第50話 命の重み
春の深まりとともに、北の過疎村を取り巻く空気は、どこか奇妙な歪みを孕み始めていた。
雪解け水が小川を勢いよく満たし、畑の作物が青々と葉を広げる一方で、村を囲む鬱蒼とした原生林からは、時折地鳴りのような低く不気味な響きが届くようになっていた。鳥たちは羽音を荒立てて空へと飛び去り、村で飼われている羊たちは夜になると落ち着きなく小屋の柵を叩く。村長ネルソンや古老たちは「山が荒れている」「暖かくなるのが早すぎたのかもしれん」と表情を曇らせていたが、それがどのような破局の前兆なのかまでは、誰も予測できずにいた。
そんな予兆を払拭するように、私はいつも通り村の防壁補修と薪割りに汗を流していた。
夕刻近く、作業の合間に井戸端で冷やした水を飲んでいると、エマが小さく息を弾ませながら駆け寄ってくる。その腕には、村の裏手で摘んできたばかりの野草や綺麗な野の花が抱えられていた。
「ハルさん! 見てください、北の林の近くでこんなに綺麗な花が咲いていたんです。お部屋に飾りましょうね」
「綺麗な花だな、エマ。でも……最近、森の様子が少しおかしいんだ。あまり一人で村の外へ出ちゃダメだぞ」
「はい、すみません……。でも、ハルさんが毎日一生懸命お仕事をしてくださっているから、少しでも喜んでほしくて」
申し訳なさそうに眉をひそめるエマの健気な姿に、胸の奥がキュッと締め付けられる。
あの日、スレッドの向こうの同胞たちに語った言葉は嘘ではない。彼女の笑顔も、私の頬を包み込む温かな手の温もりも、この胸を打つ鼓動も、私にとっては紛れもない現実なのだ。この柔らかな日常を守るためなら、どんな辛い作業でも耐えられると感じていた。
——だが、破滅はあまりにも唐突に、何の前触れもなく訪れた。
ズズズ……と、地底から響くような深い振動が、足を乗せている地面を激しく揺らした。
次の瞬間、村の北側にそびえる防空壁代わりの木柵が、爆発でも起きたかのような凄まじい衝撃音とともに内側へ向かって弾け飛んだ。
「な、なんだ!?」
木屑と泥胞子が舞い散る視界の向こうから現れたのは、尋常ではない巨体を誇る獣の群れだった。
黒く剛質な体毛に覆われ、鋭い鎌のような牙を剥き出しにした冬越しの餓えた大狼——『黒爪狼』の群れだ。普段なら山深くの原生林に潜み、人里へ降りてくることなど滅多にない猛獣たちが、何かに狂わされたように目を血走らせ、咆哮を上げて村へと雪崩れ込んできたのだ。
「ひっ……!?」
悲鳴を上げたのは、私のすぐ近くにいたエマと、薪拾いから戻ったばかりの村の幼子たちだった。
不運にも、崩落した木柵の破片がエマの足元を直撃し、彼女は大きく体勢を崩して冷たい泥の上に倒れ込んでしまったのだ。足首を痛めたのか、立ち上がることができず、恐怖に顔を蒼白にさせて硬直している。そのすぐ数十メートル先には、涎を垂らした巨大な大狼が、真っ赤な眼光をエマへと向けて飛びかかろうと後脚に力を溜めていた。
「エマッ!!」
私は反射的に手にした薪割り用の大斧を握り直し、足元の泥を蹴って跳躍した。
死線をくぐり抜けてきた『第一陣』としての本能が、瞬時に体中の筋肉を駆動させる。大狼がエマへ向けて跳躍したその刹那、私は強引に割り込み、大斧の柄で獣の鋭い爪を真っ向から受け止めた。
ガキィンッ!! と重い金属音が鼓膜を刺す。
腕に伝わる凄まじい衝撃。だが、私は力任せに斧を振り抜き、大狼の巨体を力任せに弾き飛ばした。
「ハルさん……! あたし、足が……っ」
「大丈夫だ、エマ! レン! レン、どこだ! エマと子供たちを引かせろ!」
叫ぶと、急報を聞きつけたレンや村の自警団の男たちが、槍や弓を手にして駆けつけてきた。
「ハル! 大丈夫か!?」
「俺がここで食い止める! レン、エマを背負って安全な広場まで下がれ! 急げ!」
「くそっ、分かった! いくぞエマ、手を伸ばせ!」
レンが泥まみれになりながらエマを抱え上げようとする。
よし、これで態勢を立て直せる——そう確信した、まさにその一瞬だった。
私の思考と判断に、致命的な「ミス」が生じた。
眼前の大狼の群れにばかり意識を奪われていた私は、崩れた木柵の陰、背後の死角から忍び寄っていたもう一頭の個体——群れの頭目と思われる、一回り巨大な『赤目の主』の存在に気づくのが遅れたのだ。
ガラガラと崩れ落ちる木屑の音。
気づいた時には、その巨大な影はレンの背中に背負われ、身動きの取れないエマの無防備な首元へと向かって、鋭い牙を剥き出しにしながら喉元へ飛びかかっていた。
(——しまっ……!?)
間に合わない。武器を振り直す時間も、レンが反応する隙すらない。
このままでは、エマの首筋が噛みちぎられ、彼女の命が目の前で潰える。
この世界において、現地人の死は「絶対」だ。二度と生き返ることはなく、その温もりも、笑顔も、私を呼ぶ優しい声も、永遠に失われてしまう。
——考えるより先に、私の体が動いていた。
後先など一切考慮しなかった。
自分の命を守るための回避動作も、防御の態勢もすべて投げ捨て、私はエマと巨狼の間に自らの全身を投げ打つようにして割り込んだ。
グシャリ、と嫌な生々しい音が全身に響き渡った。
「ぐっ……がああああああっ!?」
激痛が視界を真っ赤に染め上げる。
巨狼の太い牙が、私の肩口から胸元にかけて深く突き刺さり、肉を裂き、骨を砕く感触がダイレクトに脳髄を揺さぶった。衝撃で大斧が手からこぼれ落ち、地面へ転がる。
「ハ、ハルさん……!? ハルさぁぁぁぁぁぁんっ!!」
耳元で、聞いたこともないようなエマの絶叫が響く。
胸元から溢れ出る大量の鮮血が、彼女の亜麻色の衣装と、泥の上に散らばった野の花を朱色に染めていく。
巨狼は肉を喰らい尽くそうとさらに顎に力を込め、私のHP(体力)ゲージは急速にゼロに向かって削り取られていった。意識が急速に遠のき、視界がかすんでいく。全身の感覚が冷たくなり、死の足音がはっきりと聞こえていた。
私がプレイヤーである以上、この肉体が滅びても死ぬことはない。だが——デスペナルティがある。
この高難易度VRMMO『神域』における死亡ペナルティは重い。数日間のログイン不可、あるいは強制的な魂の再構成期間によって、私は最低でも数日間、この世界に姿を現すことができなくなるはずだった。
(数日……。俺が消えている数日間のうちに、この村が……エマが襲われたら……!)
悔しさと愛おしさが、薄れゆく意識の中で激しく渦巻く。
私は残された最後の力を振り絞り、巨狼の首根っこを素手で強く掴み引き剥がしながら、涙を流してすがりついてくるエマの真っ赤な瞳を真っ直ぐに見つめた。
「エマ……泣かないでくれ……」
「嫌、嫌ですハルさん! 血が……血が止まらない! 助けて、誰か助けてえええっ!」
「大丈夫だ……すぐ、すぐに戻ってくるから……」
それが、私の肉体が力尽きる瞬間に遺した、最後の言葉だった。
「待っていてくれ……必ず、君のもとへ……戻るから……」
視界が完全に漆黒へと染まり、エマの悲痛な叫び声が遠ざかっていく。
私の視界から色彩が失われ、魂が肉体から切り離される独特の浮遊感が全身を包み込んだ。
暗黒の闇。
システムによる死亡シークエンスが挟まり、私は「数日間の暗闇」を覚悟していた。デスペナルティによる再構成待機時間。その間、村がどうなってしまうのかという絶望的な焦燥感が胸を押し潰しそうになっていた。
——だが。
『——カルマ値の計測を完了。』
『——対象の行動履歴を参照:地域共同体への極めて高い貢献度、および無償の自己犠牲行為を確認。』
『——高カルマ値(聖性/守護者)適用により、デスペナルティ(再構成待機時間およびレベル低下)を免除します。』
『——即時再誕を実行します。』
「……デスペナルティ……免除……!?」
無機質なシステムアナウンスが脳内に響いた瞬間、目の前の暗闇が眩い白光によって弾け飛んだ。
浮遊感が消え、足裏に確かな硬い手触りが戻る。
目を開けると、そこは村の中央にある小さな神殿の祭壇の前だった。私の体からは傷一つ消え去り、装備も欠損することなく完全に復元されている。
この世界には「カルマ値」という隠しパラメーターが存在し、日々の誠実な生き方や、現地人の命を守るための自己犠牲といった行動が一定基準を超えた場合、通常であれば数日かかるデスペナルティが完全に免除され、その場で即座に復活できるという極めて特殊なルールが存在していたのだ。
システムへの驚きは、一瞬で激しい焦燥へと塗り替えられた。
「エマ……! 村のみんな……!」
私は神殿の重い木扉を力任せに押し開き、陽光の下へと飛び出した。
まだ村の北側からは、激しい怒号と獣たちの不気味な咆哮、そして傷ついた人々の悲鳴が響き渡っている。私が倒れてから、ほんの数分も経っていないのだ。
「待っていてくれ、エマ……! 今、行く!!」
泥を跳ね上げ、私は再び大斧を強く握り締めながら、愛する彼女が待つ戦場へと全速力で駆け出した。




