番外編其の九 透石家に巣食いたる者――後編
「当主様――!当主様!」
私を呼ぶ声に合わせて、布団が擦れる音と古い床が軋む音が聞こえる。上を向けば、かなり高い所に梁があって、その更に上には斜めにかけられた天井が見える。私を呼んでいるのは、私が産んだ双子の娘――空冷と逢音だ。女によく似た茶髪に白い肌、だけど女よりも細い体型をしている。
女の身体を受け継いで実に20年。この身体は限界を迎えていた。予感はあった。髪はとっくに総白髪だし、関節の動きも筋肉の動きも鈍い。近くも遠くもよく見えない。シワだって多い。この一族で何度も人の死と立ち会った。彼らの特徴と、今の私の特徴はよく似ている。きっと、もうすぐ死ぬ。死ぬ瞬間くらい、身体を女に返してやったっていい。それくらいの義理は感じている。
――女、いるか?
――ええ、ずっと。
どこからか、女の声がした。ずっと、私が生きる様子を見ていたようだ。
――死ぬ瞬間くらい、身体を返してやったっていいんだぞ。
――悪いけど、私は人として生きるのに向いていないみたい。あなたが生きている私を見るほうが、よっぽど楽しい。
――そうか……。
女の置かれた状況は、かなり酷かった。だが、それは私が全部解決した。応声虫は、そういうのに向いているらしい。私たちなりの、生存戦略だったのだろう。否定はしない。私は身体の主よりも生きるのが上手だった。ただそれだけのこと。
「空冷、逢音――。もういい」
この日、私は透石家当主、透石天音として生きることを辞めた。もっと怪異らしく。残酷に、凄惨に、酷く、醜く、恐ろしく生きることを決めた。
永遠の命。この世界では、望んでも望めないものらしい。私ならできる。応声虫として、透石天音のちからを使えば、絶対にできる。見通しはもうある。この身体を受け継いで、2年目で気づいた。この身体と、あの人が教えてくれた。あとは、ジッセナルのみ。
「下がりなさい。私は1人で死にたいの」
「……はい、当主様――いえ、お母様」
「……はい」
襖が閉じる音とともに、2人の気配がこの部屋から消えた。私は、自分の内側に意識を向ける。何度も何度も赤子の身体をいじることで掴んだ、霊力回路の感覚。ここ数年は、お上に頼まれて武士の暗殺をこなしたこともあった。人体の構造も、だいたい分かる。そしてあの時――最強の霊能力者と死合いをした時の、あの感覚。
腹に、何か熱いものが乗っているのがわかった。その熱いものが、今にも腹から出ようとしていることも。腹が引き裂かれる痛みと同時に、私は私の受け皿になっていた身体を、見下ろしていた。身体がひずみ、馴染みある形をとっていく。ふくふくとした身体に、艷やかで長い髪。柔らかな手、澄んだ視界。裸の女だった。全盛期の、出会った頃の女。私を見下ろし、身体を差し出した女の体。唯一異なる点は、女が茶髪だったのに対して、私は黒髪である点か。
今、私が見下ろした女は、老いぼれてあらぬ方を見ている。結局、女と私が語らうことはなかった。女の人生を代わりに全うした私が言うのもなんだが、女は人生に満足したのだろうか。私に身体をあげて、後悔はしなかっただろうか?わからない。きっと、わかることもない。
「お母……様?」
いつの間にか襖が再び開かれ、その向こうには空冷が立っていて、その背中に逢音が隠れていた。
「いいえ?お母様では、なくってよ」
過ぎてみればあっという間の400年で、私が1番心配していた謀反も起こらなかった。ただ、盛者必衰の理とはよく言ったもので、終わりはいきなり始まってしまった。
「なあ、当主様。あんた、怪異なんだって?」
若いのに、鋭い視線と熟練の身のこなしで初老の貫禄があるその男が聞いてきた。その男は、間違いなく私が産んだ息子だった。狭い廊下で、人目はない。私と、偉黎だけ。曲がり角の向こうからゆらりと現れた偉黎は、左の腰に下げた刀に、手をかけていた。
「さあ、どうでしょう?そう言われることはありますが……偉黎、あなたがどう思うか、ですよ」
似たようなことは何度もあった。ただ、肝を冷やしたのはこの時が初めてだった。この子は何かが違う。殺される。今度こそ。私はそんな事を感じ取っていたように思う。
「とぼけるなよ。不老の霊能はあっても、不死の霊能は存在しない。基礎中の基礎だろう」
その子は、武芸の才覚だけでなく、学業の才覚もあった。まともな家に生まれていれば、将来有望なアスリートにでもなっていただろう。ただ――相手が悪かった。
「あなたの判断次第でしてよ」
「そうか」
偉黎の空気が変わった。重くなったのではない。むしろ、軽くなった。私は偉黎を危険だとは思っていなかった。どうせ勝てる。それくらいの相手だと信じて疑っていなかった。ただ一つ、誤算があったのとするのなら、偉黎の刀が霊力で創った物ではなく、職人が打った真剣だったことくらいか。
「ゲホッ、ゲホッ」
耐え難い痛みが身体を駆け巡り、口から血が吐き出された。耳は切り落とされて両方床に転がっている。そのせいか、水中から浮上したときのようにごろごろと聞こえるばかりで、碌な音が拾えない。着物も切り裂かれ、ところどころ傷が見えている。口を抑えた手には、赤い血がべったりと付いている。
「実体はあるんだな、応声虫」
「なんのことでして?私は人間ですの」
「よく言うな」
偉黎の抜刀速度は、戦乱の世を生き抜いた武士たちの比じゃない。そりゃそうだ。凡人と霊能力者じゃ、素体の強度も、身体能力もぜんぜん違う。ただ、この私が見えないまでとは――!
「若党たち、でてきなさい」
私が若党を呼ぶと、偉黎が、にっと笑った。
「当主様、見えていらっしゃらないのか?」
偉黎に言われて狭い廊下を見渡すと、そこら中にばらばらになった若党の死体が転がっていた。
「当主様、俺は怪異とはわかり会えねぇ」
座り込む私の視線にあわせて、偉黎も中腰になった。偉黎の目には、静かな決意が宿っていた。
「新家、石谷家の設立を宣言します」
私の人生唯一の謀反だった。
「当代最強……藤樹瑠衣――!」
あの子はまずい。一瞬で地面まで叩き落とされた私は、色濃く見せつけられた死を受け取り難く思っていた。正直な話、江戸の時代に死合った最強が、まるで可愛く見える。石谷家が独立して、透石家の力は大きく損なわれた。偉黎が強い構成員を全員連れて行ったからだ。だから、今、あの子に抵抗できるほどの戦力は私以外いない。せめて、石谷家に生まれたという石谷空音でもいたら――。
「と、当主様。お怪我はございませんか?」
私の部屋の下は、茶室になっている。本家には、私しか住んでいないから、配属されている料理人も4,5人だ。お世話をしてくれる側仕えのような存在も、せいぜい10名ほど。あとは、本家で研究をしている研究員と、本家の警備をする兵士達。どれも、石谷家に連れて行かれた奴らの足元にも及ばない。
「あなた達が役に立てるのは、これくらいかもしれませんね」
茶室の掃除をしていた側仕えの腹を、私は右手で抉った。女の体はいい。すぐに壊れてくれるから、こういうことに余計な力を入れなくて済む。その側仕えの女は、目を大きく開いたまま息絶えた。腹に仕込んでおいた私の分身。
「続けといて良かった」
私は側仕えの中で大きく育った自分の欠片を、丸呑みする。抵抗なく分身は吸収され、霊力と生命力が補給されていく。何度落とされても、この家にある命分は、回復できる。
全力を尽くせ。ここが瀬戸際だ。
何度落とされても、分身を補給して――たまに人間も食べて戦った。全力を尽くした。全身全霊で。
藤樹瑠衣を精神世界に落としたときは、驚かされた。まさか、私の中から脱出するとは。
格が違う。存在として。
「バレバレなんだ。あなたの擬態なんて」
刀の刃先が、私に向かって落ちてくる。諦めのような、安心のような――そんな気持ちが先立った。きっと、鈴音を写したことも影響しているのでしょう。生に貪欲にしがみつきたかった私は、もういない。400年も生きれば、十分だったのかもしれない。
「あーあ、バレちゃいましたか」
鈍い衝撃とともに、命が溶けていく熱さが広がっていく。身体を貫いた刀に滴る赤い血は、もうない。偉黎のそれとは違う、霊力で創られた鋭い刃。凶暴な――エルフの魔法と同じ、圧倒的な存在感。
死。
偉黎のときには浮かばなかった一文字が、まざまざと意識された。蒸発して消えていく身体は、決してもとに戻ることもない。私が元いた世界の仲間に、死について研究している鬼がいた。異世界で死んだら、輪廻の枠から外れるらしい。虫を使って実験したそうだ。
「クソっ、クソっ――。畜生!何年俺が生きてきたと思っている!年寄りは敬いなさいよ!私は尊属なんだよ!あんたじゃなきゃ、俺が勝っていたのに!あの娘がいなければ、僕が負けるはずなかった!」
今までの喰ってきた、写してきた存在達が一斉に喚いた。主張した。まだ、死にたくない――と。いくら叫んでも、身体は戻らない。無情なルールのもとで、一つの命が失われるだけなのだから。
「いやだ。いやだいやだいやだ。死にたくない――」
叫びは届かなかった。
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