《六番テーブルを片づけないバーガー》
「六番だけ、触らないでください」
ホテルの宴会係は、手を止めなかった。
「撤収は二十二時までです」
「十分ください」
「九分です」
壁の時計は二十一時五十一分。
六番テーブルには、何も載っていない。
四十一歳の手品師、倉田シンジは、その何もないテーブルを両手で守っていた。
三十分前まで、ここでは全国アマチュア写真展の表彰式が開かれていた。
最優秀賞は妹のユリ。
そして受賞取り消しも、三十分前に決まった。
「合成写真ではありません」
シンジは言った。
審査員は帰った。
ホテル側は椅子を積んでいる。
妹も帰った。
最後に兄へ言った。
「もういいよ」
だから、よくなかった。
シンジは昔から、妹の「もういい」を一度も信用していない。
*
問題の写真は、一枚の家族写真だった。
二十五年前。
雨の日。
父と母と、十五歳のシンジと、九歳のユリ。
ところが写真には、父が二人写っていた。
一人は家族の隣。
もう一人は、遠くの横断歩道を渡っている。
審査員は多重露光だと言った。
ユリは一枚撮りだと言った。
フィルムは紛失。
ネガもない。
残っているのは、今夜ここで展示されたプリントだけ。
そのプリントも審査委員会が証拠として持ち帰った。
ただしシンジは見ていた。
撤収中、写真を外した壁の裏から、細い黒い帯が落ちたのを。
フィルムではない。
カセットテープだった。
ラベルに、父の字。
「六月十三日」
六番テーブルの下へ隠してある。
*
「お兄ちゃん」
妹が戻ってきた。
「帰ったんじゃなかったのか」
「傘忘れた」
透明なビニール傘。
ユリはそれを持ち上げた。
骨だけだった。
ビニールがない。
銀色の傘骨が十二本、開いたまま残っている。
「なにこれ」
「俺じゃない」
「手品師が言うと信用できない」
そのとき、六番テーブルの下で音がした。
ごと。
カセットテープの隣に、ボウリング球が転がっていた。
青い十二ポンド。
「これは?」
「俺じゃない」
「二回目はもっと信用できない」
宴会係が来た。
「上の階にボウリング場はありません」
「聞いてません」
「昔はありました。二十年前に閉鎖しました」
ボールには指穴がない。
代わりに、表面へ写真のような像が浮いていた。
雨の道路。
二人の父。
ユリの顔が変わった。
「これ、私の写真」
*
宴会係が六番テーブルを畳もうとした。
シンジが止める。
脚が床から離れない。
テーブルクロスの下から白い泡が出た。
ホテルの固形石鹸だった。
一個。
二個。
二十個。
石鹸は床を滑り、ボウリング球へ貼りついた。
シンジが一個剥がそうとする。
手の中で震えた。
次の瞬間、部屋中の金属が石鹸へ飛んだ。
フォーク。
椅子のボルト。
名札の安全ピン。
ユリの傘骨。
がしゃん。
「磁石?」
「石鹸が?」
「だから俺を見るな」
宴会係が非常停止ボタンへ走った。
シンジは止めなかった。
妹がカセットを拾ったからだ。
テープが勝手に回り始めた。
再生機もないのに、父の声がした。
『シンジ、そこ立つな。写るぞ』
十五歳のシンジの声。
『俺、撮ってないよ』
『ユリが撮ってる』
『父さん、向こうにもいる』
沈黙。
そして父が笑った。
『じゃあ、どっちか消えるまで待て』
録音はそこで切れた。
ユリが兄を見る。
「知ってたの?」
シンジは答えなかった。
それが答えだった。
*
「なんで黙ってたの」
「父さんに言われた」
「二十五年?」
「お前が写真家になると思ってなかった」
「なった後も黙ってた」
「そうだな」
ユリは傘骨を一本引き抜いた。
磁化した石鹸から外れない。
力いっぱい引く。
骨が曲がる。
十二本が絡まり、上下二つの籠になった。
そのまま空調の冷気を受ける。
白く霜がつく。
凍る。
シンジはカセットを取った。
「これを審査員に渡す」
「何の証拠になるの。父さんが二人いたって音声?」
「少なくとも、お前が後から合成した証拠にはならない」
「ならないものを証拠って言わない」
正しかった。
手品師は、正しいものより信じさせるものを扱ってきた。
妹は逆だった。
見えたものを、見えたまま残そうとしていた。
兄妹が二十五年間うまく話せなかった理由を、シンジは今さら理解した。
*
二十一時五十八分。
宴会場の照明が落ちた。
非常灯だけになる。
青いボウリング球が動き出した。
転がらない。
表面が膨らむ。
酸っぱい匂い。
発酵していた。
硬い球の内部で何かが増え、外殻を押す。
ぱき。
球が割れた。
中から平たい青黒い塊が出た。
表面には、雨の日の像が何層にも重なっている。
父。
父。
父。
同じ人物が少しずつ違う場所にいる。
ユリは息を呑んだ。
「写真が増えてる」
「違う」
シンジは一枚ずつ見る。
「移動してる」
父は一人だった。
ただし一枚の写真の中で、時間の違う父が同時に残っていた。
なぜかは分からない。
分からないままでよかった。
ユリが撮ったものは、そこにあった。
*
カセットテープがほどけた。
黒い磁気テープが天井へ吸い上げられる。
非常灯の光を受け、表面に銀色の膜が生まれた。
蒸着したように、薄い鏡になる。
鏡の帯には宴会場が映る。
ただし数秒ずつ遅れていた。
シンジが手を上げる。
鏡の中のシンジは、まだ下ろしている。
ユリが言った。
「これ、使える」
「何に」
「現像」
彼女は兄の手を取った。
「六番テーブル、ひっくり返して」
「ホテルに怒られるぞ」
「もう怒られてる」
二人で返した。
*
凍った傘骨の籠を上下に置く。
その間へ、発酵して平たくなったボウリング球を挟む。
磁化した石鹸は削れながら球の表面を走り、白い筋を残した。
蒸着したカセットテープを細く裂き、その上へ重ねる。
形だけならバーガーだった。
食べられる部分は一つもない。
重さは二十三キロ。
冷たい傘骨が霜を落とす。
石鹸の匂い。
青黒い球殻の酸臭。
鏡になったテープが、触れるたびしゃらしゃら鳴る。
ユリは宴会場の隅に残っていた写真用ライトを点けた。
バーガーへ当てる。
上の傘骨が光を細く分割する。
テープが遅れて反射する。
石鹸の白い筋が露光時間を刻む。
青黒い中心部に、像が浮いた。
二十五年前の道路。
父は一人。
歩いている。
一枚の静止画では二人に見えた動きが、バーガーの表面では連続していた。
ユリはスマートフォンを構えた。
シンジが止めた。
「それ撮ったら、また合成って言われる」
「じゃあどうするの」
シンジは宴会場の扉を開けた。
撤収を待っているホテル従業員が六人。
警備員が二人。
表彰式の忘れ物を取りに戻った客が三人。
「見てもらう」
手品師が一番嫌う方法だった。
種も仕掛けも隠さない。
十一人が、バーガーの周りに立った。
父が一人で道路を歩くのを見た。
*
受賞取り消しは、その夜には撤回されなかった。
翌日にも。
審査委員会は「追加検証が必要」とだけ発表した。
ユリは怒らなかった。
「十分」
今度の「十分」は、シンジにも分かった。
六番テーブルは撤去された。
宴会場も翌朝には別の企業説明会になった。
ただ一つ、二十三キロのバーガーだけがホテルの防災倉庫へ運ばれた。
廃棄物なのか、美術品なのか、証拠物なのか。
ホテル側が判断できなかったからだ。
三か月後。
審査委員会から返却通知が届いた。
品名欄には、誰が書いたのか分からない名称があった。
《六番テーブルを片づけないバーガー》
返却先はユリではない。
シンジでもない。
二十五年前の父の住所だった。
そこには今も、父が住んでいた。
宅配便を受け取った父は、二十三キロの箱を玄関に置いた。
伝票を見る。
しばらく黙る。
それから家の奥へ向かって言った。
「母さん。あの日のが、帰ってきたぞ」




