第2話 灰色の閑村
湿った土を踏みしめる一歩が、想像以上に重い音を立てた。
静寂に包まれた広場の中央で、私は立ち止まる。
少し離れた木造家屋の影からこちらを覗き込む二つの影。
使い古された革の作業着を着た老人と、その隣に立つ痩せ型の青年だった。
老人は白髪の混じった髭をたくわえ、その落とし口の深い目元には幾重ものシワが刻まれている。
青年の方は、手にした小さな木彫りの道具を握りしめたまま、微動だにせずこちらを見つめていた。
その瞳に宿っていたのは、一言で表現するなら「得体の知れない怪異」を見る目だった。
山を下りてきた野生の凶暴な肉食獣を警戒するような視線ではない。
もっと根本的な、人間の姿かたちをし、二足で歩き、息をしているにもかかわらず、その存在の根底に言い知れぬ不気味さを感じ取っているかのような、冷徹な拒絶感。
(……神託、だったか)
事前に入手していた僅かな情報が脳裏をよぎる。
この世界の住人たちは、あらかじめ自らが奉じる神から告げられているという。
『いずれ異界の魂を宿した器が降り立つ』と。
神の言葉であれば、本来ならば敬意や歓迎をもって迎えられても不思議ではないはずだ。
だが、現実に彼らが浮かべているのは、畏怖を遥かに通り越した強い忌避と気味の悪さだった。
なぜそこまで怯え、警戒するのか。
その答えの一端を、私はほんの数分前に知ることになる。
「……お前も、あの“人形”の仲間か」
老人が絞り出すような低い声で呟いた。
しわがれた声帯が擦れる音が、湿った空気を伝わって届く。
セリフの途中に機械的なイントネーションや、事前に録音されたボイス特有の歪みは一切存在しない。
喉の振動、息の漏れ具合、言葉に含まれた警戒の感情まで、すべてが本物の人間のそれだった。
「私は……ハルと申します。ここで静かに暮らしを立てたいと考えてここに来ました」
私は静かに頭を下げ、できる限り穏やかな声で答えた。
腰の小さなナイフからは手を開け、敵意がないことを姿勢で示す。
老人は私の動作をじっと見つめていたが、その表情の硬さは解けなかった。
「暮らし、だと……? そんな奇妙な体でか」
老人は顎で、村の少し奥にある粗末な木造の小屋を指し示した。
そこは事前に「降臨者の拠点」としてマップ上で指定されていた場所だ。
先客——私よりも先にこの過疎村を選択し、降臨を果たしたもう一人のプレイヤーの拠点である。
「あそこにいる男も、最初は同じような顔をして入ってきた。……だがな」
老人の声がかすかに低くなり、隣の青年が身をすくめるように肩を寄せる。
「日が沈み、夜が訪れると……あいつは突然、糸の切れた人形のように倒れ込む」
老人の言葉に、胸の奥で冷たい塊が落とされたような感覚が走った。
「倒れる……ですか」
「そうだ。ただ眠るのではない。呼吸を止め、心臓の鼓動すら消え、目を開けたまま、あるいは閉じたまま、ただの丸太のように固まるのだ。いくら揺さぶろうが、顔を叩こうが、ぴくりとも動かん。……まるで、命の灯火だけがどこかへ吹き消された『死体』のようにな」
……ログアウト時の肉体現象。
プレイヤーが現実世界へ意識を戻し、接続を解除している間、この世界に残された素体がどのような状態になるのか。
開発側は事前に一切の説明を行っていなかった。
通常のアニメーションやゲームであれば、ログアウトしたキャラクターは「光となって消える」か、「そのまま睡眠モーションに入る」のがお決まりだ。
だが、この世界は違った。
魂(意識)が抜けた肉体は、ただの「呼吸も機能も停止した精巧な肉の塊」としてその場に置き去りにされる。
毎夜毎夜、生きている人間が突如として死体へと変貌し、朝になれば何事もなかったかのように動き出すのだ。
毎夜繰り返されるその異常な光景を、現地の人々がどれほどの恐怖をもって見つめてきたか。
神から伝承されていたとはいえ、生身の感情を持つ村人たちにとって、それは本能的な恐怖と薄気味悪さを煽るのに十分すぎる怪異だったのだろう。
(だから……この冷たい目なのか)
生きているのか死んでいるのかも分からない、人間の形をした異物。
いつ命が抜け、いつ戻るかも知れぬ怪異。
彼らが私に向ける忌避感の正体が理解できた瞬間、私の背筋を静かな冷や汗が伝った。
「……朝になれば、また何事もなかったかのように動き出し、自分勝手に村の周りをうろつき回る。言葉は通じるが、何を考えているのかさっぱり分からん」
老人は深くため息をつき、手にした古い鉄の杖を地面に突いた。
「儂はグラックだ。この寂れかけた村で、残った鍛冶道具と屋根をなんとか取り繕って生きている。……お前が何をしようと勝手だが、村の者に危害を加えたり、余計な騒ぎを起こすなら、容赦はせん」
「分かりました。ご迷惑はかけません」
私が重ねて誠実に頭を下げると、グラックと名乗った老人はそれ以上何も言わず、青年の背中を叩いて家屋の奥へと消えていった。
青年は去り際、一瞬だけ振り返り、怯えを含んだ眼差しを私に向けた後、引き戸を固く閉ざした。
バタン、と硬い木と木がぶつかる音が、誰もいない村の広場に虚しく響き渡る。
完全に一人取り残された私は、改めて自分の両手を見つめた。
握りこぶしを作ると、指の関節が軋み、皮膚が引っ張られる感覚がはっきりと伝わってくる。
私の意思で動き、私の意思で息をしているこの肉体。
だが、私が一度この世界から離れれば、この身体はただの「無呼吸の動かない人形」へと成り下がるのだ。
「現実と同じ、か……」
規約に書かれていた重々しい文言が、再び脳裏に重くのしかかる。
単なるプログラムのモブとしてNPCを扱い、気ままに振る舞えば、彼らは当然のように拒絶し、警戒を強める。
彼らにとって私たちは「都合の良いゲームの主人公」などではなく、生活を脅かしかねない気味の悪い異邦人に過ぎないのだから。
私は静かに歩き出し、指定された自分の割り当て部屋へと向かった。
足元の泥がくたびれた革靴の側面に付着し、冷たい湿気がじんわりと足の甲へ伝わってくる。
与えられた小さなぼろ屋の引き戸に手をかけ、ゆっくりと引く。
ギィギィとキシむ建具の音が聞こえ、中からは長年放置されていた埃と乾いた木屑の匂いが立ち込めてきた。
薄暗い室内の床には、薄い藁が敷かれているだけだった。
家具らしい家具もなく、壁の隙間からは外の冷たい風が細く吹き込んでいる。
「まずは……雨風を凌ぐ場所の確保からだな」
私は腕まくりをし、埃っぽい部屋の中に最初の一歩を踏み入れた。
派手な冒険も、魔法の武器もここにはない。
あるのはただ、冷たい土と木と、一人の生身の人間として試される現実だけだった。




