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第97話 交差する世界

深い白銀の光が収束したとき、そこにあったのはアルカディアの冷涼で澄み切った森の空気ではなく、アスファルトの舗装路と排気ガス、そして行き交う車の微かな走行音に包まれた地方都市の夜だった。


足元に広がるのは、自然の土ではなく、人工的に固められたコンクリートの感触。

私は【次元転移能力】の検証を兼ねて、エマの手をしっかりと握りしめたまま、その場に立っていた。


この能力を手にしてから、私は密かにいくつかの法則を確かめていた。

まず、転移の座標についてだ。この能力は、アルカディア側と地球側でそれぞれ一箇所ずつ、自らの意思で「拠点」となる場所を固定指定できるようになっていた。私が地球側の転移ポイントに選んだのは、地方にある実家の最寄り駅のロータリーだった。いきなり世界的な大都会に放り出しては、アルカディアの最北の村で育ったエマにとって刺激が強すぎると配慮したからだ。それでも、地方都市とはいえ駅前にはそれなりに商業ビルやコンクリートの高層建築が並んでおり、彼女にとっては十分すぎるほど現代文明の圧倒的な光景だった。

一度その場所を指定してしまえば、以降の往還は必ずその固定された座標へと繋がる仕組みになっており、この次元転移の力を使って地球上のさまざまな場所へ自由に飛び回るようなことは一切できない。空間を移動するための便利な道具ではなく、あくまで「二つの世界を往来する為の絶対的な一対の門(アンカー)」なのだ。


また、他者を連れて跳躍できるか、そして何を持ち込めるのかという点においても、神による厳格な制限があった。

連れていける人間は、当然ながら「善性のある人間」のみに限定される。さらに、使用者が利己的な目的で他者を利用することは許されず、あくまで「使用者が本当に大切に思う者たち」であることが絶対の条件だった。例えば、家族仲が良ければ、その家族全員を揃ってアルカディアへ転移させることが可能である。だが、そこに悪意や利害関係の打算が混じっていれば、システムの判別によってその者は容赦なく弾かれる。エマの手を引いたとき、そして私の意識の奥底ですんなりと許可が下りたのは、私たちが互いを心から慈しみ、同じ世界で生きることを誓い合っていたからに他ならない。


物質の持ち込みと持ち帰りについても同様で、人間の意志だけで勝手に決められるものではなく、神の自動的な判別システムによって管理されていた。

例えば、地球の銃火器や、破壊を目的とした工業製品、あるいはこの世界の本質を歪めるような利己的な異物を手に取ろうとした瞬間、私の潜在意識は激しい拒絶反応を起こし、指一本触れることすらできなくなる。逆に、エマの手や、私たちが生きるために必要な最低限の衣類などは、何の障壁もなく許容された。

この空間跳躍は、決して「奪い合いの道具」ではなく、ただ誠実に生きる者たちのための往還の路(みち)なのだ。


「……ハル。ここが、あなたの……生まれた場所?」


エマが、かすかに震える声で呟いた。

アルカディアの最北の村で育った彼女にとって、地方都市とはいえ夜空を切り裂くようにそびえ立つコンクリートの高層ビルや、煌々と輝くネオンサインは、まるで未知の巨大建造物のように映ったに違いない。途切れることなく流れ込む車のヘッドライト、夜空を淡く染め上げる膨大な人工の光、そして皮膚を刺すような微かな喧騒の波動。


彼女は驚愕に目を丸くし、私の腕にしがみつくようにして周囲を見回した。

風に乗って鼻腔をかすめるのは、土や木々の匂いではなく、焼き付いたアスファルトと機械油の匂い。自然の生命力すら感じられないこのコンクリートの迷宮は、かつて私が日々を擦り減らしていた場所そのものだった。


「ああ。ここが私の故郷だ。……驚かせてすまないね」

「ううん……すごい。圧倒されるみたい。……でも、少し、冷たい匂いがするね」


エマはそう言って、私の手のひらをぎゅっと握り返した。その温もりだけが、この冷徹なコンクリートの世界で唯一の現実味だった。


私たちは駅前を抜け、実家へと続く閑静な住宅街の道を歩いていった。初めて見る自動販売機の光に足を止め、頭上を走る高架鉄道の轟音に小さく肩を震わせるエマの姿は、まるで初めて外の世界を知った少女のように新鮮だった。しかし、彼女はその文明の利器に恐れをなすわけでもなく、ただ純粋な好奇心と畏敬の念をもって、私の故郷を見つめていた。


「これが、あなたが今まで生きていた世界……。私には少し、眩しすぎるみたい」

「私もだよ。……もうここには、私の居場所は無いようだ」


私はそう言って彼女の髪を優しく撫でた。


足慣れたアスファルトの道を歩き、幾度となく見慣れた格子戸の前に立ったとき、私の胸中には言いようのない静けさと、そして微かな重圧が渦巻いていた。

アルカディアへと肉体ごと転移して以来、私の消息は地球上から完全に途絶えていた。世間的には「行方不明」、あるいは「神域からの帰還を果たせず消息を断ったダイバー」の一人として処理されていたはずだ。愛する息子が消え去り、二度と戻らないと絶望の底に沈んだであろう両親の前に、私は今、何の報せもなしに立っている。


覚悟を決めて、私は玄関のチャイムを押した。

電子音が夜の静寂に響く。しばらくの間――体感では数分にも感じられる沈黙のあと、足元を這うような、少し足取りの重くなったスリッパの音が廊下の奥から近づいてきた。


ガチャリ、と鍵が開き、わずかに押し開けられたドアの向こうに現れたのは、一年前よりもずっと小さく、白髪の目立つ母親の姿だった。


「――春樹……?」


母は、目の前に立つ我が子の姿を見た瞬間、言葉を失った。

老けた眼差しが大きく見開き、信じられないものを見るように何度も瞬きを繰り返す。それが幻覚ではないと悟った瞬間、彼女の膝から力が抜け、その場に崩れ落ちそうになった。


「母さん、ただいま」

「あなた……っ! 本当に、春樹なの……っ!?」


母のすがり付くような叫び声に、奥の居間から慌てて足音が響いた。飛び出してきたのは、すっかり腰の曲がった父親だった。父は私の顔を見るなり、眼鏡を落とすのも構わず駆け寄り、私の肩を両手で力強く掴んだ。その固く結ばれた唇は激しく震え、言葉にならない嗚咽が喉の奥から漏れ出している。


「お前……生きていたのか……生きて、戻ってきたのか……っ!」

「ただいま、父さん、母さん。……心配かけて、本当にすまなかった」


その言葉を聞いた瞬間、父の堪えていた感情が完全に決壊した。頑固だった父親が、私の胸に顔をうずめるようにして、子供のように声を上げて泣きじゃくった。母は私の袖にしがみつき、そばに寄り添うエマの存在にもまだ気づかないまま、とめどなく涙を零している。

失われた時間と、二度と会えないという絶望の重みが、この玄関先という狭い空間で熱い涙となって溶け合っていく。私はその両親の温もりを受け止めながら、自分がどれほど深い愛に包まれて育てられたのかを改めて噛みしめていた。


通されたリビングの空気は、かつて私が暮らしていた頃となんら変わっていなかった。だが、その空間に満ちているのは、長い間の絶望と諦めが残した冷たい気配だった。テーブルの上には、未開封の郵便物や、私が最後に残した通帳などが当時のまま埃を被るように置かれている。


母は震える手でお茶を淹れ、何度も私の顔や手を確かめるように触れては涙を拭った。ソファに並んで腰掛けた私たちの中で、母はまず、私の隣に静かに佇むエマへと視線を向けた。玄関先では驚きのあまり視界に入っていなかった少女の存在に気づき、母は戸惑ったように瞬きをした。


「あの……この子は……?」


私はうなずき、そっとエマの手をとりながら両親に向き直った。


「母さん、父さん。まずはちゃんと紹介させてほしい。この子はエマ。アルカディアの村で出会い、私の生涯の伴侶となった妻だ」


私の言葉に、両親は驚きに目を見張りながらも、どこか深く納得したような表情を浮かべた。ここ最近、テレビやインターネットのニュースでは、旧『神域 -Arcadia-』の向こう側に「実在の世界」があり、限られた者たちがそこに渡っているという報道が連日加熱していた。最愛の息子が消え去ったときから、両親は胸のどこかで、春樹もまたあの異世界へ行ってしまったのではないかと薄々気づいていたのだ。だからこそ、その現実がこうして目の前に現れたことに対し、奇妙なまでの静けさをもって受け止めていた。その答えとして、目の前に異国の気品をまとった美しい奥さんが現れたのだ。


エマは慌ててソファから立ち上がり、胸の前で手を組みながら、震える声で深々とお辞儀をした。


「……はじめまして。春樹の妻のエマです。突然、こんなふうに押しかけてしまって……本当に、すみません」


エマが自然に日本語を話していることについて、両親は特に疑問を抱かなかった。思えば、アルカディアへと渡ったダイバーたちが向こうの住人と意思疎通できたのは、システムが紡ぐ奇跡のような干渉によるものだ。言葉の壁など最初から存在せず、互いの魂の響き合いをシステムが言語として調停してくれるおかげで、彼女は最初から私と同じ言葉で語り合うことができた。そのたどたどしくも誠意の伝わる挨拶に、父と母は顔を見合わせた。


異世界という途方もない空間の向こうで、息子がどう生きているのか――その答えとして、目の前に異国の気品をまとった美しい奥さんが現れたのだ。母はゆっくりと立ち上がり、エマへと歩み寄ると、その冷えた両手をそっと包み込むように握りしめた。


「エマさん……っていうのね。突然なんて思わないわ。……だって、うちの子が向こうへ行ったんじゃないかって、私たち、ずっと胸騒ぎがしていたから」


母の瞳から、再び大粒の涙がこぼれ落ちた。

そこから、私たちはこれまでの経緯をゆっくりと語り合った。私がどのようにしてあの世界へ渡り、最北の村にたどり着いたのか。果てしない大地の中で、どのように土地を耕し、日々の糧を得て、そして彼女と出会い、共に生きることを選んだのか。地球の権力者たちの思惑やシステムの詳細こそ伏せたが、「向こうの世界でしっかりと根を張って生きていること」「この温かな伴侶と家族になったこと」――その真実のすべてを、私は言葉を尽くして語った。


「そうか……お前、向こうの世界でそんなふうに生きていたのか」


父親はしわ枯れた声で呟きながら、目の前に置かれた湯気の立つお茶を見つめ、そして深くうなずいた。


「昔から、お前は不器用で、一つのことにのめり込むと周りが見えなくなる性質だった。だからあんな世界に引きずり込まれたときは本当に目の前が真っ暗になったが……こうして自分の足で立ち、守るべき大切な人を見つけたなら、親としてこれ以上言うことはない」


「お父様……お母様……」


エマの目からも、温かい涙がとめどなく溢れ出ていた。彼女の故郷にはない、地球の家族という絆。言葉の壁すら越えて、二人の親が自分を温かく迎え入れてくれたことが、彼女の胸を深く打ったのだ。母はエマを優しく抱きしめ、父もまた、ぐっとこみ上げるものをこらえながらうなずいた。


それは、失われた時間を埋めるための、そして私たちが完全に別の世界へと旅立つための、静かでかけがえのない聖餐の夜だった。

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