第3話 神の言葉
ぎぃ、と音を立てて木製の引き戸を閉めると、外の冷ややかな空気と静寂が、わずかに隔てられた。
薄暗い室内は、四畳半ほどの狭さだった。
歪んだ木板の床の上には乾燥した短藁が敷き詰められており、部屋の隅には古びた丸太椅子が一つ置かれているだけだ。
窓枠にはガラスなど嵌まっておらず、打ち付けられた木格子から、かすかに夕刻の斜光が差し込んでいた。
私は小さく息を吐き、壁際に身を寄せた。
木板に背中を預けると、固く不均一な木目の感触が、服越しに背骨へダイレクトに伝わってくる。
「まずは……初期の所持品か」
腰に手を当ててみる。
吊るされていたのは、手のひらほどの長さしかない小ぶりの作業用ナイフだった。
柄は使い古された木製で、刃先にはごく浅い油が塗られている。
抜き放ってみると、鈍い銀色の鉄光りが視界に飛び込んできた。
重さ、質感、刃先に指の腹を軽く滑らせたときの微かな痛み——すべてが本物だった。
そしてもう一つ、麻服の懐の中に、硬い感触のものがあった。
取り出してみると、それは手に収まるほどの小さな薄い冊子だった。
表紙は植物の繊維を荒く織り込んだような硬質な紙でできており、タイトルや装飾の類は一切刷られていない。
(これが……取扱説明書、か)
ゲームによくあるホログラムの浮遊UIや、視界の隅に常時表示されるステータスウィンドウといった便利なものは、ここには存在しない。
プレイヤーに与えられた唯一の情報媒体が、この手元にある不恰好な冊子一冊というわけだ。
私は丸太椅子を引き寄せ、そこに腰を下ろした。
軋む音を聞きながら冊子の表紙をめくると、毛筆で書かれたような硬質で簡素な文字が並んでいた。
『降臨せし者へ』
一行目には、そう記されていた。
『汝らは停滞せしこの地に、神の導きにより召喚された導き手である。この領域において求められるのは、命の営みであり、日々の役割に徹することである』
文章の滑出しは、ありがちなファンタジー作品のプロローグのようだった。
「神の導き」「召喚」「導き手」という大層なフレーズが躍っている。
だが、読み進めていくうちに、その行間から立ち上る異質さに私の指先が止まった。
『当領域の理は、汝らが元いた世界における物理・生物法則と不可分である。怪我は痛みを伴い、飢えは肉体を苛み、無謀なる損耗は戻りがたき損害をもたらす』
『素体(肉体)の活動限界に達した際、あるいは意識の切り離し(帰還)を行う際、素体はその場に留まり、機能の完全停止状態へと移行する。この現象は現地住民にとって未知の恐怖となり得るため、管理には細心の注意を払うこと』
(やはり……あの老人の言葉通りか)
ログアウト中の無呼吸、硬直状態について、はっきりと注意書きがなされていた。
運営側は、この「無知なプレイヤーが引き起こす不気味さ」や「現地人との間に生じる認識のズレ」を完全に把握した上で、あらかじめ放置しているのだ。
もしこれが純粋な顧客満足度を追求する一般的なVRMMOであれば、このようなプレイヤー側の不利益にしかならない仕様は即座に修正されるか、マイルドな演出に置き換えられるはずだ。
だが、この『神域』というシステムは、最初からそんな歩み寄りを一切見せていない。
さらにページをめくる。
『過度な破壊、略奪、ならびに現地住人(肉体と命を有する者)に対する非人道的なハラスメント行為は、世界の調和を損なう「重大なバグ」として検知される』
『該当行為が確認された場合、事前通告なく即時の断罪(永久アカウント凍結)が実行され、同時に現実世界の法体系に基づいた司法手続きが開始される。汝らの魂と肉体は、常に現実の責任の下に置かれていることを忘れることなかれ』
赤字でも強調されておらず、淡々とした黒インクで刻まれたその文言には、底知れない冷たさがあった。
利用規約にあった「実在の国内法および国際法規が直接適用される」という一文が、ただの脅しではないことを裏付けている。
大都市に降り立ったであろう大半のプレイヤーたちは、今ごろ「レベル上げ」や「派手なスキル」「隠しクエスト」を探して街を練り歩いているのだろうか。
あるいは、そのリアルすぎる五感に浮かれ、ゲーム感覚でNPCにちょっかいを出している者もいるかもしれない。
もしそうなら……彼らは近いうちに、思いもよらない形で「この世界の現実」を突きつけられることになるはずだ。
(……慎重に動かなければ、本当に取り返しがつかなくなる)
私は冊子を閉じ、慎重に麻服の懐深くへと押し戻した。
立ち上がり、ぼろ屋の中をあらためて見渡す。
床に敷かれた藁は埃っぽく、長年の放置により湿気を含んでカビの匂いが漂っていた。
壁のあちこちには隙間があり、今夜の冷え込みを考えれば、このまま眠るには少々過酷すぎる環境だった。
「まずは……清掃と、隙間風を防ぐ手段の確保だな」
腕まくりをして、丸太椅子を部屋の隅へ移動させる。
持っているのは腰の小ナイフ一本と、自分の手足だけ。
魔法で部屋が一瞬で綺麗になるような都合の良いコマンドなどどこにもない。
私はしゃがみ込み、古くなった藁を一つずつ手でかき集め始めた。
カサカサと乾いた音が室内に響き、舞い上がった埃が格子窓から差し込む夕光に照らされてキラキラと漂う。
鼻奥がツンと刺激され、思わず小さなくしゃみが出た。
手のひらが泥と埃で黒く汚れていく。
爪の間に土が入り込み、皮膚の水分が奪われてカサついていく感覚。
それらはすべて、かつて現実世界で週末にDIYや庭いじりをしていたときに感じた、あの生々しい「作業の手応え」そのものだった。
集めた不要な藁を抱え、外の広場へ運び出す。
夕暮れの冷気が肌を刺した。
空は茜色から濃い群青色へと移り変わりつつあり、過疎村の寂れた木造家屋たちが、黒いシルエットとなって沈黙を守っている。
ふと視線を感じて振り向くと、隣家の物陰から、さきほどグラック老人と一緒にいた青年がこちらを伺っていた。
彼の手には、使い古された竹箒と、粗末な布切れが握られている。
私と目が合うと、青年はびくっと身体を硬直させ、持っていた布を落としそうになった。
依然として、その瞳には警戒と怯えの色が濃い。
だが、私がただ黙々と不潔な藁を運び出し、村の共有スペースを汚さないよう端のゴミ捨て場へ整理している様子を見て、彼の表情にほんのわずかな困惑が混じり始めた。
無法に暴れ回るでもなく、奇声を上げるでもなく、ただ愚直に己の部屋を掃除する異邦人。
その姿が、彼らの想像していた「神託の異物」とは少しだけ違っていたのかもしれない。
私は青年に対して深く追求することはせず、ただ小さく会釈だけを返すと、再び薄暗い自分の部屋へと戻った。
冷たい風が、吹き抜けの木格子から頬を撫でていく。
神域という名の箱庭で迎える、最初の夜がすぐそこまで迫っていた。




