↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/102

第4話 沈黙する道

朝の冷気が、ぼろ屋の木格子の隙間から静かに忍び込んでいた。


私が目を覚ましたとき、視界に映ったのは見慣れぬ木目と腐りかけた天井の梁(はり)だった。

一瞬だけ自分の置かれた状況に脳の処理が追いつかず、指先を小さく動かしてみる。


板張りの硬さと、粗末な布の上から伝わる冷ややかな湿気が、ここが現実の自室ではなく『神域』の境界領域であることを即座に思い出させた。


「……体の痛みが、本物だな」


固い床の上でそのまま一晩を過ごしたせいで、腰と節々に鈍い痛みが残っていた。


ゲームであれば「睡眠による体力全回復」といった都合の良いシステムメッセージが表示されるところだろう。

だが、ここにはそんなUIも通知音もない。


ただ重い体を引きずり、手作業で体を解(ほぐ)しながら立ち上がるという、現実そのままの生々しい生理現象が待っているだけだった。


部屋の隅にまとめておいた昨日のかび臭い藁の山を横目に見ながら、使い古された木製の引き戸を開ける。


ギィ、と乾いた音が早朝の静寂を切り裂いた。


外に広がっていたのは、深い霧に包まれた過疎村の風景だった。

四方を囲む巨大な針葉樹の森から流れてくる湿った白靄(しらもや)が、不揃いな木造家屋の屋根や泥の地面を薄く覆っている。


静かだ。静かすぎる。


遠くで小鳥のさえずりが微かに聞こえる以外、人の生活音というものが一切存在しなかった。


私は呼吸を整え、冷気を胸いっぱいに吸い込みながら広場へと歩み出た。

湿った泥が革靴の底を濡らし、しっとりと冷たい重みが足裏に伝わってくる。


ふと、村の少し奥にある一軒の小屋が目に入った。

昨日、グラック老人が「先客」の存在を口にしていた、もう一人の降臨者の拠点だ。


引き戸は固く閉ざされたままで、人影が動く気配はない。


あの中にいるプレイヤーは、いま現実世界で目覚まし時計の音に追われ、朝の通勤電車に揺られているのだろうか。

あるいは、この世界での「無呼吸で硬直する人形」の恐怖をNPCに植え付けたことすら知らず、ただのゲーム体験として自室のベッドで眠りについたのだろうか。


(……彼を責めることはできない)


運営は事前に何の説明も行っていないのだから。

圧倒的なデモムービーを見せ、謎に包まれた最新領域としてこの場所を開放し、100万人の人間を送り込んだだけだ。


だからこそ、プレイヤーの大半はこれを従来の「娯楽」として扱い、現地人はこれを「理解不能な異物」として恐れる。

この構造的な掛け違いこそが、この世界を覆う底深い冷え込みの正体だった。


私は広場を抜け、村を南北に貫く一本の泥道へと足を進めた。


道幅は馬車が一台通れる程度。

しかし、わだちの跡はすっかり風化し、道端からは雑草が容赦なく生い茂っていた。


この村が、外の世界との交流を絶たれてからどれほどの年月が経っているのかが、その道の荒れ具合から手に取るように分かった。


道の途中、崩れかけた小さな木造の納屋が見えたため、立ち止まって内部を覗き込んでみる。

中には錆びついた農具の破片や、軸の折れた古い手押し車が、埃をかぶったまま放り出されていた。

壊れたものを直して使おうとした形跡も、新しく買い替えた痕跡すらない。


ただ壊れた瞬間からその場所に放置され、時の流れに風化するのを待っているかのような、奇妙なまでの無頓着さ。

壊れた道具をそのままにしておくのは単なる怠慢ではなく、変化を起こすこと自体を極力避けようとする無意識の防衛本能のようにも思えた。

村全体が、成長や修繕を自ら放棄しているような異常な停滞感がそこにはあった。


さらに奥へ歩を進めると、村の境界付近で一人の男が立ち尽くしているのが見えた。


擦り切れた皮の胸当てをつけ、腰に武骨な斧を下げた男。

村の自警団兼、猟師を務めているという現地人だった。


彼の背中は岩のように硬く、寒風の中でピクリとも動かずに森の奥を見つめている。


「……朝からうろつくとは、風変わりな奴だな」


足音に気づいた男が、振り返ることもなく低く呟いた。


その声には、グラック老人と同じような強い警戒と、諦念に近い冷たさが混ざっていた。


「ハルと申します。村の様子と、周辺の環境を知っておきたくて歩いていました」


私が足を止め、男の背中に向けてそう告げると、男はゆっくりと身体を捻り、片目でこちらを射抜くように見つめてきた。


鋭い眼光。何頭もの野獣を解体してきた者だけが持つ、独特の生臭さと圧迫感が漂ってくる。


素手で対峙すれば、私のような初期状態の人間など一瞬で組み伏せられるだろう。

日々命を削って生きている現地人と、現実世界でデスクワークに追われてきた自分との間には、あまりにも圧倒的な身体能力の格差が存在していた。


「環境だと……? 見れば分かるだろう。ここには何もない」


男は無造作に森の奥を指し示した。


「数百年の間、この村も、向こうの森も、何一つ変わっちゃいねぇ。木を過剰に伐れば山が荒れ、畑を不用意に広げようとすれば土が壊れる。……昨日と同じ今日を繰り返すだけだ。余計なことをせず静かに身を潜めるのが、この土地での生き方だ」


男の突き放すような言葉を聞きながら、私は村に漂う空気の理由を静かに噛み締めていた。


(木を伐れば山が荒れ、畑を広げれば土が壊れる……?)


単なる過疎化や人手不足ではない。

この世界の住人たちは、「何かを変えること」「新しい行動を起こすこと」そのものに対して、強い忌避感と学習された諦めを抱いている。


壊れた道具を直さず放置していたのも、変化による歪みを過剰に恐れた結果なのかもしれない。

まるで、世界全体の構造そのものが、彼らに「停滞」を余儀なくさせているかのように。


「お前たち異邦人が何をしに来たのかは知らんが……何もしないのが一番だ。静かにそこに転がって、朝になったら起きる。それだけでいい」


男は吐き捨てるように言うと、斧の柄を握り直し、再び森の深遠へと視線を戻した。


会話はそこで途切れた。


私は静かに頭を下げ、男の邪魔にならないよう、ゆっくりと引き返した。


時が止まったような過疎村。

数百年間、何の変化も起こさず、ゼロ成長の中で静かに衰退を受け入れてきた人々。


昨日と同じ今日をただ繰り返すことで身を守ってきた者たちと、そこへ突如として投げ込まれた、夜になれば息を止めて固まる100万人の不気味な異邦人たち。


村の小道を歩きながら、私は冷え切った自分の指先を固く握りしめた。


華々しい冒険や誇らしげな名誉は、ここにはない。

だが、この凍りついた「停滞」の中に、私のような人間が泥に塗れて生きる意味が、確実に存在する気がしていた。


腐りかけた家屋の屋根から、朝露がポタリと落ち、泥の水たまりに小さな波紋を描いた。


その波紋が静かに広がり、やがて消えていく様子を、私はただじっと見つめていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。