第36話 境界線の対峙
三月中旬を迎え、村を取り巻く空気はすっかり冬の硬さを失っていた。
湿った土が太陽の光を浴びて温かな匂いを立ち上らせる。
村の南側に広がる耕作地では、農夫のヨハンを中心に、春の作付けに向けた畝作りが本格的に始まっていた。
「ハル! 鍬の入れ方が浅いぞ! 根をしっかり伸ばせるように、握りこぶし二個分は深く掘り返すんだ!」
「はいっ、ヨハンさん!」
私はぬかるむ粘土質の土に固い木鍬を叩き込み、全身の体重を乗せてグッと手前に引いた。
ザクッ、と心地よい音とともに黒い土が返り、丸々と太ったミミズが顔を出す。
手に伝わる湿った土の手応え、額を伝う汗、そして腕の筋肉が発する心地よい疲労感。
防壁の強化と武術訓練の合間を縫って行う手作業だが、この大地を耕す手触りこそが、私たちが生きている確かな証だった。
「ふう……ハルさん、手際がすごく良くなりましたね」
隣の畝で、小さめの鍬を手にしたミルカが汗を拭いながら微笑みかけてくれた。
彼女の掲げる籠には、昨夜から薬草摘みのエリス老女が選別していた、春一番に蒔くカブと麦の種子がぎっしりと詰まっている。
「ミルカちゃんも腰が入ってきたね。グラックさんが柄を直してくれたお陰かな」
「はい! グラックさんが『手首を傷めないように』って、あたしの背丈に合わせて削り直してくれたんです」
視線をやると、鍛冶場の煙突から細い煙を上げるグラック老人が、こちらを見て片手を軽く挙げた。
昨夜みんなで喰らった山クマの脂が、作業場の灯火を明るく照らしている。
ケイルを失った傷痕は今も村人たちの胸の奥に深く残っているが、倒した化け物の恩恵を喰らい、土を耕すことで、村は確実に新しい命を育み始めていた。
だが——平和な時間は長くは続かなかった。
カーン! カーン! カーン!
突如として、北の見張り台から高らかな鐘の音が村中に響き渡った。
「来やがった……! 北の森からだ!」
木こりのヨハンが鍬を投げ捨て、腰の大斧を引き抜いた。
私も即座に手袋を締め直し、畝の脇に置いてあった木防盾と、しごかれた実戦用の木槍を握りしめた。
「ミルカちゃんはエリスさんと一緒に集会場へ! ヨハンさん、北口へ急ぎましょう!」
「おう!」
北口の二重木柵の破口を塞ぎ終えた堅固な門前には、すでに自警団長のバノックと女性猟師のマルタ、そして傷の癒えた若者のレンが武器を構えて立ち塞がっていた。
防壁のすぐ外側、泥解けの残る森の境界線から、三人の男たちが姿を現した。
粗末な金属甲冑を身につけているが、その表面は泥と焦げ跡で酷く汚れ、腰には爆破石の入った革袋を無造作にぶら下げている。
南から入ってきた外部プレイヤー——領主府の『討伐通達』と、あの重々しい『神域の通達』によって【逆徒】の烙印を押された無法者たちだった。
「おい、頼む! 中に入れてくれ!」
先頭を走る短剣を持った男が、息を切らし、血走った目で叫んだ。
「追われてるんだよ! ルミナリアの騎士団と、賞金稼ぎのダイバーどもに!頼むから食糧と、休める場所をくれ! 俺たちはただレベル上げと素材集めをしてただけだろ!? なんでこんな目に遭わなきゃならないんだ!」
男たちの頭上には、赤く不吉な色で【逆徒】の標識が浮かび上がっていた。
世界そのものから拒絶され、追いつめられた者たちの凶暴な悲鳴。
「止まれ!!」
バノックが雷鳴のような大声を張り上げ、長弓の矢を男たちの足元数センチの泥へと叩き込んだ。
バツンッ!
「ひっ……!?」
「これ以上一歩でも近づいてみろ。次は喉笛を射ち抜く」
バノックの目が、凍てつく刃のように冷たく細められていた。
「自分たちの道楽のために北の深山を爆破し、森を荒らし、狂乱した熊を俺たちの村へ雪崩れ込ませた無法者どもが……どの面下げて救いを乞うか!」
「なんだと……!? たかがNPCの分際で威張りやがって!」
後ろに控えていた大鎚を持つ男が、顔を歪めて怒号を上げた。
「ゲームのキャラが調子に乗るなよ! 俺たちはプレイヤーだぞ!? お前らみたいなデータの防具や食糧を奪うことくらい、何とも思ってねえんだよ! そこをどけ!」
男は大鎚を振り上げ、力任せにバノックへ襲いかかろうと足を踏み出した。
——その瞬間、私の身体が勝手に動いていた。
バノックの訓練で身体に染み込ませた足腰の粘りで、ぬかるむ泥を力強く蹴る。
前に飛び出すと同時に、左腕の木防盾を深く斜めに構えた。
ガシィンッ!!
激しい木撃音とともに、男の振るった大鎚が私の防盾を叩く。
以前の私なら腕の骨ごと吹き飛ばされていたかもしれない。だが今の私は、泥を踏みしめた右足のかかとで地を噛み、衝撃を全身の体幹で受け流していた。
「なっ……何ィ!?」
「ここは、お前たちのような身勝手な者が立ち入っていい場所じゃない!」
私は即座に上体を滑り込ませ、右手の木槍の穂先を男の喉元ギリギリへと突き出した。
手先のブレはない。毎朝、血と汗を流して叩き込んできた「生きるための牙」が、確かに相手の命の急所を捉えていた。
「ひ……っ!?」
男は大鎚を取り落とし、尻餅をついて泥の中に転がった。
彼の目に宿ったのは、ゲームの敵に対する余裕ではなく、目の前にいる「本物の脅威」に対する生々しい恐怖だった。
横からマルタが二本目の矢を番え、冷徹な声で告げた。
「あたしたちは、死んだケイルの顔を忘れたことはないよ。自分たちの手で耕し、守ってきたこの村を、あんたたちみたいな破滅の種に踏みにじらせるわけがない」
「う……うわああああっ!」
喉元に槍を突きつけられた男は惨めな悲鳴を上げ、後ろの二人とともに慌てて脱兎のごとく北の森へ逃げ去っていった。
追撃はしない。彼らが去っていった森の向こうからは、すでに領主府の騎士団が鳴らす重々しい角笛の音が響き始めていた。
静寂が、再び境界線に戻ってくる。
「……ハル」
バノックが長弓を収め、ゆっくりと歩み寄ってきた。
彼は私の防盾に残った大鎚の深い傷跡を見つめ、それから力強く私の肩を叩いた。
「見事な立ち回りだった。もう、ただの開拓者じゃないな。お前は立派な、この村の守り手だ」
「……バノックさん」
槍を握る自分の手を見つめる。
破れて血の滲んだ手袋と、固く固まったタコ。
知識を授けるだけの安全な立場を捨て、泥に塗れて自ら武器を握った感触が、胸の奥で熱く脈動していた。
振り返ると、防壁の陰からヨハンやグラック老人、そしてミルカたちが心配そうにこちらを見守っていた。
私が無事であること、そして無法者を撃退したのを確認すると、ヨハンが深く頷き、ミルカが安堵の笑みを浮かべた。
三月の心地よい春風が、防壁を抜けて吹いていく。
無法者たちの脅威は去り、世界の理は正義と命の重みを選んだ者たちに味方していた。
私たちは二度と後悔しない。
生きている仲間たちの手を固く握り締め、この確かな命の息吹が満ちる村で、春の大地に力強く種を蒔いていくのだ。




