第77話 断ち切られる糸
目を覚ましたとき、外界の気配はすでに深い夜の底へと沈み込んでいた。
窓の外から聞こえてくるのは、凍てつく最北の夜風が針葉樹の枝を揺らす低い地響きのような音だけだ。土間のほうからは、薪がパチパチと爆ぜる微かな音が届いてくる。エマは私が眠っている間に夕食の片付けを済ませたのか、あるいは私を起こさないよう細心の注意を払いながら作業をしているのか、足音一つ立てずに静かに気を配ってくれているのが分かった。
だが、ベッドのなかに横たわる私の肉体は、目覚めた瞬間から異様な重たさと、形容しがたい不快な倦怠感に蝕まれていた。
「……っ」
重い瞼を持ち上げ、私はそっと上半身を起こした。
日中に感じた走査線のようなノイズは消えていたが、代わりに自分の内側から存在そのものが削ぎ落とされていくような、言い知れぬ希薄感が全身を駆け巡っている。
まるで、広大な海に張り巡らされた細い一本の釣り糸が、遠く離れた岸辺から強烈な力で引き絞られ、いつ引きちぎれてもおかしくない悲鳴をあげているかのような感覚だった。
(これは……疲労なんかじゃない)
私は冷や汗の滲む額を掌で押さえ、ベッドの端に足を下ろした。
地球にある自室のベッドでヘッドギアを装着し、意識と魂をこの最北の地に接続している――その根本的な繋がりそのものが、外部からの強力なプログラム改変によって暴力的に引き剥がされようとしている。直感が、そう警鐘を鳴らしていた。
外の世界で、何かが起きている。
真実を知ってしまった私たち「降臨者」を排除するため、地球側の権力者たちが動き出したのだ。それは予感ではなく、確信に近かった。
私は震える指先で空中に視線を向け、意識を集中させてシステムUIを呼び出した。
視界の端に青白い光の文字が淡く浮かび上がる。しかし、その表示速度はかつてないほどに鈍く、文字の輪郭すらも細かく明滅を繰り返して不安定に揺らいだ。
私はそのままの意識をダイレクトにネットワークの深層、すなわち全プレイヤーが接続している総合掲示板『神域 -Arcadia-』の本スレへと飛ばした。
【神域】『神域 -Arcadia-』本スレ Part114【警告】
1:名無しのダイバー
ごめん、重すぎてテンプレ張れない。
おい、みんな……掲示板の動作、おかしなってないか?
文字がめちゃくちゃに滲むし、ログの更新が激重なんだけど。
2:名無しのダイバー
>>1
お前もか!?
俺なんて、さっきから突然視界が真っ暗になって、頭の中がキーンって引き裂かれるような頭痛に襲われてるぞ。
これ、絶対にただの体調不良じゃねえよ。
3:名無しのダイバー
数時間前から各地の拠点にいるダイバーの間で、同じ症状の報告が相次いでる。
動けなくなってベッドで寝込んでる奴もゴロゴロいるぞ。一体何が起きてんだ……。
4:名無しのダイバー
……もしかしてだが、これって地球側がサーバーの接続を切ろうとしてるんじゃないか?
ほら、俺たちが持ち帰ったこの世界の真実が向こうで問題になってるし、運営側がサービスそのものを終わらせにかかってる可能性はあるだろ。詳しい解析なんてゲーム内じゃできないから憶測にすぎないが……。
5:名無しのダイバー
>>4
サービス終了って……マジかよ。
じゃあ、もし一度ログアウトして現実に戻っちまったらどうなるんだ?
6:名無しのダイバー
>>5
確証はないけどさ……。
もしかしたら、もう二度とこの世界には接続できなくなるかもしれない。向こうの都合で門を閉じられたら、こっちに戻ってくる手段なんてないわけだし。
7:名無しのダイバー
嘘だろ……そんなの……。
せっかくこっちで畑を耕して、村の連中とも本当の家族みたいになってるのに、強制的に追い出されるってことかよ。
8:名無しのダイバー
頭が割れそうに痛いし、吐き気もやばい。今すぐヘッドギアを外して横になりたいくらい最悪な体調だ。
だけどよ……。
ここで弱音吐いてログアウトしたら、二度とこの世界に戻れなくなるかもしれないんだろ?
だったら、どれだけ身体が辛くても、絶対にログアウトなんてしてやるもんか。
9:名無しのダイバー
>>8
同意だ。俺も死ぬほど頭痛いけど、絶対にヘッドギアは外さない。
こんな冷たくて薄汚い地球のビル群になんか、もう二度と戻るもんか。
俺の居場所は、この泥臭いアルカディアの村にあるんだよ!
10:名無しのダイバー
それにさ、みんな。不安になる気持ちは分かるけどさ……あいつらを信じようぜ。
あの開発者さんが命がけで認知干渉コードを仕込んで俺たちをこの世界に導いてくれて、この世界を管理しているシステムだって、俺たちがここで泥臭く生きる姿をずっと見守ってくれている。
こんなにも温かい世界を遺してくれたシステムが、俺たちを見捨てるわけがない。
11:名無しのダイバー
>>10
……そうだな。
こんなにも素晴らしい世界を俺たちに遺してくれたシステムだ。絶対になんとか踏み留まって、この危機を凌いでくれるはずだ。
俺たちがやるべきことは、ここで怯えてヘッドギアを外すことじゃない。
どれだけ身体が軋もうとも、絶対にログインし続け、この世界で生き抜くことだ!
12:名無しのダイバー
よし、システムを信じて耐えようぜ!
みんな、それぞれの場所で踏み留まれ!!
掲示板に並ぶ悲痛な叫びと、システムへの信頼、そして互いを鼓舞する警告の文字の数々。
読んでいるだけで、こめかみが締め付けられ、視界の端が激しく明滅して青白いノイズが走った。
「……はぁ、はぁ……っ」
私は荒い息を吐き出し、思わず両手で頭を抱え込んだ。
地球側の権力者たちは、自分たちの保身と利権のために、私たちが築き上げてきた平穏な生活そのものを根底から切り捨てようとしている。真実を知った人間を追い出し、二度と戻れないようにするために、勝手にサービスを終了させようとしているのだ。
今、もし私が恐怖やこの酷い頭痛に屈し、自らヘッドギアを外して地球の現実へ戻ろうものなら――それはこの世界との繋がりを自らの手で永遠に断ち切ることを意味する。
二度とエマの温もりに触れることはできず、バノックやレンと酒を酌み交わすこともなく、私はただの「地球に縛られた人間」に戻り、この世界は二度と手の届かない幻のようになってしまう。
「……そんなこと、させるかよ……」
私は歯をくいしばり、湧き上がる激しい眩暈と吐き気を必死にねじ伏せた。
魂の奥底で、システムがギリギリの防衛戦を展開しているのが分かる。開発者が遺し、この世界を愛してやまない管理システムが、私たち降臨者を護るために地球側の悪足掻きと必死に戦ってくれている。
こんなにも温かな世界を私たちに与えてくれたシステムが、私たちを見捨てるはずがない。私たちは導かれたのだ。このアルカディアで生きるために。
その時、寝室の木製扉が静かにノックされた。
「――ハル?」
聞こえてきたのは、エマの控えめだが切なげな声だった。
扉の向こうから漏れる微かな光のなかで、彼女が心配そうに立ち尽くしている気配が伝わってくる。
「起きているの……? なんか、さっきから中で苦しそうな息が聞こえたから……入っても、いい……?」
私の身体の異変を、彼女の直感が敏感に察知していたのだ。
私は荒い息を整えようと努めながら、掠れた声を絞り出した。
「……あぁ、エマ。入ってくれ」
ゆっくりと扉が開き、ランプの温かな光を携えたエマが足音を忍ばせて入ってきた。
彼女の顔には、隠しきれない不安と恐怖の色が濃く浮かんでいた。私が日中に見せた不自然な青ざめ方や、この村の他の異邦人たちが一様に体調を崩している異常事態を、彼女は敏感に感じ取っていたのだろう。
「ハル……その、顔色がすごく悪いよ。やっぱり、ただの立ちくらみなんかじゃない。あなた、さっきから身体が小刻みに震えている……」
エマは傍らに駆け寄り、たまらずといった様子で両手を伸ばし、私の冷え切った両手をぎゅっと包み込んだ。
その掌から伝わってくる体温は、この世界が本物であることの何よりの証明だった。
「エマ……」
「私には分からないけど……あなたたち異邦人の身に、遠い空の向こうから、恐ろしい何かが襲いかかっているんでしょう? もしかしたら、あなたはいつか……元の世界へ戻ってしまって、二度と帰ってこなくなってしまうんじゃないかって……私、それが怖いの……」
普段のエマからは想像もできないほど、彼女の声は震えていた。
瞳には大粒の涙が浮かび、私の手を握る指先が白く強張っている。
私はたまらず彼女を引き寄せ、その華奢な身体を自分の胸元へと強く抱きしめた。
「大丈夫だ、エマ。どこにも行かないよ」
私の声もまた、激しい頭痛と世界の軋みに耐えるためにかすかに震えていたが、それでも必死に力強さを込めて告げた。
「どんなに遠くから、どんなに勝手な都合でこの世界との繋がりを断ち切ろうと力が働いても……私はここにいる。君の側に、この大地に、ちゃんと立っているから」
「ハル……」
エマは私の胸に顔を埋め、抑えきれなかった涙を私の衣服に染み込ませながら、より一層強く私の背中に腕を回した。
トックン、トックンと、彼女の胸の奥で力強く刻まれる心臓の鼓動が、外側から押し寄せる無機質なノイズを打ち消すように、私の魂をこの現実にしっかりと繋ぎ止めていく。
システムは私たちを護ってくれる。
地球側の勝手な都合やサービス終了の脅しになど、絶対に屈しない。
私は絶対に、ヘッドギアなんて外さない。
最北の夜の闇のなかで、私たちは互いの温もりを貪るように確かめ合いながら、嵐が過ぎ去るのをただじっと耐え忍んでいた。




