第57話 深淵の口
集落の防衛木柵の側に設置された簡素な丸太のベンチに腰掛け、私はそっと視線を落としていた。
先ほど大地の底から響き渡った凄まじい地鳴りと、北の山裾を削り取るようにして姿を現した漆黒の大洞門。
一歩間違えればこの村すら呑み込みかねなかった異変の光景が、未だに目の裏に深く焼き付いている。
あまりにも規格外の事態だった。
この北の寒村で穏やかな日常を守り抜こうと誓ったばかりの私一人で、どうこうできるような規模の出来事ではない。世界そのものの「構造」が根底から組み換わったかのような、圧倒的な奔流を感じずにはいられなかった。
(他のプレイヤーたちは、この異変をどう捉えているんだ……?)
私は意識の隅で静かに視界の端へとアクセスし、『神域』の掲示板を開いた。
流れていく幾つものスレッドを目で追い、情報を拾い集めていく。
『全土同時地殻変動と「地図」の真の意味について語るスレ』
『西の鉱山都市、坑道奥で巨大な古代遺構と連結』
『南の樹海、滝裏から謎の地下洞門が出現・長老たちが混乱中』
『東の港町沖合で海底遺跡が浮上』
画面をスクロールする手が止まる。
そこに書き込まれていたのは、私が想像していた以上の真相だった。
この地鳴りと大穴の出現は、北の寒村だけで起きた局地的な災害などではない。
広大な『神域 -Arcadia-』の全土において、まったく同時に発生した世界規模の環境変化。
そして何より、先日私たちのUIへと突如追加された「世界地図」——あの広大な地図の上に点々と浮かび上がった無数の『赤い点』が、まさに世界各地に顕現したこれらの巨大な穴の位置と完璧に一致しているという事実だった。
(……あの地図は、最初からこのために用意されていたのか)
私が人差し指を顎に当て、考え込む仕草を見せていると、風が亜麻色の髪を優しく揺らした。
「ハルさん……? どうかされたんですか? ずっと難しい顔をして……」
心配そうに顔を覗き込んできたのはエマだった。
昨夜の熱い記憶と、今朝の甘やかな温もりを残した彼女の柔らかな手が、私の手の上に重ねられる。その実在する温もりに触れ、私は深く吸い込んだ冷気を吐き出し、ゆっくりと首を振った。
「ううん、大丈夫だよ。……ただ、この大穴が何なのか、世界で何が起きているのかを考えていたんだ」
「ハルさん……」
「大丈夫、逃げたりはしないよ。エマとこの村を守るために、ちゃんと考えたいんだ」
エマの手をキュッと握り返すと、彼女は安堵したように小さく微笑み、私の肩に身を寄せた。
バノックの指示のもと、村の自警団からは足の早い青年二名が、先ほどのがけ崩れによって出現した北の山裾へ調査に向かっている。
この村の近辺で観測された地鳴りと岩盤崩落は一箇所だけだ。つまり、村のすぐ近くに現れた穴は、あの北の原生林の奥に佇む漆黒の大洞門一つだけということになる。
しばらくして、北の森の小道から激しい羽音と落ち葉を踏む足音が近づいてきた。
「バノックさん! ハル! 戻ったぞ!!」
息を切らせて駆け戻ってきたのは、自警団のレンと若手の団員だった。二人とも槍を固く握りしめ、顔には汗と微かな困惑の色を浮かべている。
集めていた丸太を置き、バノックが重い足取りで歩み出た。私とエマも彼らの元へと歩み寄る。
「レン、戻ったか。……どうだった? 穴の中から魔物が溢れ出してきてはいなかったか?」
「いや……それが、拍子抜けするくらい静かだったんだ」
レンは額の汗を袖で拭いながら、どこか狐につままれたような表情で語り始めた。
「崩落した岩壁の奥には、確かに人の背丈の倍以上はある巨大な漆黒の石造りの洞窟……いや、門のようなものが出来上がっていた。だがな、中から魔物の叫び声も、足音もしない。……ただ、もの凄く冷たい空気が、奥から静かに吹き出してきているだけだったんだ」
「冷たい空気……?」
私が尋ねると、レンは頷いた。
「ああ。まるで真冬の洞窟の中に立っているような、鼻の奥がツンとする冷気だ。……だが、不気味なのはそれだけじゃない。穴の周囲を見て回ったんだが、気配を消して観察しても、中に生き物の気配が全く無いんだよ」
もう一人の若手団員も、同意するように身震いしながら口を開いた。
「それどころか、普段なら北の山裾にたくさん生息している野山羊や森の小動物たちが、一匹残らず姿を消していました。穴から流れてくる風を嫌がって、森の奥へ逃げていったみたいです。獣たちすら、気味悪がってあの穴の半径百歩以内には近づこうとしていませんでした……」
静まり返る村の広場。
バノックは大斧の柄に手を置いたまま、北の山を見上げて太い眉をひそめた。
「魔物が溢れ出していないのは不幸中の幸いだが……動物どもすら忌避する穴か。……やはり、ただの自然発生の洞窟や、生易しい猛獣の巣窟ではないな」
生き物の気配が無い。ただ不気味な冷気が漂い、野生の感を持つ獣たちが寄り付かない場所。
掲示板で他のプレイヤーたちが言っていた、「単なるレベリング目的の戦闘場ではない」「過去の歴史に関わる異質な領域」という推測が、現実の質感となって私の皮膚を刺した。
私は一度深く呼吸を整え、バノックやレン、集まってきた村人たちの顔を見回した。
「バノックさん。……実は、この異変は私たちの村の近く……この北の山だけに起きたことじゃないんです」
「なに……? どういうことだ、ハル」
「私には……私たち異邦人には、各地の異邦人たちからの伝聞を受ける術があります。それによると、今この瞬間、南の樹海でも、西のドワーフの鉱山でも、東の港町でも……そして中央の王都でも、まったく同じ地鳴りと共に、古代の石で組まれた同じような穴が一斉に現れたそうです」
私の言葉に、村人たちの間に息を呑むような動揺が走った。
「せ、世界中で同時に……!?」
「はい。……そして、私たち異邦人が持つ『世界地図』にも、それらの穴を示す『赤い点』が一斉に浮かび上がりました。そしてその場所は、地形から察するに、かつての古代都市や主要な拠点があったと思われる場所です。……間違いありません。これは世界全体の歴史と刻が動き出したことで現れた、広大な古代の遺構です」
エマが私の腕をギュッと抱きしめる。その時、集まっていた自警団の奥から、コン、コンと杖を突く乾いた音が響き、村人たちが自然と道を開けた。
現れたのは、白い髭を蓄えた村長のネルソンだった。その老いた瞳には、かつてないほどの深遠で重々しい色が宿っていた。ネルソンは膝を折りそうになる身体を杖で支え、集まった若者たちを見渡すと、静かに、しかし響く声で語り始めた。
「……古代の街の跡に、一斉にか。……やはり、古の伝承通りじゃな。先祖たちが過剰な力と災厄を封じ込めた『戒めの蓋』が、世界が動き出したことで一斉に解き放たれたのだ」
「ネルソン村長……『戒めの蓋』とは、何なのですか?」
私が尋ねると、ネルソン村長は北の山裾へゆっくりと視線を向け、深々と息を吐き出した。
「遥か昔、この世界には人の手に余る過剰な智慧と技術、そして他者を圧する強大な力が溢れ返っておった。だが、人々はその力に溺れ、やがて世界を滅ぼしかねない大災厄を引き起こした……。破滅の淵に立った先祖たちは過ちを悟り、その原因となった技術や力、そして過剰な文明のすべてを、かつて栄えた都市ごと大地の底深くに封印したのじゃ」
ネルソン村長は皺の深まった手で握りこぶしを作り、静かに言葉を続けた。
「二度と同じ災厄を繰り返さぬよう、世界が静かに平穏を守り、停滞している間は決してその扉が開くことはなかった。……だが、今こうして蓋が開いた。それは世界が停滞を脱し、再び前へと歩み始めた証であると同時に、先祖たちが未来の生者へと突きつけた『試練』でもある」
「試練……」
「そうじゃ。同じ過ちを繰り返す愚か者か、それとも過去の遺産と正しく向き合い、乗り越えられる者たちか。……先祖たちは、自らの罪を忘れぬための戒めとして、あの地下の奥底に厳しい試練と番人を遺した。だからこそ、生生しい命を持つ生き物どもは本能でそれを察し、あの冷気と圧力を恐れて近づこうとせぬのじゃ」
ネルソン村長の語る重厚な伝承に、村人たちは畏怖の念を抱いて深く息を呑んだ。
世界が再び熱を帯び、動き出したからこそ顕現した古代からの試練。ただ恐怖して逃げ出せるような代物ではないことが、全員の胸に強く刻み込まれる。
「放置して逃げるわけにはいきませんね。……あの穴がこの先、村にどんな影響を与えるのか。ただ恐れて引き籠もっているだけでは、真の平和は守れないと思います」
私はエマの瞳をまっすぐに見つめ、それからネルソン村長とバノックに向き直った。
「まずは、しっかりとした準備を整えて、あの穴の中に足を踏み入れたいと思います。何が潜んでいるのか、どんな試練があるのかを、自分たちの目で確かめる必要があります」
恐怖がないわけではない。むしろ、未知の冷気への畏怖で背筋は冷たい。
けれど、今の私には守りたい人がいる。寄り添い、共に泥を啜ってでも生きていこうと誓い合ったエマがいる。この村がある。
「ハルさん……。あんな気味の悪い穴に入るなんて、危険すぎるわ……!」
不安そうに声を震わせるエマの頬にそっと手を添え、私は穏やかに、しかし揺るぎない声で語りかけた。
「無茶は絶対にしないよ、エマ。君を残して死ぬような真似は、二度としないと約束したからね。……だからこそ、村のすぐ側にある危険の正体を知っておきたいんだ。バノックさんたちとしっかり装備を整えて、慎重に、入口付近の安全を確かめるだけだ」
「……ハルさん……。約束……ですよ? 無理だと感じたら、すぐに引き返してくださいね……っ」
「ああ、約束するよ」
バノックは豪快に胸を叩き、ネルソン村長へ深く一礼すると、太い声で号令をかけた。
「村長のおっしゃる通りだ! 先祖の遺した戒めだろうと、我らがいま生きているこの日常を脅かさせるわけにはいかん。よし、自警団の腕利き数名とハルで一次調査隊を組む! 防寒具と松明、頑丈なロープと解毒薬を用意しろ! 準備が整い次第、あの北の穴へ向かうぞ!」
「「おおっ!!」」
男たちの威勢の良い掛け声が、冬の冷たい空気を切り裂いて響き渡った。
茜色に染まり始めた空の下、北の山裾に静かに口を開ける漆黒の大洞門——『深淵の口』。
そこに漂う過去の沈黙と冷気に向かって、私たちは静かに、しかし力強い一歩を踏み出そうとしていた。




