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【特選】《終焉の凍結バーガー》

◆ 序章 この宇宙の物理法則



この宇宙では、一つの種族だけが死なない。


「イモータル」と呼ばれた彼らは、宇宙が誕生してから数兆垓年が経過した現在も、ただの一体も滅んでいない。


滅ばない理由は単純だった。


イモータルの肉体は素粒子レベルで分解しない限り再生する。細胞が破壊されれば数秒で修復される。惑星規模の爆発に巻き込まれれば飛び散り、飛び散った肉片の一つ一つがそれぞれ独立した個体として再生する。恒星の核融合に投げ込まれても、プラズマ化した体細胞が冷却と同時に再構成される。ブラックホールの潮汐力で引き伸ばされても、事象の地平線の内側で体が再び形を取り始める。


素粒子レベルで完全に分解することが、理論上唯一の消滅手段だった。


しかし数兆垓年の間、どの文明もそれを実行できなかった。


なぜなら、素粒子分解を実現するほどの技術力を持つ文明が育つ前に、必ずイモータルに滅ぼされるからだ。


イモータルは増殖する。


最初の一体から分裂が始まり、数十億年で銀河系一個分の空間を埋め尽くし、数兆年で銀河団を飲み込み、現在は観測可能な宇宙の九十七パーセントを支配している。残りの三パーセントは、まだイモータルが到達していない宇宙の果てだ。


到達は時間の問題だった。


数兆垓年の間に、イモータルに抵抗した知的文明の数は、観測記録上で四十八万二千文明に及ぶ。現存する文明はゼロだ。


ただ一つを除いて。






◆ 第一部 最後の星系



宇宙の果てに、星系があった。


正確には、かつて銀河だった場所の残滓に、一つの恒星系が生き残っていた。


イモータルの波が届いていない場所。宇宙膨張の速度がイモータルの増殖速度をわずかに上回っている空間的なくぼみ。数兆垓年分の計算が積み重なって生まれた奇跡的な盲点。


その星系に、最後の文明があった。


「アルクト連邦」。


かつては百二十の惑星に広がる多惑星文明だったが、今は一惑星だけが残っている。惑星ヴェガン七。人口は三十億。


三十億という数字は、数兆垓年前にイモータルとの接触が始まった頃から、ほとんど変わっていない。


変わらない理由は二つある。


一つは、この文明が「イモータルを一時的に封鎖する技術」を持っていたこと。素粒子分解には至らないが、素粒子の振動を一定期間固定させる「凍結場」を展開できた。凍結場の中ではイモータルは再生も増殖もできない。動けない。封じ込められる。


もう一つは、その技術を持つ研究者が一人しかいないことだった。


名をイリア・ソルという。


女性。推定年齢不明。百三十年前に凍結場の理論を確立した。それ以来、惑星を守り続けている。彼女が意識を保っている間だけ、凍結場は展開され続ける。彼女が眠れば場が緩む。眠れない生活が百三十年続いていた。


「本当に眠れないんですか」と副官のガイア・ネルが聞いたことがある。


「眠ったら死ぬ」とイリアは答えた。「私が、ではなく。三十億が」


「でも先生、いつか——」


「いつかはある」とイリアは言った。「いつかは来る。でも今日ではない。今日でなければ十分だ」


ガイアは黙った。


イリアは端末を見た。凍結場の強度を示すグラフが、七十二時間連続で安定圏内を維持していた。


「ガイア」とイリアは言った。「素粒子分解の研究を続けてくれ」


「もちろんです」


「あと五十年か百年あれば、届くかもしれない」


「先生の凍結場があれば、届きます」


「私が持つかどうかの問題だ」とイリアは言った。感情のない声で。事実の列挙として。「でも研究は続けろ。私が倒れた後でも、誰かが続けられるように」


ガイアは頷いた。


「……はい」


窓の外、惑星の夜側に、凍結場の青い光が薄く広がっていた。イリアが百三十年かけて少しずつ強化してきた場だった。その外側、凍結場の縁に張り付くように、数兆体のイモータルが蠢いていた。


動けない。でも消えない。


待っている。


百三十年間、待ち続けている。






◆ 第二部 数兆垓年の重さ



イモータルには個体としての思考がない。


正確には、最初の一体が思考を持っていた。それが分裂を繰り返すうちに、思考は希釈され、分散し、現在は集合的な本能だけが残っている。


「喰う」という本能だ。


これは比喩ではない。イモータルは他の生命体を文字通り喰う。消化する。消化された生命体の素粒子はイモータルの細胞に組み込まれ、その個体をわずかに増大させる。増大した個体はやがて分裂する。分裂した二体はまた喰い、増大し、分裂する。


四十八万二千の知的文明が絶滅した理由はこれだ。


戦争ではない。征服でもない。ただ喰われた。


しかし凍結場の中では、イモータルは喰えない。分裂もできない。ただ固定される。


凍結場の外にいるイモータルの数は、現在「観測不能」と記録されていた。計測機器の上限を超えていた。宇宙の可視領域に存在する全原子の総数より多い可能性があった。数兆垓年分の増殖がそこにあった。


それが、凍結場の外に張り付いていた。


待っていた。


百三十年間。






◆ 第三部 百三十一年目の夜



百三十一年目の夜、イリアは初めて机に伏した。


倒れたのではなかった。意図的に伏せた。五分だけ休もうと思った。


五分のつもりだった。


「先生!」


ガイアの声で目が覚めた。


端末が警告を鳴らしていた。


凍結場強度:六十七パーセント。


臨界値は六十パーセント。


「どのくらい経った」とイリアは言った。


「……四十七分です」


イリアは即座に意識を集中した。凍結場の強度が戻り始めた。七十パーセント。七十五パーセント。


「間に合った」


「先生」とガイアが言った。声が違う色をしていた。「先生、今、凍結場の東側に——」


「見た」とイリアは言った。


東側の凍結場に、直径四十キロメートルの歪みが生じていた。


イモータルが四十七分間で侵食した範囲だった。凍結場の外縁で待ち続けていたイモータルたちが、場の弱まった瞬間に侵食を開始した。四十七分。百三十年間待って、四十七分で四十キロ。


「修復します」


「先生、眠っていてください。私が——」


「お前には凍結場は張れない」とイリアは言った。「私だけの技術だ」


「でも——」


「続けろ、ガイア」


イリアは立ち上がった。


「素粒子分解の研究を続けろ。あと五十年でいい。私があと五十年持てば——」


イリアの声が止まった。


机の横に、誰かが立っていた。


いつ来たのか、わからなかった。ドアは施錠されていた。警備システムは何も検知していなかった。しかし、そこにいた。


黒いスーツを着た人物だった。目の下に深いクマがあった。右手に書類の束を持っていた。左手に刀を差した鞘があった。


研究室を見ていた。


警告を鳴らし続ける端末を見た。東側の凍結場の歪みを示すモニターを見た。イリアを見た。ガイアを見た。


「……何者だ」とイリアは言った。


「……確認に来ました」と人物は言った。


「確認?」


「凍結場の状態と」人物は書類を一枚めくった。「案件の処理タイミングの確認です」


「案件とは何のことだ」


人物は書類を見たまま、少し間を置いた。


「……この宇宙です」






◆ 第四部 交渉



ガイアが前に出た。


「どういう意味ですか」


人物は答えなかった。モニターを見ていた。凍結場の強度が回復していくグラフを、特に何の感情も乗せずに見ていた。


「答えてください」とガイアが言った。「この宇宙、とはどういう——」


「ガイア」とイリアが言った。「下がれ」


「でも先生——」


「下がれ」


ガイアが下がった。


イリアは人物を見た。


百三十年間、凍結場を維持し続けた目で。眠らなかった百三十年の蓄積が全部入っている目で。


「あなたは、イモータルを止めに来たのではない」


「そうです」と人物は言った。


「止めるつもりもない」


「……それも、そうです」


「では」


人物は書類から目を上げた。


「……世達です」と言った。


「名前を聞いたわけではない」


「……失礼しました」


「あなたは何をしに来た」


世達は少し間を置いた。


「業務の処理に来ました」


「この宇宙を処理する、と言った」


「はい」


「イモータルを含めて、全部」


「……はい」


イリアは息を吐いた。


長い息だった。百三十年分が入ったような息だった。


「あと五十年あれば、素粒子分解の技術が完成する」とイリアは言った。「私が持てば。あと五十年だ」


「……確認します」と世達は言った。書類を一枚めくった。「イリア・ソルの推定残存稼働時間は——」


「聞きたくない」とイリアは言った。「数字は聞きたくない。あと五十年あると信じている間だけ、凍結場を維持できる」


世達は書類を下ろした。


「……わかりました。確認はしません」


部屋が静かになった。


警告音だけが鳴り続けていた。東側の歪みはまだ修復中だった。


「一つだけ聞く」とイリアは言った。


「はい」


「あなたが来たということは、私はあと五十年は持たない、ということか」


世達は答えなかった。


答えないことが答えだった。


イリアは目を閉じた。


少し間があった。


「ガイア」


「……はい」


「研究データを全部、外部サーバーに転送しておけ。私が処理した後でも、データだけは残るように」


「先生——」


「転送しろ」とイリアは言った。「誰かに届くかもしれない。今ではなくても。この宇宙ではなくても。どこかに届くかもしれない。届く先があるかどうかはわからない。でも転送しておけ」


ガイアは動かなかった。


「……ガイア」


「……転送します」とガイアは言った。声が濡れていた。「転送します。必ず」


イリアは世達を見た。


「いいか」


世達は書類を持ったまま、少し間を置いた。


「……残業代は出ますか」と言った。


イリアは一瞬、表情が動いた。


笑ったのか、それとも別の何かなのか、判別できなかった。


「出ないだろうな」とイリアは言った。


「……そうだと思いました」


「ではやれ」


世達は刀を抜いた。






◆ 第五部 精算



刀が振られた。


一振りではなかった。


凍結場の外に張り付いている数兆垓年分のイモータルへ、世達の刃が届いた。物理的な距離は関係なかった。業務命令という法的拘束力が、宇宙の広さを無効化した。


契約の太刀が届くものは、物理的な場所ではなく「案件」だ。


この宇宙は案件だった。


イモータルが消えた。


一体残らず。宇宙の九十七パーセントを埋め尽くしていた数兆垓年分の不死の群れが、一振りの刃で、請求書の配達先として強制徴募された。M社の永久労働力として。


凍結場の東側の歪みが閉じた。


歪みが閉じる必要がなくなったから。外側に何もなくなったから。


警告音が止まった。


端末のグラフから、凍結場の数値が消えた。


計測する対象がなくなったから。


惑星ヴェガン七の夜空が、初めて何もない空になった。数兆垓年間、常に何かが張り付いていた空が、ただの空になった。


三十億の市民が眠っていた。


誰も気づかなかった。


ガイアだけが気づいた。


端末を見て、外を見て、また端末を見た。


「先生」


イリアは答えなかった。


椅子に座っていた。目を閉じていた。


ガイアが近づいた。


「……先生」


息をしていた。


ただ、眠っていた。


百三十一年ぶりに、眠っていた。


ガイアは何も言わなかった。しばらくイリアの隣に立っていた。それから外を見た。


何もない夜空だった。星だけが光っていた。四十八万三千番目の文明が、まだそこにあった。


「転送、しておきます」とガイアは言った。誰に向けて言ったのか、自分でもわからなかった。「必ず」


しかしガイアが端末を操作しようとした瞬間に——


全てが消えた。


イリアが消えた。


ガイアが消えた。


研究室が消えた。


研究データが消えた。


転送する前の研究データが消えた。


惑星ヴェガン七が消えた。


三十億の市民が消えた。


恒星が消えた。


星系が消えた。


宇宙の果ての、最後の空間が消えた。


宇宙が消えた。


全てが消えた。






◆ 第六部 エッグチーズバーガー



虚無だった。


何もない。


さっきまで数兆垓年分の宇宙があった場所に、何もなかった。さっきまで数兆垓年間増殖し続けたイモータルがいた場所に、何もなかった。さっきまで凍結場の青い光が広がっていた場所に、何もなかった。さっきまでイリアが眠っていた場所に、何もなかった。さっきまでガイアが「必ず」と言いかけていた場所に、何もなかった。さっきまで研究データがあった場所に、何もなかった。


世達は虚無の中に立っていた。


足元にバーガーが一個あった。


エッグチーズバーガーだった。



■圧縮後バーガー「イモータル・エッグチーズバーガー」成分詳細



【バンズ】

この宇宙の全物質量の圧縮体。数兆垓年分の宇宙の全星間物質・恒星・惑星・暗黒物質・暗黒エネルギーが、二枚のバンズに収まっている。バンズの外皮はイモータルの細胞に由来する素材で構成されており、通常の物質では不可能な密度を実現している。表面を指で触れると、素粒子単位の振動がわずかに伝わる。数兆垓年分の増殖の残熱だ。


【パティ】

数兆垓年で宇宙の九十七パーセントを喰い尽くしたイモータルの全個体情報が、一枚の肉に凝縮されている。食べた者はその瞬間だけ、「不死」の感触を体験する。傷が消える感触。細胞が修復される感触。分裂しようとする衝動。それが一口ごとに波として来る。パティに素粒子分解の傷は一切ない。完全な形で圧縮されている。唯一の消滅手段を経ずに終わった、という事実がパティの形をしている。


【チーズ】

百三十一年間、イリア・ソルが凍結場を維持し続けた総エネルギーが固体化したもの。眠らなかった時間の密度が、薄いチーズの一枚に収まっている。食べると、眠れない感触が一瞬だけ体を通過する。眠いのに眠れない感触ではない。眠るという選択が存在しない、という感触だ。チーズはイリアが最後に眠った瞬間の温度を保っている。百三十一年ぶりの眠りの温度だ。


【エッグ】

「必ず」という言葉の途中で消えたガイアの意志が卵の形に収まっている。言いかけた言葉の続きは存在しない。研究データの転送は実行されなかった。届かなかった。白身に転送されなかったデータの情報量が封じられている。黄身に——届かなかったという事実だけが入っている。黄身を割ると、何も出てこない。


【ソース】

四十八万二千の知的文明が順番に滅んでいった数兆垓年分の記録が液状化したもの。最初の文明から最後の文明まで、全ての滅亡の瞬間の感情が均等に溶け込んでいる。一口ごとに、別の文明の終わりの味がする。味は毎回違う。共通しているのは、最後に誰かが何かを言おうとして言えなかった、という後味だけだ。





世達はエッグチーズバーガーを持ち上げた。


重かった。


数兆垓年分の宇宙と、四十八万二千の文明と、百三十一年の凍結場と、言いかけた「必ず」が、同時に手の中にあった。


世達はかじった。


虚無の中で、咀嚼する音だけがあった。


食べながら書類を取り出した。ペンを走らせた。


「……処理完了」とつぶやいた。


少し間を置いた。


書類をもう一度見た。


「残業代は」と言った。


虚無に聞いた。


答えは来なかった。


「……出ないか」


書類をしまった。


虚無の一点を指で裂いた。


裂け目に入る前に、一度だけ止まった。


止まって、裂け目ではなく虚無の方を向いた。


さっきまでガイアが「必ず」と言いかけていた場所に、何もなかった。


世達は少し立っていた。


それから裂け目に入った。


虚無が閉じた。


◆ グリマス博士の収蔵記録


nの次元・アーカイブ室 グリマス博士の手記より


【収蔵番号】IMT数兆垓年002

【バーガー形態】エッグチーズバーガー(世達担当)

【世界線分類】不死増殖型生命体支配宇宙 /

       最終文明残存期 / 凍結場展開中終焉

【収蔵クルー】世達

【収蔵日時】イモータル全個体消滅・最終星系崩壊直後


◆ 外観メモ

外観は標準的なエッグチーズバーガー。

ただしバンズ外皮がイモータル細胞由来の超高密度素材のため、

表面の感触が通常品と大きく異なる。触れると素粒子振動を感知。

チーズが通常より薄く、均一な温度を維持している。

エッグの黄身を割ると何も出てこない。検証済み。


◆ 成分分析(抜粋)

バンズ:数兆垓年分の全宇宙質量圧縮体。

第一話収蔵品(百三十八億年宇宙)と比較して

時間軸の長さが文字通り桁違い。

香ばしい。長く焼かれた分だけ、香ばしさも深い。


パティ:イモータル全個体情報密度。

注目すべきは「素粒子分解を経ずに圧縮された」点だ。

理論上唯一の消滅手段を使わず終わった不死の群れが

バーガーになっている。矛盾した食感がある。

死ねないものが死んでいる、という感触。珍品。


チーズ:凍結場維持エネルギー固体化。

百三十一年分の「眠れない時間」が薄い一枚になっている。

最後の眠りの温度を保持している点が特筆すべき性質。

収蔵後も温度が変化していない。


エッグ(黄身):未実行の意志。

「必ず」という言葉の残滓が封入されているが、

割っても内容物がない。実行されなかったから。

形はあるが中身がない卵。内部は空洞だ。

副作用として「何かをしなければならない」という

根拠不明の焦燥感が生じる可能性あり。原因は不明。


ソース:四十八万二千文明の終わりの味。

一口ごとに異なる文明の最後の感触が来る。

共通の後味についての分析:

「言えなかった何か」の成分が全文明分、均等に溶けている。

甘くも辛くもない。ただ、残る。


◆ 総合評価

数兆垓年という時間軸の長さは特筆に値する。

しかし最も印象的な成分はエッグの黄身だ。

何も入っていない卵が、一番重かった。


◆ 食後クルー(世達)特記事項

裂け目に入る前に一度止まった。

ガイアが「必ず」と言いかけていた方角を向いた。

立ち止まった時間:不明。虚無に時間が存在しないため。


理由を確認したところ

「……書類の記載漏れがないか確認していました」との回答。


記載漏れは確認されていない。


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