第76話 軋む世界
灰銀色の古代遺跡――「深淵の口」での探訪を終え、この世界の本当の成り立ちと、私たちがなぜこの地に呼び寄せられたのかという真実を知ってから、数日が瞬く間に過ぎ去っていた。
最北の集落を包み込む毎日の営みは、表面上は何一つ変わっていないように見えた。
朝を知らせる雄鶏の甲高い鳴き声、冷涼な気流に乗って遠くの白銀の峰々から吹き下ろす、清冽で苛烈な最北の風。煙突の吹き出し口からゆるやかに立ち上る薪の匂いと、朝露に濡れた泥の芳しい薫り。
私が一本の鍬を手に取り、村の南側に広がる開拓畑へと向かえば、そこには昨日と変わらぬ人々の血の通った生活があった。
「おう、ハル。今日も朝早くから精が出るな」
畑の端で丸太の柵を補修していたバノックが、大きな手に握った玄能を休め、刻まれた目元の皺を和らげて声をかけてくる。その隣では、痩せ型の青年レンが汗を拭いながら、新しく切り出した頑丈な杭を地面へと打ち込んでいた。
「おはよう、バノック、レン。昨日耕した西側の区画、今日中に苗植えの畝を作っておきたいと思ってね」
「ハルさん、手伝いますよ。畝作りなら昨日のうちに畝立て用の鋤を研いでおきましたから」
レンが屈託のない笑みを浮かべ、腰の籠から手入れの行き届いた農具を取り出して見せてくれる。
二人のゴツゴツとした手、作業着のあちこちに付着した湿った土の痕、そして荒い息遣いとともに空中に白く広がる吐息。
異世界転移だの、古代の管理システムだの、あるいは地球側の身勝手な企みだのといった複雑な理屈など、この大地を力強く踏みしめて生きる彼らの日常の前では、どこか遠い世界の幻影のようにすら思えた。
彼らは血の通った本物の人間であり、私にとっても、ここで重ねてきた汗と時間のすべてが何物にも代えがたい「もう一つの絶対の現実」なのだ。
「ありがと、レン。じゃあ、力仕事を頼もうかな」
私が微笑み返し、湿った黒土に鍬の刃を力強く打ち込んだ、その時だった。
――チリ、と。
視界の右隅、網膜のごく浅い焦点の合わない領域で、微小な不快感が跳ねた。
「……ん?」
私は作業の手を止め、思わず目元を指先で押さえた。
それは、ごく小さな「歪み」だった。
旧時代の古い映像表示器の走査線が乱れたかのように、ほんの一瞬、網膜の端を横切った無機質なノイズ。
気のせいかと思い、もう一度しっかりと前を見据える。視界に広がるのは、白銀の山々を背に輝く最北の広大な針葉樹林と、畝を並べる黒々とした畑の風景だ。何の変化もない。
(目のかすみ……いや、疲れが出たのかな)
遺跡から帰還してからというもの、自分では平気を装っていたものの、精神的な緊張が続いていたのは事実だった。私は小さく頭を振り、再び手に力を込めて鍬を振り上げた。
ザク、と土を穿つ感触。
しかし、二度目の違和感は、より不可解な形で私の全身の肉体を襲った。
「――っ」
一瞬。ほんのコンマ数秒の間。
手に伝わっていた湿った黒土の「重み」と、手袋越しに伝わっていた木の柄の「手触り」が、まるで綺麗さっぱり消滅したかのように完全に抜け落ちた。
それだけではない。頬を打ち続けていた最北の風の冷たさも、薪の煙の臭いも、レンが杭を打つ乾いた木槌の音すらも――世界すべての感覚情報が、まるで途切れた通信のように、一刹那だけ完全に「空白」へと落ち込んだのだ。
「ハルさん……? どうかしましたか?」
遠くから聞こえるようなレンの声で、私はハッと意識を引き戻された。
気がつくと、私は鍬の柄に体重を預け、膝をわずかに震わせながらその場に立ち尽くしていた。背中には、いやに嫌な冷や汗がすっと流れていく。
「……いや、ごめん。ちょっと立ちくらみがしただけだ」
「立ちくらみ? ハル、顔色が悪いぞ」
柵の補修をしていたバノックが、大きな歩幅でこちらへ歩み寄ってくる。彼は心配そうに私の顔を覗き込み、ごつごつとした分厚い掌を私の額にそっとあてがった。
「熱はないようだが……ここ数日、遺跡の調査やら何やらでまともに休んでいなかったからな。無理はいかん。今日はもう家に戻って横になれ」
「でも、畝立てが……」
「そんなものは俺とレンで半日もあれば終わる。いいから休め。エマにも叱られるぞ」
バノックの豪快だが温かな言葉に押し切られ、私は申し訳なさを覚えながらも鍬を預け、集落の奥にある我が家へと足を進めることにした。
村の中央広場を通り抜ける途中、私は妙な胸騒ぎを覚えて足を止めた。
広場の隅にある作業小屋の影で、他村から逃れてきてこの集落に身を寄せている「降臨者」の仲間――カイとリリアが話し込んでいる姿が目に入ったからだ。
カイは調合用の磨り鉢を手に持ったまま、自分の右手の手のひらをじっと見つめて固まっていた。隣に立つリリアも、織物用の紡ぎ糸を抱えたまま、どこか落ち着かない様子で周囲の空間を見回している。
「……カイ? リリア? どうかしたのかい?」
私が声をかけると、二人は弾かれたように肩を揺らし、ハッとした表情で振り向いた。
「あ……ハルさん」
カイの顔色は、私以上に冴えなかった。唇がわずかに青ざめ、額にはうっすらと汗が浮いている。
「ハルさん……あの、変な質問なんですけど。……いま、何か視界がおかしくなりませんでしたか?」
「……え?」
「私だけじゃなかったんだ……」
リリアが抱えていた糸束を強く胸に抱きしめ、不安げに声を震わせた。
「さっき、布を織っていたら……一瞬だけ、手元が見えなくなったんです。目の前が暗くなったとかじゃなくて、なんだか……自分の手そのものが、そこにあるのか分からなくなるような、嫌な感覚がして……」
「俺もです」
カイが重い口を開き、力なく自分の手を握ったり開いたりしてみせた。
「薬草を磨り潰していた時、急に感覚が途切れたというか……まるで、身体の力がすっぽり抜け落ちたみたいな感覚に襲われて。ただの疲れかと思ったんですけど、リリアも同じタイミングで立ち眩みがしたって……」
胸の奥で、カチリと冷たい不吉な歯車が噛み合う音がした。
自分一人だけの体調不良ではない。
私、カイ、リリア――この世界に「意識と魂」を接続して生きている降臨者たちだけに、同時にまったく同じ異変が生じている。
(身体の不調……いや、これは肉体の疲労なんかじゃない。もっと外部からの……接続の根幹に関わる何かが……?)
私が考えを巡らせようとしたその時、村の鍛冶場の方から重い足音が近づいてきた。
「なんだ、お前たち。揃ってシケたツラをしおって」
腕組みをしながら歩いてきたのは、頑固な鍛冶師のグラック老人だった。
老人は煤で汚れた眉根を寄せて私たち三人を見回し、鼻を鳴らした。
「ハルに、カイに、リリアか。……お前たち異邦人は、どうにも今日は調子が狂っておるな。今朝から炉の火を起こしに来る連中も、どいつもこいつも動きがぎこちない」
「グラックさん……俺たちの動き、おかしく見えますか?」
カイの問いに、グラック老人は深く刻まれた皺に覆われた顔を歪め、呆れたように吐き捨てた。
「おかしいどころの話じゃねえ。まるで……骨の抜けた人形が、糸を切られかけてフラついているみたいに見えるわ。……おい、お前さん方の身に、一体何が起きておるんだ?」
グラック老人のその言葉に、私は息を呑んだ。
現地の人々には、私たちが視界の端に感じた走査線のようなノイズや、プログラム的な違和感は見えていない。
しかし、彼らは長年この苛烈な土地で生き抜いてきた鋭い直感で、私たちの「存在の揺らぎ」を、肉体の不自然なぎこちまさとして明確に感じ取っていたのだ。
「……分からない。でも、少し身体を休めてみるよ」
「ハン。無理をして倒れられては迷惑だからな。薬草茶でも飲んで大人しく寝ていろ」
グラック老人は悪態をつきながらも、どこか心配そうな眼差しを私たちに向けた後、背を向けて鍛冶場へと戻っていった。
「ただいま、エマ」
我が家の木製扉を開けると、土間で包丁を軽快に響かせて夕食の下ごしらえをしていたエマが、こちらへ振り向いた。小麦色の豊かな髪が肩口で揺れる。
「あ、ハル。おかえりなさ――って、ちょっと。どうしたの、その顔色」
エマは手にしていた包丁を置くと、足早に駆け寄ってきて、私の両肩をしっかりと掴んだ。琥珀色の瞳に、瞬時に深い心配の色が差し込んでいく。
「すごく青白いよ。畑で何かあったの。バノックたちと喧嘩でもしたわけじゃないでしょう」
「まさか。ちょっとね……立ちくらみがしただけだよ。バノックに無理するなって怒られて帰ってきた」
「当然だよ。もう、ハルはすぐ無理をするんだから」
エマはきっぱりと言い放ったが、すぐに私の体を自分の肩へと引き寄せ、力強く支えてくれた。
「ほら、さっさとベッドに行く。横にならせてあげるから」
ベッドへ案内し、私を慎重に横たわらせると、エマは毛布を胸元まで丁寧に引っ張り上げた。その手際の良い動きには、彼女らしい芯の強さとハキハキとした頼もしさが滲み出ている。
「……ごめんね、エマ。夕食の手伝いも途中で」
「バカ言わないで。体調を崩している人に手伝わせるわけないでしょう」
エマは腰に手を当てて小さく息をついたが、ふと私の手元に目を落とすと、その手を自分の両手で包み込んだ。
指先から伝わる私の冷たさに気づいたのか、彼女の表情は心配に歪む。
「……その、ね。ハルに急に倒れられたりしたら……私、すごく困るんだから。……だから、ちゃんと休んで」
エマの温かな、血の通った温もりに触れていると、胸の奥を締め付けていた不気味な緊張感が、わずかに融けていくのを感じる。
「ありがとう、エマ。少し横になれば、すぐ良くなると思う」
「うん。何かあったらすぐ呼んでね。温かいスープ、作ってくるから」
エマは足音を忍ばせながら土場へと戻っていった。
窓の外を見やると、最北の空はゆっくりと黄金色から深い群青色へと移り変わろうとしていた。
風の音。薪の燃える匂い。エマが土場で鍋を静かに混ぜる音。
この世界のすべては、こんなにも確かに、愛おしく存在している。
だが、その穏やかな夕暮れの静寂の裏側で、目に見えない不気味な「歪み」が、確実に世界の底を軋ませ始めていた。
私はゆっくりと瞼を閉じながら、言い知れぬ不安の影が静かに広がっていくのを、ただ感じずにはいられなかった。




