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第8話 日芽野牡丹の話

 私……日芽野牡丹は、どうしようもなく臆病な人間だった。

「ほら、アイス買ってきたよ」

「おおっ、これ限定の味じゃん! ありがと」

「ほら、一緒にシェアしてみない?」

 友達なんていなかったし、連絡先は両親と親戚だけ。

 中学になれば変わると、漠然とそう思っていたが、自分と関わりのない同級生がただ増えたのみだった。

 そんな自分に初めての彼氏ができたのは、中学二年生の夏。

「写真撮ろう。よし、ここなら映えそうだな」

 テニス部のエース、クラスの人気者。終業式の日、彼の方から校舎裏に呼び出してきれ告白された。

 羨望の視線は、向けられることも多かった。それでも足りない貯金をやりくりして、彼に相応しい人間になれるように、必死に努力する日々。

「はい……チーズ!」

「すごーい! これ、一生の思い出だよ」

「ふふっ、喜んでくれたなら嬉しいな」

 その日は買い物に出かけ、服を新調しに行く予定だった。

 来週は初めてのデート。地味なファッションを捨て、これで自分も大人の階段を上れると、そう思っていた。

 駅に向かう道中の公園で、自分は鞄を落としてしまう。

「これ……プレゼント。欲しかったやつだよね?」

「あー、マフラーじゃん! ありがとうっ!」


 会う予定だった彼氏が、見知らぬ女子とデートをしていた。


 放課後、靴を履き替えようとしていた彼を、呼び止めた。

「カグちゃん、あれはどういうことなの?」

 何かの間違いだと思った。ただの知り合いか兄妹で、仲良くしている姿がデートに見えた、とか。

 しかし踊り場に着いた彼は、今まで見覚えのないような冷え切った視線をこちらに向けた。

「……どういうこと、って?」

「昨日、公園でデートしてたでしょ?」

「ああ、見ちゃったのか」

 否定しなかった。最初から、そのつもりだったかのように。

「見ての通りだよ。君にはもう飽きたんだ」

 有り得ない。自分は何も、悪いことなんてしてないのに。

 思えばキスも交わしていなかった。エッチは少し先だとしても、せめて愛を深めるための証が欲しかったのに。

 何も始めることができずに、自分の恋は終わってしまう。

「えっ……?」

「んー、正確には、最初から好きじゃなかったかな。付き合うフリをして、適当に弱みでも握ってやろうって思ったけど、思ってたよりつまんなかった」

「何言ってるの、カグちゃん?」

「いちいち説明させんなよ、頭悪いなあ」

 足を踏み鳴らしながら、彼が近付く。胸倉を掴まれた。

「お前みたいな不細工、俺が好きになるわけないだろ!」

「きゃっ……!?」

 頬をビンタされ、受け身も取れずに壁に叩き付けられる。

 手すりが腰に当たる。そのまま崩れ落ちたが、鈍い痛みがそのまま身体に刻み付けられた。

 それでも言い返せない。心が軋んで、言葉を出せない。

「ちょっと優しくしてやったら勘違いしやがって。ツナギのそれ以下、ゴミのくせに調子乗んなよっ!」

 蹲る自分を、彼は何度も蹴り飛ばす。お腹に衝撃が加わり、その場で戻しそうになるのをぐっと堪える。

「やめ、やめて……カグちゃん!」

 助けて、と階段に手を伸ばす。視線の先には、一部始終を見つめているクラスメイトたち。

 が、カメラを向けられていたことに気付く。こちらが声を上げても、助けに入る気配はない。

 取り巻きだった。こうなる前に、彼と口裏を合わせて。

「……これ以上、俺の時間を無駄にさせんな。ボケ」

 一通り痛め終えたら、彼は一瞥もくれずに背を向ける。

 もう一度だけ、やり直させてほしい。ダメな所があったなら、頑張って直してみせるから、必ず。

 そう言って、過ぎ去る彼の足を必死に掴もうとした。

「待っ、て……」

 しかしぞの腕に、動ける力はもう残っていなかった。


「えー、あれ誰の? かわいそ」 

「日芽野のやつじゃね、知らんけど」

 自分の写った写真が、教室の隅に貼り付けられていた。

 彼に蹴られているもの、泣きながら、彼に縋ろうとしているもの。

 そして、気の迷いで彼に送った、下着姿の……

「どう、してっ……!」

 早朝、みんなに見られる前にそれらを剥がし、原型が残らないまで破り捨てた。

 本当は、浮かれた自分が悪いのだと分かっている。

 身の丈に合わない夢を見て、身の程を弁えない言葉を交わして、自分の身を顧みない行動をしたから、全部自分に返ってきたのだと。

「お前の人生、いつだって滅茶苦茶にできるんだよ」

 忘れ去られた方が、いっそ幸せなのかもしれないと思った。

 しかし日を追うごとに、こちらに返ってくるものは徐々に増えていく。

「逃げられると思うなよ」

「調子乗んな不細工間抜け」

「地獄の底まで追いかけてやるからな」

 彼の取り巻きである男子数名が、自宅の郵便に何かを入れているのを目にした。

 数十通に近い、呪いの言葉。間に受けては受けないと思いながらも、それらは一本ずつ自分の心に針を刺していく。

 もし親に知られたら、自分の弱さも浅ましさも、全部剥き出しになってしまう。

 だから手紙も、自分の手で残さず捨てるしかなかった。

「ごめんなさい、ごめんなさい……」

 一体、自分は誰に向けて謝っているのだろう。

 謝っても、誰かが自分の写真を貼る。誰かが呪いの言葉を贈り、誰かがありもしない噂を流して、誰かが面白がって自分を殴る、蹴る。

 何故謝っているのか、分からなくなるくらい自分は謝った。

「もう……ゆる、して」

 いつからか自分は、学校にも行く気力すら失ってしまう。


 一人きりの部屋。ベッドに寝そべりながら、スマホを持つ。

「……」

 目を逸らして、溜まった不在着信は、優に百件に上る。

 みんな、知らない番号。自分の連絡先を検索すると、誰かがネットに転がしていたことが分かる。

 人気者になりたい。変わりたいと思っていたかつての自分を、殴って燃やしたくなった。

「……誰か、助けて、よぉ」

 枕に自分の顔を押し付ける。散らばった髪が鬱陶しい、涙の感触が気持ち悪い。それと、寒い。

 目を閉じれば、今度は何もない感覚に潰されそうになる。

 自分に構わないでほしい。でも、置いて行かないでほしい。

 せめて、肩を並べて歩いてくれる人が欲しい。辛いことや苦しいことをぶつけて、それでも笑って自分を励ましてくれる、誰よりも都合のいい人。

「もう、苦しい、のは」

 喉の渇きも、空腹も、寂しさも、自分に降りかかる全てを、消してしまいたい。


「いや……」

「嫌なら、このオレが助けてやろうか?」

 驚いて飛び上がる。声がしたのは、自室の小さな鏡。

 自分の見知った声ではない。震える手で電気を付けて、恐る恐る歩み寄った。

 鏡の内側だけに、黒いタキシードを羽織った青年の姿。

「……ひっ!?」

「おっと、声は上げるなよ。助けを求めたのはそっちだぜ」

「貴方、だれ?」

 両足は透けていた。幽霊、という言葉が頭をよぎる。

 しかし青年は幽霊というには威厳があり、視線も鋭い。今この瞬間も生きようとする、執念を感じられた。

 凄い。今までの自分には無かった、強さと逞しさ。

「オレは悪魔さ。君の心から生まれた、君の欲望を満たすための存在」

 鏡から、青年が出てきた。実体は無いはずなのに、頬を撫でられたような感覚が走る。

「悪、魔?」

「訳が分からんって顔だな。まあ、信じろっていう方が厳しいか」

 正気なら叫んで、人を呼んで追い返していたかもしれない。

 でも、藁にも縋る思いだった。この部屋に閉じこもっていても、いつか終わりが来ると思ったから。

 だから、自分は青年の後を追いかけ、悪い子になった。

「行動で示してやる。ちょっと、貴重な時間を拝借するぞ」


 ついて来いと言われ、連れられた先は市街地の一角。

「悪魔は人に憑り付ける。ちょっと危ないから、見える範囲で離れてな」

「えっ、何をするの……?」

「君の重荷を、取っ払ってやるのさ」

 街路樹の裏に隠れる。やがて現れたのは、鞄を持った下校途中の男子生徒。

 人の目を盗んで、自宅の郵便受けに手紙を入れた取り巻き。

 悪魔は工事現場に向かう。内部をすり抜け、こちらからは姿が見えなくなる。

「っ……!?」

 その瞬間、現場の足場がみるみるうちに崩れていく。

 男子生徒が異変に気付き、頭を振り上げた。しかし、鉄骨の前に全身が凍り付き、動かない。

 地震のような揺れと轟音が、辺り一帯に響き渡った。

「うわぁぁぁっ!!」

「ひっ!」

 両手で顔を覆う。相手は避けることもできず、直撃。

 通行人が目を見開いて足を止める。人の代わりに、そこにあったのは鉄骨の山だった。


「即死じゃない。ざっと、全治三ヶ月って所かな」

 大勢のパトカーと救急車が押し寄せる。それなのに、悪魔はやけに冷静だった。

 救急隊も警察官も、彼の身体をすり抜けて走っていく。

 犯人は見えず、証拠も何一つ残らない。誰も、真実が分からない完全犯罪。

「……どう思った、牡丹?」

「えっ……?」

「倫理とか、法とか、そういうのは全部追いといて、君の感想を教えてくれ」

 こんなのダメだよ、と言いかけた自分の口を封じ込める。

 違う。それよりも先に、心の奥底から湧き上がってきた感情があるだろう。

「……こうなって、当たり前だよ」

 自業自得。助けてほしいという叫びを蹴り落とした男が、今更助けてくれなんて都合がいい。

 同じように、自分も蹴り落としてしまえば心が晴れる。

「そうだよ、私は全部奪われたの。ちょっとぐらい人を傷付けたって、欲張ったって……」

「その通り。君はもっと、自分を大切にするべきだ」

「こんな、奴らなんて」

 いなくなればいい。誰よりも強く、そう願いを込める。

「おめでとう。君はようやく、真っ当な人間になれた」

 まるで門出を祝うように、悪魔は微笑みながら、音を立てずに拍手した。


 契約書。文字の読めない一枚の紙と、ペンを手渡される。

「……ねえ、貴方のお名前は?」

 これに記入すれば一蓮托生。辛いことがあれば、いつでも悪魔に助けを呼べるらしい。

 下線部に氏名を書く。不思議と、迷いは微塵もかかった。

「無い、オレには」

「えっ?」

「言っただろ。君の心から生まれたから、赤ん坊も同じだ」

 取っ手の方を向け、ペンを返す。名無しの悪魔というのも、呼びづらくてばつが悪かった。

「じゃあ……ホタルっていうのはどう?」

 向かいに座る悪魔が、不思議そうな表情でこちらを見る。

 もっと良い名前はあったのかもしれない。しかし、考えるよりも先に出てきたのは、それだった。

「私の心に光を灯してくれたから、ホタル」

「なるほど、良い名前だな」

 もう一度、彼の全身を見回す。契約書を書いたからか、透けていた彼に綺麗な足が生えている。

「それじゃあ、決まり。よろしくね、ホタル」

 こちらから先に手を伸ばす。嫌な記憶となった彼氏の感触を、新たな拠り所で上書きしていく。

「ああ。牡丹」

 今度こそ、握った手には確かな温もりがあった。


 続く

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