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第37話 芽吹く土

三月も末を迎え、村を包む空気からは完全に冬の鋭さが抜け落ちていた。


南側に広がる耕作地では、私とヨハン、エリス老女とミルカたちが総出で進めてきた春の作付けが、いよいよ大詰めを迎えていた。

先日の【逆徒】討伐令と世界宣言を受け、村の二重木柵の巡回体制を強化しつつも、私たちは一歩ずつ、確実にこの土地に根を張り直している。


「ハルさん、この列の溝に、麦の種を二指分ずつ撒いていってください」


ミルカが木製の丸籠を差し出し、控えめな、けれど確かな明るさを帯びた声で言った。

籠の中には、過酷な冬の最中に討ち取った山クマの毛皮や塩漬け肉を上手にやり繰りし、何とか蓄えを守り抜いた末に確保した、貴重な春小麦の種子が敷き詰められている。


「わかった。深く埋めすぎず、土をそっと被せるんだったね」


「はい! エリスお婆ちゃんが『種に息をさせてやるんだ』って言ってました」


私は手袋を外し、素手で黒々とした土に触れた。

ひんやりとした湿り気と、太陽の温もりが混ざり合う土の感触。

手に取った小さな種子を一つひとつ畝の溝に落とし、上から軽く掌で土を撫でつける。


現実世界で仕入れた農学の知識——土壌の酸度調整や畝の配置、排水溝の確保といった手仕事が、この世界の生々しい土と合わさり、形となって眼前に広がっていく。

昨日の【逆徒】との泥臭い対峙で手首や腰に痛みが残っているが、その痛みすらも、この命の営みを守り抜いた誇らしい証のように思えた。


「ハル、良い手つきだ」


畝の向こう側から、大きな木鍬を振るっていたヨハンが汗を拭いながら声をかけてきた。


「冬の最中はどうなることかと思ったが……グラックの爺さんが直してくれた鉄具と、お前が考えてくれた排水溝のおかげで、今年はいい芽が出そうだ。ケイルも……空の上から喜んでるだろうよ」


「……はい。ケイルさんが守ってくれたこの土地ですから」


ヨハンの言葉に、私は深く頷いた。

死者は二度と戻らない。けれど、彼が命を懸けて守ったこの村で私たちが土を耕し、汗を流して明日へ命を繋いでいくことこそが、本当の意味での供養なのだ。


作付けの作業が一段落した昼下がり、村の北口から乾いた鈴の音が響き渡った。


リン……コン……リン……コン……。


防壁の見張り台の上にいたバノックが長弓の手を緩め、眼下に広がる南の街道筋へと視線を送る。


「……自警団、構えを解け! 【逆徒】でも凶獣でもない! 行商の馬車だ!」


その声に、村人たちが一斉に顔を上げた。

鍛冶場で大鎚を振るっていたグラック老人が手を止め、集会場からエリス老女が出てくる。


北口の二重木柵の重い丸太門がゆっくりと開かれ、一頭の頑丈な山引き馬に引かれた幌馬車が、ぬかるんだ街道を慎重に進んで村の広場へと入ってきた。

馬車の御者台から降り立ったのは、分厚い革のコートを着込み、背中に巨大なリュックを背負った、日焼けした小柄な中年男だった。


「やあやあ! 自警団長バノック殿、お息災でしたかな! ……おや、村の防壁が随分と頑丈に補強されているようですな」


「ロレンツか! よくぞ無事に来てくれた!」


バノックが顔をほころばせ、男の肩を力強く叩いた。


ロレンツと呼ばれた男は、このアークライト王国ルミナリア領内を巡回する老練な行商人だった。

半年前の「降臨」以来、外部の情勢や貴重な道具を運んでくる数少ない交易の命綱だ。


「いやあ、道中生きた心地がしませんでしたよ」


ロレンツは帽子を脱いで汗を拭い、苦笑いを浮かべた。


「例の【神域の通達】と、エルハルト伯爵様の『無法者討伐通達』が出て以来、街道筋は騎士団と賞金稼ぎのダイバーたちでごった返していましてね。爆破石を乱用していた罰当たりな連中が狩り集められておる最中です。おかげで街道の安全がようやく確保され、こうして奥地の村々まで足を延ばせるようになったわけです」


ロレンツの言葉に、集まってきた村人たちが安堵と納得の表情を浮かべる。

バノックが振り返り、私を手招きした。


「ロレンツ、こっちはうちの自警団に加わった異邦人のハルだ。この冬の防衛戦じゃこいつと防壁を死守してな、大いに助けられたのさ」


紹介されたロレンツは、物珍しそうに私——プレイヤーでありながら村の泥に塗れて立つ姿——を見つめ、丁寧に帽子を持ち上げて一礼した。


「ほお、貴方様がハル殿ですかな。冬の間は街道が雪で閉ざされてお会いできませんでしたが……この辺境の村で、自警団の一員として村人たちと共に戦う異邦人がいるとは聞いておりましたぞ。お噂どおり、ただの旅人ではない気骨を感じますな」


ロレンツは馬車の幌を押し上げ、中に積まれた商品を広場に並べ始めた。


「さあさあ! 過酷な冬を越えた皆さんに、春の贈りものですぞ! 鉄の農具の替刃、上質な塩、南の港町から運ばせた魚の干物、そして各種の野菜の種子! あの冬の初めに得た山クマの極上な毛皮や、保存していた塩漬け肉があれば、破格で買い取りましょう!」


「お前さん、塩があるのか!?」


グラック老人が身を乗り出し、エリス老女も目を輝かせた。

塩は、村の保存食作りや日々の労働において生命線とも言える貴重品だ。冬の初めに仕留めた山クマの毛皮や余剰の塩漬け肉を差し出すと、ロレンツは驚嘆の声を上げた。


「おお……! これは見事な毛皮と保存肉ですな! これほどの代物は、ルミナリアの城下町でも滅多にお目にかかれませんぞ! よし、塩二樽と、最新の鍛冶用砥石、それに特製の鉄鍋をお付けしましょう!」


「やったぞ! これで次の冬の準備も格段に楽になる!」


ヨハンとグラック老人が拳を突き合わせ、村全体に歓声が上がった。

あの冬の死闘の末に掴み取り、大切に管理してきた恩恵が、行商人の手を経て、村の生活基盤をさらに豊かにする物資へと変わっていく。


交易が一段落した夕暮れ時、広場の焚き火を囲んで、ロレンツが熱いスープを口にしながら私とバノックに語りかけた。


「ハル殿。貴方様のような『手仕事と命の重み』を知る異邦人がこの村にいてくれたことは、この村にとって最大の幸運でしたな」


「いいえ……私は村のみんなに、この世界で生きる術を教えてもらっているだけです」


私は手袋の破れた自分の手を見つめながら答えた。


「世界宣言が下り、無法者たちが排除された今、これからの時代はこの地に根を張り、現地の人々と共に汗を流す者だけが残っていくはずです」


「その通りです」


ロレンツは深く頷き、炎を見つめた。


「領主府も今、自暴自棄にならず真面目に開拓と復興に取り組む村々へ、資材の優先配分を検討しているそうです。……この村は、春の芽吹きとともに、辺境で最も力強い復興の標本となるでしょう」


山裾の西空が、茜色から深い群青色へと染まっていく。

防壁の上ではマルタが静かに見張りに立ち、遠くの森からは春の虫の音が聞こえ始めていた。


スローライフという甘えを捨て、血と泥に塗れて掴み取った「戦う術」と「耕す手」。

身勝手な破壊者たちが淘汰され、世界の理が正しき者たちを包み込む中、私たちの過疎のない、豊かな命の循環を描く村は、春の光の中に確かな未来を芽吹かせていた。

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