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第98話 決別する世界

翌朝。

私たちは最寄り駅のロータリーへと戻ってきた。

別れの際、両親は泣き叫ぶことも、無理に引き止めることもなかった。ただ、玄関先でしっかりと抱き合い、お互いの無事を祈り合った。


「もう帰ってくるなとは言わない。でも、元気な顔を見せてくれるだけで、父さんと母さんはそれだけで十分だ」

「うん。またいつか、必ず顔を出すよ。身体に気をつけて、父さん、母さん」


エマもまた、両親と深く抱擁を交わし、別れの言葉を交わした。


もう一度駅前の景色を見渡す。見慣れていた景色のはずが、何故か遠い世界の形式の様に見えてしまう。

私はもう、アルカディア人と呼ばれるほどに、向こうの世界に染まってしまったらしい。

そう自嘲して、そしてアルカディアへ帰還するための座標を合わせようとした――その時だった。


静かな朝の空気に、不自然なタイヤの摩擦音が響いた。


街路樹の陰から、黒塗りの高級車が音もなく滑り込んできた。ドアが開き、降りてきたのは幾重ものスーツに身を包んだ男たちだった。そのただならぬ気配に、周囲の通行人は道を開けるようにそそくさと遠ざかっていく。


先頭に立った男は、神経質な焦燥をその目に宿しながら、作り笑いを貼り付けながら歩み寄ってきた。


「――佐々木春樹さん、だね。お噂はかねがね。このような場所で直接お目にかかれるとは光栄です」


男の口調は丁寧だったが、その底には隠しきれない打算と、権力の臭いが漂っていた。どこから情報を嗅ぎつけたのか、あるいは私の実家の周辺を常時監視していたのか、彼らは私たちがこの場所に現れる瞬間を待ち構えていたのだ。


「国家の特別研究機関の者です。率直に申し上げましょう。あなたがお持ちの『次元転移能力』、および向こう側の世界との往還技術は、我が国の、いや人類の未来にとって不可欠な最大の資源です」


男は周囲に部下を控えさせ、当然の権利を主張するかのように言葉を続けた。


「どうか、政府の管理下に入っていただきたい。専用の最先端研究施設、無限の活動資金、そして国家最高峰の地位と名誉を保障します。もちろん、お連れの女性にも手厚い待遇を――」


慇敷無礼にすり寄ってくるその言葉を、私は冷ややかに聞き流していた。

かつて彼らは、アルカディアの資源を求めて私を、そして数多のダイバーたちを歯車のように扱い、裏切った。そして今度は、私たちが手に入れた平穏すらも管理し、再び自分たちの欲の肥やしにしようとしている。両親と心を通わせ、温かな絆を確かめ合った直後に現れたこの俗物たちの群れが、あまりにも滑稽で、そして醜悪に思えた。


男が契約書のようなタブレットを差し出したその瞬間、私は静かに首を振った。


「断る」

「……おや、条件が不服ですか? ならば――」

「そういう問題じゃない」


私の低い声に、男の言葉が詰まった。

私はエマの手をより強く握りしめ、目の前の男を真っ直ぐを見据えた。


「あんたたちがどれほど金を積もうと、どれほど甘い言葉を並べ立てようと、私には何の意味もない。私の生きる場所は、すでにあのアルカディアの大地にある。……そこに生きる人々や、愛する伴侶と共に生きること以外、私に用はない」


「なっ……! 佐々木さん、よく考えてください! あなた方のような個人が勝手に異世界を私物化することは――」


「法や権力の話か?」


私は鼻で笑った。


「そのために、どれだけの人間が踏みにじられてきた? もういい。あんたたちの世界でどれだけ足掻こうと勝手だが、これ以上私たちに関わるな」


男は眉間にしわを寄せ、脅しを含んだ冷徹な声を絞り出した。


「佐々木さん、あなたがどれほど拒絶しようとも、この世界の秩序と発展のためにはあなたの力が必要不可欠だ。個人が勝手に異世界への門を独占するなど、国家安全保障上の重大な違反にあたる。強制力を行使する事態に発展する前に、賢明な判断をしていただきたい」


国家の権力をかざし、再び私を歯車として縛り付けようとするその傲慢な態度に、私のなかで冷たい怒りが静かに満ちていった。

私は男の脅しを真っ向から踏み潰すように、言い放った。


「だったら全てを清算すればいい。文明も何もかも手放して、一から始めればいい。少なくともアルカディアの人間はそうしてきた。過ちを認め、欲を捨て、己の足で土を踏みしめて生きる道を選んだんだ。あんたたちのように、過去の因習にしがみつき、他人の尊厳を踏みにじってまで利権を貪るような真似はしない」


「なんだと……?」


「私たちに関わるなと言ったはずだ。あんたたちの文明も、その汚れた権力も、私には一片の価値もない」


言葉を終えた瞬間、男の顔色が変わった。私たちの拒絶を無視し、強硬な手段に出ようと部下たちに合図を送ったのだ。スーツを着た男たちが私を取り囲むように一歩踏み出し、無理やりエマの腕を掴もうと手を伸ばした。


「――そこまでだ。動くな!」


その瞬間、冷徹な声とともに、周囲の空気が一変した。

駅のロータリーの街路樹の陰、そして周辺の死角から、突如として複数のパトカーや捜査車両が滑り込むように現れ、一斉に赤色灯を回転させた。車から飛び出してきたのは、身元を隠した特務機関の者たちではなく、制服に身を包んだ厳正な警察官たち、そして国家公安の最高治安維持組織の面々だった。


彼らは瞬く間に政府機関の男たちを取り囲み、冷ややかな銃口と威圧的な気配を向けた。

現在の世界において、異世界から帰還した「先達(プレイヤー)」たちへの接触や干渉は、国際的な条約および国家の最高法規によって厳しく禁じられていた。神域のシステムが地球の動向を監視している以上、先達に対する力ずくの支配や懐柔は、世界そのものを破滅へと導く最大のタブー――すなわち、人類の存続を揺るがす最悪の違反行為なのだ。それを犯した者には、国家の枠組みを超えて容赦なく重い罰が下されることになっていた。


先頭に立っていた特別機関の男は、青ざめた顔で周囲を取り囲む警察組織を見回し、うごめく恐怖を隠しきれない声で叫んだ。


「我々にこんなことしていいと思っているのか!我々は国家の特命を帯びてやっているんだ!」


それに対して、警察部隊の指揮官は冷ややかな嘲笑を浮かべ、一歩前へ歩み出た。


「でしたらその国家名を教えてください。……もう、そういう時代じゃなくなったんですよ。世界は先達に対して不接触を選びました。それを破れば誰であろうと裁かれる時代になったのです」


指揮官の冷徹な一言とともに、男たちの腕が容赦なく押さえつけられ、次々とパトカーへと押し込まれていく。かつてであれば権力の陰に隠れてやりたい放題やってきた者たちが、法と世界の絶対的なルールの前で無様に引きずられていくのだった。


パトカーの赤色灯が夜の街へと消えていき、周囲に再び静寂が戻ったとき、公安の指揮官が一人、私のもとへと歩み寄ってきた。彼は帽子を正し、私とエマに対して礼儀正しく敬礼を交わすと、静かな声で言った。


「失礼いたしました、佐々木さん。ご不快な思いをさせてしまい申し訳ない」


彼は小さく息を吐き出し、どこか遠くを見つめるような瞳で言葉を続けた。


「地球は異世界に頼らず、自分たちの脚で歩むことを決めたようです。まだそれらを理解できない者がいるようですが、いずれ彼らも否応なく悟るでしょう。……あなた方の平穏が破られることは、もう二度とありません。ご両親の安全につきましても、我々がしかるべき警護を配置し、このような愚か者の接近を一切許さないことをお約束します」


「……ありがとう」


指揮官は一度だけ深く頷くと、部下たちを引き連れて静かに身を引いていった。


警備車両の群れが完全に走り去り、静けさを取り戻したロータリーの真ん中で、私は隣に立つエマの横顔をそっと見つめた。彼女は、まだ冷めやらぬ地球という世界の異質なエネルギーに少しだけ眉をひそめていた。


「なんか、最後に地球の嫌なところを見せたな」


私がぽつりと溢すと、エマは小さく首を横に振り、私の手に自らの指を固く絡めてきた。


「ううん。でも、多分、過去の私たちの世界も同じだったんだと思う。だから文明が滅んじゃったんだよ。きっとこの世界も、いつかは気づくと思うわ」


彼女の澄んだ瞳と穏やかな声には、かつて滅びを経験し、そこから這い上がって土地と共に生きる道を選んだアルカディアの人々ならではの、深みのある強さが宿っていた。愚かな歴史を繰り返しそうになりながらも、少しずつ前へと進もうとしている地球。その両方を、彼女はただ突き放すのではなく、静かな慈しみをもって受け止めていたのだ。


私は息を整え、エマの手を優しく握り直した。


「……行こう、エマ」

「うん……ハル」


私の両手が、再び穏やかな白銀の光を帯びる。

もう、この世界が私を引き止める理由はどこにもなかった。空間の縫い目が私とエマを優しく包み込み、物質世界の干渉を完全に断ち切りながら、私たちは二度と振り返ることなく、愛おしい最北の村――私たちの本当の家へと帰還したのだった。

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