第51話 涙の抗議
神殿の扉を蹴破るように跳び出した私は、春の冷気を切り裂いて一心不乱に走っていた。
呼吸が荒く乱れ、心臓が早鐘のように肋骨を内側から叩く。全身の血液が沸騰しているかのような熱のなか、脳裏に焼き付いて離れないのは、血の海の中で私を呼んで叫んでいたエマの、真っ赤に濡れた瞳だった。
(急がないと……! 一刻も早く、無事な姿を見せて安心させてあげないと……!)
心の中で何度も自分に言い聞かせる。
死亡ペナルティの免除という、システム上の思いがけない奇跡によって、私は命を落としてから瞬時にこの村の中央神殿で目を覚ますことができた。怪我一つない自分の身体を見つめ、私は心の底から自分の選択が正しかったのだと確信していた。
自分が身を挺して稼いだ数秒の時間によって、エマや子供たちの命を守り抜くことができた。自分が数日消えることもなく、こうしてすぐに戻って来られたのだから、きっと彼女も驚きつつも安堵して喜んでくれるはずだ——そう信じて疑わなかった。
村の北側、打ち砕かれた木柵の周辺からは、なおも激しい怒号と、金属が打ち合わさる甲高い打撃音が地鳴りのように響いてきていた。
「駆けつけろ! 隙を見せるな、囲い込め!」
「槍隊、前へ! これ以上村の中に侵入させるな!」
重厚で腹の底に響くような大声が聞こえた。
崩落した木柵の敷地に飛び込むと、そこではすでに凄惨な乱戦が終わりを迎えつつあった。
村の自警団を率いる手練れのベテラン戦士——バノックだ。かつて領主の正規軍で隊長を務めていたというその巨漢は、身の丈ほどもある大盾と分厚い片手剣を振るい、私を食い破ったあの巨大な『赤目の主』の首筋を、容赦ない力任せの一撃で一刀両断に切り伏せたところだった。
ドサリ、と巨狼の体が冷たい泥の上に崩れ落ちる。
周囲には、バノックに率いられた自警団の熟練した男たちが隙のない陣形を組んでおり、群れをなしていた残りの黒爪狼たちも、すでに大半が討ち取られるか、山の奥へと散の乱れるように逃げ出していた。
「バノックさん……! レン……!」
私が声を張り上げながら惨劇の渦中へと駆け寄ると、息を荒らげて剣の血糊を払っていたバノックや、槍を構えていたレンたちが一斉に振り返った。
「な……!?」
バノックの厳めしい顔が、信じられないものを見たかのように激しく歪んだ。手にした剣が、カタリと不気味な音を立てて握り直される。隣にいたレンに至っては、顎をガクガクと震わせ、手にしていた木槍を泥の中にポロリと落としてしまった。
「ハ……ル……? お前……なんで……」
「みんな、無事だったか!? 誰も殺されていないな!?」
私は周囲を見回した。
泥と鮮血に塗みれた木柵の前に立つ村人たち。何人かは手足を怪我して血を流しているが、いずれも命に別状のあるような重傷者はいなかった。バノックたちの素早い駆けつけと的確な統率によって、最悪の事態は防がれていたのだ。
「よかった……! 誰も死んでいないんだな……! 本当に、本当によかった……!」
胸の底からこみ上げる深い安堵に、私は思わず膝をつきそうになりながら息を吐いた。
プレイヤーとしての身を挺した行動が、レンや子供たちの命を救う糧となった。すぐこうして戻って来られたのだから、何も問題はない。自分の選択の正しさを一瞬疑わなかった。
——だが、その安堵はあまりにも無知で、身勝手な勘違いに過ぎなかった。
「……ハルさん……?」
低く、震える声が聞こえた。
崩れ落ちた木柵のすぐ脇。泥と血で汚れた地面の上に、ポツンと膝を折ってうずくまっている一人の少女がいた。
エマだった。
彼女は、先ほどまで私が巨狼に噛みちぎられ、大量の血を流して「命を落とした」まさにその場所——いまや何もない、ただ冷たい空気が漂う何もない空白の空間に向かって、小さく肩を震わせてうずくまっていたのだ。
彼女の手には、私が流した朱色の鮮血で赤く染まった野の花と、散らばった亜麻色の布切れが強く握り締められていた。栗色の瞳からは大粒の涙が溢れ落ち、泥の上にぽたぽたと絶え間なく落ちて染みを作っている。
「エマ……!」
私は無我夢中で彼女のもとへと駆け寄った。
怪我をしたと言っていた足首は痛むはずなのに、彼女は自分の体など気にも留めず、涙を流して泣きじゃくっている。
「エマ! 無事だったんだな、よかった……! 怪我は見せてくれ、足を痛めたんだろう!?」
私は膝をつき、彼女の肩に触れようと手を伸ばした。
生きている私を見せれば、きっと驚き、そして安堵して泣きついてきてくれるはずだ。そう信じて疑わなかった。
だが。
私の差し伸べた手が、彼女の肌に触れるよりも速く。
バシィィィィンッ!!!!
破裂するような乾いた打撃音が、静まり返った戦場に高く響き渡った。
「……っ!?」
激しい衝撃と熱が、私の右頬を襲う。
視界が横に大きく揺れた。エマが、全身の力を振り絞って、私の頬を真っ直ぐに平手打ちしたのだ。
手のひらが痺れるほど強く叩かれた右頬が、ジンジンと赤く火照っていく。
「え……? エマ……?」
あまりのことに言葉を失い、頬を押さえて呆然とする私を、エマは涙に濡れた瞳で見つめていた。
その唇が、激しく震えている。何かを言いかけ、息を詰まらせ、言葉にならない悲鳴のような息を漏らすと——彼女は痛むはずの足を庇うように引きずりながら、私から逃げるようにクルリと身を翻した。
「エマ! 待ってくれ、エマ!」
「来ないでっ!!」
耳を刺すような、悲痛な叫びだった。
エマは一度も振り返ることなく、泥に足をとられながら、村の奥へと一心不乱に走り去っていった。
その背中は、あまりにも小さく、そして激しく震えていた。
「どうして……なんで……?」
私は伸ばした手の行き場を失い、冷たい泥の上に突っぷしたまま動けなくなった。
助かったのだ。命を守れたのだ。怪我一つなく、こうしてすぐ生きて戻ってきたのだ。なぜ彼女は泣いて、私を叩いて、逃げ出してしまったのか。頭の中が真っ白になり、思考が完全に停止する。
——その時。
ズシ、ズシと重い足音が泥を踏み鳴らし、私の目の前で止まった。
顔を上げると、そこには剣を握りしめたバノックが立っていた。
その顔は、先ほど猛獣の群れと対峙していた時よりも遥かに恐ろしく、深い怒りと憤怒によって般若のように激しく歪んでいた。その奥にある栗色の両目には、怒りだけではなく、赤く充血した悲しみの色が色濃く浮かんでいる。
「……ハル」
「バノックさん……俺は……」
「お前は……っ!!」
バノックの手が、私の胸ぐらを力任せに掴み上げた。
圧倒的な腕力によって強引に立ち上がらされ、至近距離でバノックの咆哮のような怒号が叩きつけられる。
「お前は……命をなんだと思っているんだぁぁぁぁぁっ!!!」
「が……っ!?」
鼓膜が破れんばかりの叫び。
バノックの太い腕から伝わる激しい揺れが、私の全身を揺さぶる。
見回すと、周りにいた自警団の男たち、そしてレンまでもが、涙をボロボロと流しながら、殺気すら孕んだ鋭い眼光で私を激しく睨みつけていた。
「バノックさん、俺は……エマを守るために……!」
「黙れッ!!」
バノックは胸ぐらを掴んだ手をさらに強く締め上げ、私の顔の目と鼻の先まで己の顔を近づけた。
「死んだんだぞ……お前は!! 俺たちの目の前で、腹を食い破られて、血を撒き散らして……息絶えたんだぞ!! エマがどんな声を上げて泣いたか分かっているのか!? レンがどれほどの思いでお前を助けられなかった自分を呪ったか分かっているのか!!」
「でも、俺は異邦人で……! すぐに戻って来られるから……!」
「それがどうしたって言うんだッ!!!」
バノックの喉から、血を吐くような叫びが上がった。
「『戻ってきた』だと!? 傷一つなくなって、平然とした顔でか!? 異邦人は死んでも蘇るから、命を投げ捨てていいとでも思っていたのか!?」
「っ……!」
「ふざけるな……! ふざけるなよ、ハル!!」
バノックの目から、大粒の涙がポロポロとこぼれ落ち、彼の固く結ばれた髭を濡らしていく。
「この地に生きる者にとって、命はたった一つだ! 失われれば二度と戻らない、かけがえのないものなんだ! それをお前は……目の前で命を粗末に切り捨てて、残された者がどれほど胸を切り裂かれるか、微塵も考えなかったのか!?」
「あ……」
「エマにとって、お前が生きているかどうかが全てだったんだぞ! お前が死ねば、お前が代わりに生き残らせた命に、あの子がどんな顔をして生きていけと言うんだ! 『自分のためにハルが死んだ』という地獄の絶望を背負わせて、平然と戻ってきて『無事でよかった』だと!?」
頭をガツンと鈍器で殴られたような衝撃が、私の全身を突き抜けた。
息が詰まる。喉の奥がカラカラに乾き、言葉が何一つ出てこなくなっていく。
そうか……そうだったのか。
私は……私は何を勘違いしていたのだ。
「自分はプレイヤーだから死んでもいい」。
「復活できるから、代わりに現地人の命を守ればいい」。
そんなものは、ゲームのルールを盾にした、どこまでも浅はかで一方的な身勝手さに過ぎなかった。
この土地に生きるエマにとって、村人たちにとって、「死」とはやり直しの効かない絶対的な別れであり、かけがえのない命の終わりなのだ。私が軽い気持ちで投げ打った「一度の死」は、彼らの心に二度と癒えない深い絶望と罪悪感の爪痕を残し、その尊厳と愛を真っ向から踏みにじる惨い行為だったのだ。
「お前の命は……お前一人のものじゃないんだよ、ハル……」
バノックの手から力が抜け、私の胸ぐらが解放された。
泥の上に力なく崩れ落ちる私を、バノックは悲しげな目で見下ろした。
「あの子の元へ行け。……だが、今のお前がかけた言葉が、あの子の傷をどれだけ深くえぐったか、よく考えてからにしろ」
バノックはそれだけ言うと、背を向けて歩き出した。自警団の男たちやレンも、静かに彼の後に続く。
そして、少し離れた場所で足を止めると、バノックは振り返ることなく、泥に濡れた背中のまま低くくぐもった声を響かせた。
「……だが。あの子と子供たちを護ってくれて……ありがとうな」
その言葉を残し、バノックたちは去っていった。
静まり返った木柵の跡地。
茜色に染まり始めた夕空の下、私は血と泥の匂いが残る地面に一人膝をつき、震える両手を泥まみれのまま固く握りしめていた。
(ヨハン……)
脳裏に、かつてこの村の冬の寒さと魔獣の急襲の中で倒れ、二度と目を覚まさなかった青年——ヨハンの姿が鮮明に蘇ってきた。
あの日、冷たくなった彼の身体を前にした時、私は痛感したはずだったのだ。この世界において「死」とは絶対であり、一度失われた生命は二度と戻らないのだと。この土地に生きる人々がどれほど命を慈しみ、死を悼み、その重みを抱えて生きているかを知っていたはずだった。
分かっていたはずなのに。知っていたはずなのに。
自分自身がプレイヤーであるという甘えと、「不死性」というルールへの傲慢さが、いざという時に私の感覚を麻痺させていた。
「俺は復活できるから」「すぐ戻れるから」——そんな身勝手な理屈で命を投げ打つことが、残された者たちにヨハンの死と同じ……いや、それ以上の凄惨な地獄の絶望を味わわせるのだということに、私は今さら気づかされたのだ。
右頬に残る、消えることのない熱い痛み。
それが、エマや村人たちの尊厳を踏みにじり、命の重みを軽視してしまった私が負うべき、あまりにも残酷な罪の証だった。




