第58話 踏み出す足
北の山裾を削り取るように顕現した漆黒の大洞門——『深淵の口』。
一次調査隊の出発を前に、広場には自警団だけでなく、集落の人々が一堂に会していた。
「ハルさん、これ! カイさんと一緒に一生懸命作った、防寒と防毒のお薬です!」
駆け寄ってきたミルカが、小さな両手で大切そうに小瓶を差し出してくれた。カイがその隣で頼もしく微笑む。
「地下の特殊な環境や冷気で意識が朦朧としたら、迷わずそれを飲んでくれ。ミルカが摘んでくれた薬草と、俺の調合の合わせ技だ。効果は保証するよ」
「ありがとう、カイ。ミルカ。大切に使うよ」
「ハルさん、こちらの外套も持って行ってください。私とリリアさんで、急ぎ裏地に毛皮を縫いきました」
エマとリリアが、頑丈に補強された外套を私の肩に羽織らせてくれた。リリアが私の背中を軽く叩く。
「生地の継ぎ目は二重に補強してあるわ。無事に帰りなさいよ、ハル」
「……無茶だけは、絶対にしないでくださいね」
不安そうにするエマの頬にそっと手を添え、私は穏やかに微笑み返した。
「ああ、約束する。必ずみんなで帰ってくるよ」
そこへ、グラックが気難しそうな顔で歩み寄ってきた。彼は無言のまま、私やバノック、そしてヨハンたちに、研ぎ澄まされた松明用の保持具と頑丈な手甲を叩きつけるように渡した。
「……フン。ヘボな道具を使って死なれたら、俺の鍛冶場の名折れだ。壁の質感や強度が気になったら、表面を少し引っ掻いて来い。道具の傷み具合で中の構造がわかる」
「相変わらず素直じゃないな。だが感謝するぜ、グラック」
バノックが手甲を装着し、ニヤリと笑う。自警団としても参加しているヨハンも、重々しく頷いて槍の握りを確かめた。
「ハル、手筈通り先頭は俺とバノックさんで行く。お前は全体を見てくれ」
レンが声をかけ、私の表情を確かめるように軽く肩を叩いた。
「頼むよ、レン。みんなで足元を固めて進もう」
「よし……者たちよ、準備は良いな!」
ネルソン村長が杖をつきながら前に進み出た。エリスもあたたかい蒸しパンを全員の腰袋に押し込みながら、祈るようにネルソン村長を見つめている。
「古代の遺構に眠る『戒めの蓋』……。先祖の遺した試練に対し、我らは逃げず、されど決して驕らずに向き合う。調査隊の者たちよ、無事の帰還を祈っておるぞ」
「「「おおっ!!」」」
村人たちの後押しを受け、自警団を伴った私たちは足を踏み出した。
村の喧騒を背に、私たちは冬枯れの山道へと足を踏み入れた。
普段であれば、薪拾いの村民たちの姿や、木々を跳ね回る小動物の気配が絶えないはずの原生林。だが、一歩また一歩と標高が上がるにつれて、周囲の空気は明らかに異質な静寂へと包まれていった。
鳥の鳴き声は完全に途絶え、風が梢を揺らす音すらない。まるで森そのものが息を潜めているかのような、圧倒的な静けさ。足元を踏みしめるブーツの音だけが、やけに大きく山道に響く。
道すがら、レンが足元を指差して低い声で注意を促した。
「……見てみろ、ハル。獣の足跡が一切ない。いつもならウサギや野山羊の痕跡がすぐに見つかるんだが……完全にこの一帯を避けてやがる」
「ああ。生き物たちの本能が、この先にあるものを恐れている証拠だな」
バノックが手斧の柄に手をかけたまま、険しい表情で前方を睨む。
標高が上がるにつれて、呼吸するたびに肺の奥がツンと冷やされるような、実体を伴わない寒気が肌を撫でた。それは物理的な冬の寒風とは異なり、内側からじっとりと精神を冷やしていくような、微弱だが確かな「圧力」のうねりだった。誰もが言葉を失い、ただ重苦しい沈黙の中で斜面を登り続ける。やがて、その異様な冷気の源へと私たちは導かれるように接近していった。
木々の隙間からようやく目的の場所が姿を現したとき、私たちは思わずその場に足を止めた。
がけ崩れによって大きく剥き出しになった北の山裾。
その岩盤の中央に、ぽっかりと口を開けていたのは、自然の洞窟などではない——見上げるほど巨大な、漆黒の人工的な大洞門だった。
「……到着したな」
ヨハンがごくりと唾を飲み込み、乾いた声を漏らす。
大穴の入口の前に立った瞬間、それまで肌を撫でていた冷気が一気に密度を増し、重圧となって私たちに襲いかかった。肌を凍らせる寒さというよりも、人間の精神を直接圧迫し、恐怖で足の動きを止めようとする理不尽な重圧力。
「これが、村長たちの言っていた『魔力』による圧迫感か……」
南の大都市では魔法や魔道具として当たり前に存在するエネルギーの残滓。ゲーム的なデータではなく、実在する肉体の恐怖として皮膚にまとわりつく威圧感を、私は深く呼吸を整えて押し返した。背筋に冷たいものが走るが、ここで怯えてはならない。
「行くぞ、全員松明を高く掲げろ!」
バノックの号令とともに、私たちは漆黒の洞門内部へと慎重に足を踏み入れた。
外の光がみるみるうちに飲み込まれ、頼りは手に持った松明の揺らめくオレンジ色の炎だけとなる。
足を進めるにつれ、周囲の岩壁は徐々に異質な造形へと変化していった。最初は崩れた自然の岩肌だったはずが、地下へ下るにつれて継ぎ目のない滑らかな平面へと変わっていく。
グラックの手甲で壁を撫でていたレンが、息を呑むような声を漏らす。
「ハル……これを見てくれ。石を削った跡も、継ぎ目すら無いぞ。……まるで、岩全体を溶かして固めたみたいな手触りだ」
そこにあったのは、磨き上げられた漆黒の壁面だった。
自然物でも、村の石工の技術でもない。中世風の遺跡どころか、現実世界における最先端の工業製品や近未来映画の研究所を思わせる、完璧すぎる平面と材質。松明の光がその硬質な表面に反射し、冷たい光沢を放っている。
さらに進むにつれて、足元から伝わる冷気は底冷えするような感覚から、まるで微弱な電流が皮膚を撫でるような不可思議な痺れへと変わっていった。魔力の濃度が上がっている証拠だった。誰もが無言で緊張感を高め、背中合わせになるように陣形を保ちながら地下深くへと進んでいく。
冷気の源流を辿るように幾つもの曲がり角を抜けたとき、突如として視界が開けた。
「な……なんだ、これは……!?」
ヨハンの掠れた言葉が、だだっ広い地下空洞のなかに重く反響した。
そこに現れたのは、高さ四メートルを超える巨大な灰銀色の「門」だった。
重厚で滑らかな金属のような質感を持ち、気密扉を思わせる左右対称の精密なフォルム。中世の王国に存在するような石造りの門とは似ても似つかない、あまりにも洗練されたオーパーツが、漆黒の空間のなかで静まり返っていた。
そして門の前には、青白い光の粒子が格子状に結像し、空中へ立体的な文字の列——ホログラムを形作っていた。
「ひ、光が浮いて……文字になっておる……!」
自警団の面々が恐怖に足を引き、思わず武器を固く握りしめる。現地住民にとってそれは、読むことなど不可能な「失われた古代語」の光景だった。
しかし——。
(……読める……?)
降臨者である私の視界にその光が飛び込んだ瞬間、脳内の言語野が勝手にその意味を直接脳裏へ結びつけていく感覚が走った。未知の文字であるはずなのに、意味だけがスルスルと頭の中に流れ込んでくる。
「ハル、離れろ! 何が起きるかわからん!」
バノックが制しようと私の腕を掴もうとする。
だが、私はその手をそっと振り切り、引き寄せられるようにして一歩前へ踏み出すと、静かに浮遊する光の文字を読み上げた。
『——警告。本領域は第三次過剰文明凍結条約に基づき、永久封印措置が施されている——』
『——適合者の認証を確認。世界の「再動」に伴い、試練のシークエンスを待機中——』
私がその言葉を声に出して読み上げた瞬間、青白いホログラムが激しく明滅し、一際強い光を放った。
直後、地響きのような低音が空間を揺らし、門の重厚なロックが滑らかに解除される金属音が、静まり返った地下遺構に高らかに響き渡った。




