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《番台から海が見えるバーガー》


この町の銭湯には、排水口がない。


湯を捨てる必要がないからだ。


閉店すると、浴槽の湯は一晩で少しずつ減る。 朝には底が乾いている。


誰も不思議には思わない。


「湯は空へ帰るんだよ」


祖父はそう言っていた。


高校二年のユイは、祖父が倒れてから三か月、学校帰りに銭湯を手伝っていた。


午後三時。 薪を入れる。 四時。 暖簾を出す。 五時。 常連の老人たちが来る。


九時五十分。 最後の客を追い出す。


「追い出すなよ」


番台の祖父が言う。


「十時閉店」


「時計より客を見ろ」


「そのせいで毎日遅いんでしょ」


祖父は笑った。


その夜、最後の客は十一時まで出なかった。


*


翌朝。


男湯の浴槽が満杯だった。


ユイは蛇口を確認した。 閉まっている。


湯は昨夜より増えていた。


しかも冷たい。


水面に、小さな銀色の魚が泳いでいる。


「おじいちゃん」


祖父は杖をついて浴室へ来た。 魚を見る。


「海だな」


「見れば分かる説明やめて」


祖父は湯を舐めた。


「しょっぱい」


「舐めないで!」


海水だった。


浴槽の底には砂。 排水口のないはずの壁際で、ワカメが揺れていた。


営業できない。


そう思ったのに、祖父は暖簾を出した。


「海水浴じゃん」


「温めれば風呂だ」


「魚いるけど」


「追加料金は取らん」


*


客は喜んだ。


海水風呂。 天然。 魚つき。


翌日にはテレビが来た。


ところが三日目。


女湯にも海が来た。


四日目。


洗い場まで水位が上がった。


五日目。


富士山の絵の水平線と、本物の水面がぴたりと重なった。


壁の絵から波が来た。


ざぶん。


桶が流された。


ユイは脱衣所からホースを持ってきた。 外へ汲み出す。


ホースの先から海水が道路へ流れる。


だが浴槽の水位は下がらない。


代わりに、町の空から雲が消えた。


*


その夏、雨が降らなくなった。


川が細くなる。 田んぼが割れる。 ダムの底が見える。


銭湯だけは増え続けた。


浴室の天井近くまで海水が来た。


保健所も消防も入れない。


ユイと祖父は脱衣所のロッカーに座り、ガラス戸の向こうで泳ぐアジを見ていた。


「閉めよう」


ユイが言った。


「もう閉まってるようなもんだ」


「店じゃなくて、これ」


ユイは元栓を指した。


祖父の顔から笑いが消えた。


「それは駄目だ」


「なんで」


「先代にも言われた。元栓だけは閉めるなって」


「理由は?」


「聞かなかった」


「聞いてよ!」


祖父は少し考えた。


「昔は、年寄りの言うことを全部聞くと格好悪かったんだ」


「今めちゃくちゃ困ってるけど」


「そうだな」


ユイは元栓へ手をかけた。


祖父が止めるより早く、回した。


ぎい。


閉まった。


*


海水が消えた。


一瞬で。


浴槽の底にアジが三匹落ちた。


びたびた跳ねる。


ユイは笑った。


「ほら!」


外で音がした。


雨だった。


三か月ぶりの雨。


町の人が道路へ出る。 子供が傘も差さず走る。


祖父も笑った。


だが雨は、十分で止んだ。


空が青くなった。


青すぎた。


雲が一つもない。


鳥もいない。


夕方になっても、太陽が動かなかった。


ユイは番台の時計を見る。


針が止まっている。


「壊れた?」


祖父が外へ出た。


西の空を見て、言った。


「違う」


太陽が止まったのではなかった。


空が止まっていた。


*


翌日も昼だった。


海は動かない。 風もない。 雲もない。


町の気温は四十三度を超えた。


祖父は古い帳面を引っ張り出した。


明治。 大正。 昭和。


歴代の入浴客数と、使用湯量。


ただし、奇妙な欄がある。


《返湯》


一日に何千リットル。


「これ、捨てた湯?」


祖父は首を振った。


「うちは湯を捨てない」


ユイは浴槽を見る。


ようやく分かった。


銭湯の湯が空へ帰っていたのではない。


空の方が、銭湯から湯を受け取っていた。


人が浸かった湯から水が上がる。 雲になる。 雨になる。 川になる。 海へ行く。


そして海水が浴槽へ戻る。


この町の水は、ずっと銭湯を通って回っていた。


元栓は水道ではない。


循環そのものだった。


「開けるよ」


今度は祖父も止めなかった。


*


元栓を開いた。


水が戻った。


ただし、浴槽からではなかった。


空から海が落ちた。


青空が一枚、剥がれた。


その裏に海があった。


何億トンもの水が町へ落下する。


ユイと祖父は番台へしがみついた。


屋根が消える。


商店街が流れる。


パン屋から小麦粉の袋が破れて飛び出した。 水を吸う。


精肉店の冷蔵庫が横倒しになる。 牛肉が巨大な鉄板の上へ滑った。


鉄板は、銭湯のボイラーだった。


薪が水に消える直前、最後の炎が噴いた。


じゅう。


肉が焼ける。


八百屋のトマトと玉ねぎが、洗面器いっぱいに流れ込む。


祖父が叫んだ。


「桶!」


「何するの!」


「浮く!」


「無理でしょ!」


二人で黄色い桶につかまった。


無理だった。


三秒は浮いた。


*


町は水の中で砕けた。


小麦粉は波に揉まれ、生地になる。


ボイラーの残り火が上下から焼く。 丸いバンズ。


焼けた牛肉は水圧で押し固められ、厚いパティになった。


トマト。 玉ねぎ。 商店街の八百屋から流れたレタス。


海水の塩。


全部が巨大な渦へ吸い込まれる。


中心に、銭湯の浴槽があった。


白いタイルが一枚ずつ剥がれ、渦の外へ飛んでいく。


最後に残ったのは、底の丸い栓。


本当は最初から、排水口があった。


祖父が見た。


「あるじゃないか」


ユイも見た。


「今それ言う?」


栓が抜けた。


世界中の水が、一点へ落ちた。


海。 川。 雨。 雲。 人間。 町。


全部。


最後にバンズが重なった。


ぽん。


*


静かになった。


番台だけが残っていた。


ユイは座っている。


隣に祖父。


服はびしょ濡れだった。


目の前にバーガーが一個。


下のバンズから、水が一滴落ちた。


祖父が反射的に雑巾を取る。


「床が傷む」


「床ないよ」


祖父は足元を見た。


本当にない。


雑巾を戻した。


バーガーの横には、銭湯の木札が立っていた。


《番台から海が見えるバーガー》


ユイが半分に割る。


断面から湯気が出た。


一口かじる。


肉汁と一緒に、塩気の強い水が溢れた。


祖父も食べる。


「いい湯だな」


「それ食べ物に言う?」


二人の足元を、銀色の魚が一匹だけ泳いでいった。


水は、どこにもなかった。


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