三十二、残酷な提案
授業を終えた私は海の国へ向かった。昨夜のうちにマリーナ姉さんと約束してしまったから、私が行かなければ姉さんを心配させてしまう。
マリーナ姉さんという仲間が戻ったおかげか、海の国は以前よりも明るくなったように感じた。みんな仲間が戻ったことを喜んでいる。マリーナ姉さんも海の暮らしに戻れたことであの夜よりも雰囲気が柔らかくなったように思う。
でも私は……
せっかく故郷に帰ってきたというのにちっとも喜べない。その理由も原因もとっくに自覚している。
私、旦那様のことが気になって仕方がないのね。どうして避けられているのか、きちんとその訳を知りたいのだわ。またいつもの関係に戻りたいと望んでいる。
このもやもやとした気持ちは旦那様から話を聞くまで続くだろう。
私は用事があるからと断りを入れ、慌ただしくも城へ戻ることを告げていた。仲間たちや家族は名残惜しそうに引き留めてくれるけれど、落ち着いてからゆっくり訪ねることを約束した。
こんなにも旦那様のことばかり考えてしまう日が来るなんて思わなかった。私が旦那様のことばかりを考えているなんて、貴方は知らないのでしょう? もし伝えたのなら、旦那様はどんな顔をするかしら。なんて言って驚いてくれるのかしらね。
旦那様に会えたら伝えてみようと思う。洞窟で人間の姿へと戻り、身なりを整えた私は足早に洞窟を出ようとする。けれど名前を呼ばれたことで振り返ると、海から顔を出すマリーナ姉さんがいた。
「マリーナ姉さん?」
振り返るとマリーナ姉さんは穏やかに微笑む。でも、どうしてかしらね。綺麗な笑顔のはずなのに、今日は少しだけ怖いと思った。大好きな姉を前にそんなことを考える自分はおかしいのかもしれない。でもなんだか、私の知らない人みたいに見えてしまった。
「どうしてもエスティに伝えたいことがあって、追いかけて来たの。貴女は本当に泳ぐのが早いから、間に合わないかと思ったわ。今日は随分と早く帰ってしまうんですってね。みんな嘆いていたわよ」
「少し気になることがあって……ごめんなさい」
「あら、怒っているように見えた? いいのよ。貴女にだって都合があるわ。でもきっと、私には理解出来ないような理由なのね。だって貴女は人間なんですもの」
「マリーナ姉さん……ねえ、どうしたの?」
「今日は私のために、忙しいのに無理をして来てくれたのよね。嬉しかったわ。でもねエスティ、私どうしてもわからない。貴女、本当に幸せ? もしも人魚に戻る方法があると言ったら貴女はどうする?」
「私は人魚に戻りたいなんて思っていないわ」
「もしもの話も嫌? そんなに急いでいるの? それとも私とは話ていたくない?」
「……そんな方法があるとは思えないわ」
けどマリーナ姉さんの口ぶりはまるで方法があると言っているみたいで、嫌な予感がする。
私を安心させるような穏やかな表情だった。それなのに引き上げられたマリーナ姉さんの手には短剣が握られていて、変わらない表情で告げる。
「これであの王子を刺しなさい」
たとえ今はわかり合えなくてもいつかは……そう考えていた私が甘かったの? 私はマリーナ姉さんの言葉が信じられずに立ち尽くしていた。
「海の魔女が人間に戻る方法を教えてくれたのよ。あの人なら貴女が人魚に戻る方法を知っていると思ったわ」
光の届かない海の底、洞窟の奥に暮らし、なんでも知っているけれど怪しげな薬ばかりを作る危険な人魚。獰猛な生物を従えているため危険視され、おかしな薬の実験体にされてはたまらないと近寄る人魚はいない。
「確かに今は幸せなのかもしれない。見たことのない物に囲まれて毎日が楽しいのでしょう。でもその幸せは永遠のもの? あの王子様は老いていく貴女を変わらずに愛してくれる? 私は大切な妹が傷つくところを見たくないだけなのよ。わかってくれるでしょうエスティ。まだ間に合うのよ」
「マリーナ姉さん……」
「ええ」
マリーナ姉さんは私が望む答えを返すと信じている。
私はマリーナ姉さんのことが大好きだった。おとぎ話に語られている本物の人魚姫のようだと憧れていた。マリーナ姉さんも私のことを可愛い妹として愛してくれていた。でも私は可愛くなくていい。たとえ姉の期待を裏切ったとしても答えは変わらない。
「私には無理よ」
ごめんなさい、マリーナ姉さん。
「エスティ?」
「私はマリーナ姉さんの望む妹ではいられない。私はあの人と生きたい。この先も一緒にいたいから」
「どうしたのエスティ……貴女、おかしいわ!」
初めてマリーナ姉さんの声は震えていた。私はそれほどまでに姉を傷つけている。
「おかしくてもいい! 最初は成り行きだったけど、あの人はこんな私のことを受け入れてくれた。好きだと何度も言ってくれた。楽しいことも嬉しいこともたくさんあったのよ。私の帰りを待っていてくれる人もいる。私はもう陸の、人間だわ!」
「だから、それは今だけのことでしょう!」
「……きっとこれから先には悲しいことも辛いこともあると思う」
「なら!」
「でもそれが人間だって、私はちゃんと知っているの。知っていてこの選択をした。だから私は人間として生きて――」
人間として死にたい。
取り乱す姉を前に、とても最後までは言えなかった。でもマリーナ姉さんには理解していたと思う。
「どうしてなの……昔はなんでも話てくれたでしょう。強がらなくていいのよ。無理を強いられているんでしょう!? 私は貴女が可哀想で」
「マリーナ姉さん。それは違うわ。私、旦那様のことが好きよ」
こんなにも会いたくて、あの人のことばかりを考えている。私は自分でも気付かないうちに旦那様のことが大切だと感じていた。離れたくない。ずっと一緒にいたいと願っている。自分の知らない姿を知る友人にさえ嫉妬して、避けられれば悲しいと感じるほどに――
好きなのよ。
「だから一緒にいられて毎日が楽しい。それは人間の私でなければ叶わないことだし、旦那様を刺してしまったら叶わないでしょう?」
けどマリーナ姉さんはなおも私を可哀想だと言い続けた。そして短剣をその場に放置して海の国へと戻ってしまう。
「ええっ!? マリーナ姉さんてば、私には必要ないんだから持って帰ってよね!?」
これ、ここに放置してはいけないわよね……かといって持って帰っても危ない気がするし……物騒な物と一緒の置き去りにしないでー!
とはいえいくら叫んでもマリーナ姉さんは去った後、今から追いかけたところで受け取ってくれる保証はないし、この広い海で見つけ出せる自信もない。かといって危険な物を持ち歩く勇気のない私は布でくるん木の根元に埋めてしまった。
これは旦那様とともに生きることを決めた私なりの覚悟でもある。マリーナ姉さんに会った時はもう一度、あの短剣は私には必要なかったと言おう。これから何度伝えることになったとしても、私があれを掘り起こす日は来ない。
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