*


凍った傘骨の籠を上下に置く。


その間へ、発酵して平たくなったボウリング球を挟む。


磁化した石鹸は削れながら球の表面を走り、白い筋を残した。


蒸着したカセットテープを細く裂き、その上へ重ねる。


形だけならバーガーだった。


食べられる部分は一つもない。


重さは二十三キロ。


冷たい傘骨が霜を落とす。


石鹸の匂い。


青黒い球殻の酸臭。


鏡になったテープが、触れるたびしゃらしゃら鳴る。


ユリは宴会場の隅に残っていた写真用ライトを点けた。


バーガーへ当てる。


上の傘骨が光を細く分割する。


テープが遅れて反射する。


石鹸の白い筋が露光時間を刻む。


青黒い中心部に、像が浮いた。


二十五年前の道路。


父は一人。


歩いている。


一枚の静止画では二人に見えた動きが、バーガーの表面では連続していた。


ユリはスマートフォンを構えた。


シンジが止めた。


「それ撮ったら、また合成って言われる」


「じゃあどうするの」


シンジは宴会場の扉を開けた。


撤収を待っているホテル従業員が六人。


警備員が二人。


表彰式の忘れ物を取りに戻った客が三人。


「見てもらう」


手品師が一番嫌う方法だった。


種も仕掛けも隠さない。


十一人が、バーガーの周りに立った。


父が一人で道路を歩くのを見た。


*


受賞取り消しは、その夜には撤回されなかった。


翌日にも。


審査委員会は「追加検証が必要」とだけ発表した。


ユリは怒らなかった。


「十分」


今度の「十分」は、シンジにも分かった。


六番テーブルは撤去された。


宴会場も翌朝には別の企業説明会になった。


ただ一つ、二十三キロのバーガーだけがホテルの防災倉庫へ運ばれた。


廃棄物なのか、美術品なのか、証拠物なのか。


ホテル側が判断できなかったからだ。


三か月後。


審査委員会から返却通知が届いた。


品名欄には、誰が書いたのか分からない名称があった。


《六番テーブルを片づけないバーガー》


返却先はユリではない。


シンジでもない。


二十五年前の父の住所だった。


そこには今も、父が住んでいた。


宅配便を受け取った父は、二十三キロの箱を玄関に置いた。


伝票を見る。


しばらく黙る。


それから家の奥へ向かって言った。


「母さん。あの日のが、帰ってきたぞ」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。