《最後に鳴った音をくださいバーガー》
この町では、音を捨ててはいけない。
朝の目覚まし。
鍋の蓋が跳ねる音。
靴底が濡れた石を踏む音。
赤ん坊のくしゃみ。
一度鳴った音は、硝子瓶へ入れて保存する。
音屋の娘、ミナは、瓶の栓を抜く仕事をしていた。
「古い音は、古い順に並べて」
父はいつもそう言う。
棚には、風鈴の音、祭りの太鼓、遠い汽笛、誰かの笑い声。
ラベルには日付だけが書かれている。
ミナの母の声だけ、瓶が空だった。
十年前、母がいなくなった日に、音も消えたのだ。
*
ある夜、町の中央鐘楼が鳴らなくなった。
鐘はある。
綱もある。
だが叩いても、音だけが出ない。
翌朝、町中の音が一つずつ消えた。
鶏が鳴かない。
川が流れない。
市場の呼び声がない。
子どもが走っても、靴音がしない。
音屋へ人が押し寄せた。
「返してくれ」
「うちの店の音だ」
「昨日の喧嘩の声までなくなった」
父は瓶を確認した。
空ではない。
中身はある。
なのに、栓を抜いても音が出ない。
ミナが一本を床へ落とした。
ぱりん。
瓶は割れた。
音が戻った。
直後、町の中央で、誰かが叫んだ。
声はなかった。
口だけが開き、喉だけが震えている。
*
音は保存されていたのではない。
瓶の中で、待たされていた。
割れた瓶から戻るたび、音は以前より大きくなった。
鍋の音が家を揺らす。
犬の吠え声が窓を割る。
笑い声が人の胸を叩く。
町人は、音を戻すため瓶を次々に割った。
すると、十年前の音まで出てきた。
焼けた家の崩れる音。
閉じた棺の釘を打つ音。
母が最後に呼んだ、ミナの名前。
ミナはその瓶を抱えた。
「これ、どこにあったの」
父が答えない。
瓶の底に、母の指紋がついていた。
*
鐘楼の中へ入ると、巨大な黒い瓶が吊られていた。
町中の音が、そこへ吸い込まれている。
鐘を鳴らす綱も、時計の歯車も、全部が瓶の首に結ばれていた。
父が言った。
「鐘楼は音を作っていたんじゃない。集めていたんだ」
「誰が?」
「お前の母さんだ」
母は音屋を継ぐ前、町の音を一つにまとめようとしていた。
喧嘩も、雨も、子どもの泣き声も、全部を混ぜれば、誰も孤独にならないと思った。
だが音を混ぜるほど、個別の声は聞き分けられなくなった。
母は最後に、自分の声だけを黒い瓶へ入れた。
「町を静かにするために?」
「違う」
父は黒い瓶を見上げた。
「自分が、何を言ったか忘れたくなかったんだ」
*
黒い瓶にひびが入った。
中から音が噴き出す。
町の全員の声。
消えた川。
壊れた家。
まだ生まれていない子どもの泣き声。
音の塊が、空を膨らませた。
町の屋根が震え、瓦が飛ぶ。
道路の石が跳ねる。
小麦粉の袋が市場から舞い上がる。
音の振動で捏ねられ、熱を持った鐘楼の内部で焼ける。
丸いバンズ。
牛肉は肉屋の包丁が刻む音に合わせて叩き潰され、厚いパティになる。
レタスは川のせせらぎに揉まれ、
トマトは笑い声で弾け、
玉ねぎは泣き声の水で薄く裂けた。
最後に、母の声が黄色い薄膜へ変わり、チーズとして全体を覆った。
二枚のバンズが閉じる。
音だけが、まだ鳴っていた。
*
ミナはバーガーの前に座った。
父はもういない。
黒い瓶の破片だけが、皿のように周りへ並んでいる。
バーガーを持ち上げると、内部からいくつもの音が漏れた。
笑い声。
雨。
遠い汽笛。
母の声は、もう聞き分けられなかった。
ミナは一口かじった。
肉汁の中に、かすかな鐘の味がした。
商品札は、割れた瓶の首に結ばれていた。
《最後に鳴った音をくださいバーガー》




