第8話 足で稼ぐ日常
補修を終えた壁の泥が完全に乾燥し、泥独特の爽やかな土の匂いが室内に定着していた。
翌朝、私はぼろ屋の引き戸を開け、外の空気を深く吸い込んだ。
肌を刺すような冷気は相変わらずだったが、昨日までと異なり、身体の奥底に確かな「足場」ができたような安心感があった。
住む場所の確保の次は、村とその周辺環境の正確な現状把握だ。
デスクワーク時代に身についた習性通り、私は懐から小さなメモ帳を取り出した。
降臨時に麻服のポケットに入っていた、粗末な羊皮紙の余白と炭の小片だ。
「まずは、村の規模と資源の整理から始めるか」
村の小道をゆっくりと歩き始める。
泥の上を踏みしめる靴底の感触を感じながら、目に入るすべての光景を丹念に観察していった。
この村の構成は、極めて慎ましいものだった。
中央の広場を中心に、点在する木造家屋は全部で十五軒ほど。
実際に人が暮らしているのはそのうちの十箇所以上で、世帯数にして十二世帯、村全体の人口は三十人から四十人程度というところだろう。
若者の多くは町や大都市へ流出したのか、村の中で見かけるのは高齢者や中年期の人々、そしてわずかな子供たちの姿だった。
過疎化が進んでいるとはいえ、鍛冶屋、猟師、農作業、薪拾いといった村としての最小限の生活機能と共同体は、かろうじて保たれている。
この村の「異邦人の受入枠」が僅か5名に絞られていたのも納得がいった。
この人口規模と限られた備蓄の中では、何十人、何百人もの見知らぬ来訪者を突然受け入れる余裕など、はじめから存在するはずもなかったのだ。
私はメモ帳に、家の配置と村人の大まかな動線を炭で書き込んでいく。
続いて、生活の生命線となる水源へと向かった。
村の北側に、森の奥から流れてくる小さな渓流が存在していた。
しゃがみ込み、川底の砂利と水質を確かめる。
水は驚くほど澄んでおり、手を浸すと突き刺さるような冷たさが指先を麻痺させた。
匂いを嗅いでみるが、硫黄臭や生臭さはなく、飲用水としては極めて高品質に見える。
だが、問題はその利活用にあった。
水汲み場として使われている泥の斜面は、長年の踏み荒らしによって大きく崩れかけており、足場がかなり危険な状態になっていた。
木製の粗末な水路が水場まで引かれているものの、継ぎ目が腐り落ちて水が途中で大量に漏れ出している。
壊れた水路を抜本的に直すこともなく、滑りやすい斜面を注意深く下って水を汲む村人たち。
不便をそのまま受け入れ、余計な変化や大きな工事を避けてやり過ごすという、村全体を覆うあの「停滞」の具体例がここにも現れていた。
「少し手を加えれば、もっと安全かつ楽に水を引けるはずだが……」
私は水路の構造をメモに書き留め、今度は村の南側に広がる畑へと向かった。
そこは、村の規模に対してかなり広い耕作地だったが、その大半が荒れ果てた耕作放棄地となっていた。
村人たちが自分たちの食い扶持分だけを細々と作っている狭い区画の隣で、広大な土が硬く締め固まり、背の低い雑草が無数に生い茂っている。
しゃがみ込んで土をひとつまみ掬い上げ、指先で潰してみる。
湿り気はあるものの、有機質が決定的に不足し、酸素が通りにくい固い粘土質に変化していた。
これでは作物の根が張らず、育つ前に腐ってしまう。
だが、土壌そのものが完全に死んでいるわけではない。
雑草を抜き取り、深耕を行って空気を入れ、森の腐葉土や灰を混ぜ込んで土壌改良を行えば、十分に作物が育つ肥沃な土へ戻せるはずだった。
大学時代や趣味で学んだ農学の基礎知識が、頭の中で次々と具体的な工程へ変換されていく。
「ハル、何をしているんだ?」
後ろから声をかけられ振り返ると、木材を束ねた背負い籠を背負ったレンが立っていた。
彼の肩は重みで少し沈み、額にはうっすらと汗が浮かんでいる。
「村の水場と畑の土を見ていました。水路の継ぎ目を直せば、もっと安全に水が汲めるようになりますし、あの荒れた畑も手入れをすれば、もっと多くの作物が実るはずです」
私がメモ帳を見せながら答えると、レンは驚いたように目を丸くし、すぐに困惑の混ざった複雑な表情を浮かべた。
「土を耕すのか……? だが、バノックさんも言ってただろ。へたに土地をほじくり返せば、土が腐ってダメになるって。昔、大きく畑を広げようとして失敗したことがあるらしいんだ」
「失敗したのは、適切な手順を踏まなかったからだと思います。ただ掘り返すのではなく、土に混ぜるものと空気の含ませ方を調整すれば、土は必ず応えてくれますよ」
レンは私の言葉の意味を完全に理解しきれない様子だったが、私の確信に満ちた静かな口調に、何かを感じ取ったようだった。
「……お前は、変な奴だな。大都市に行った連中は、みんな強い武器を持って暴れたがっていると聞くのに」
「私には戦う才能も、特別な能力もありませんから。ただ、自分の持っている知識を使って、ここで今日を静かに生きるための手助けがしたいだけです」
私がそう告げると、レンは背負い籠の紐を握り直し、小さく笑った。
「……もし本当に水路が直せるなら、村の年寄りたちが喜ぶ。水汲みは毎日の仕事の中で、一番骨の折れる作業だからな」
「やってみます。まずはグラックさんに相談して、簡単な当て木と釘がもらえるか聞いてみますね」
レンと別れ、私は自室へ戻る道すがら、己の持つ「手札」を静かに整理した。
仕事で培った「観察力と準備の徹底」。
趣味で深めてきた農学、木工、建築、そしてサバイバルの基礎知識。
この世界には、一瞬で収穫を得られるような便利な仕組みも、一撃で敵を倒すチート能力も存在しない。
だが、泥臭く積み重ねてきた知恵と手作業の経験こそが、この停滞した世界において最も強力な「武器」になる。
部屋に戻り、炭の小片で羊皮紙に明日からの作業手順を書き出していく。
一、水路の継ぎ目の修繕と足場の補強。
二、森からの腐葉土の採取と、畑の試掘。
三、グラック老人からの壊れた農具の譲り受けと修繕。
計画は地味で、地道なものばかりだ。
だが、この手作業の積み重ねこそが、不気味な異邦人として警戒されていた私と、村の人々との間の冷たい氷を解かしていく唯一の道だと信じていた。
薄暗い部屋の中で、羊皮紙に刻まれた黒い炭の文字をじっと見つめる。
過疎村での私の「生きるための営み」が、いよいよ本格的に始まろうとしていた。




