第34話 世界宣言
三月の初風が、解け残った雪の匂いと温かい土の薫りを運んできた。
北の二重木柵の補強を終え、汗を拭いながら手拭いで頬を濡らしていたその時である。
唐突に、世界そのものが震えた。
物理的な地震ではない。空気が、大気が、そして視界の端々を包む空間の「圧」が急激に跳ね上がったのだ。
鳥たちのさえずりが一瞬にして途絶え、風の音すら吹き飛んだかのような死寂が訪れる。
「……くっ、またこの圧か……!」
木こりのヨハンが顔をしかめ、大斧の柄を固く握りしめながら踏みとどまった。
鍛冶屋のグラック老人が大鎚を固い地面にどしんと突き立て、険しい視線で天空を仰ぐ。
「お婆ちゃん……半年前に『異邦人』が降臨した時と同じ……『神の通達』だね」
薬草摘みの少女ミルカが息を呑み、エリス老女の服の袖を強く握りしめた。
エリス老女は静かに目を閉じ、胸元で手を組みながら深々と頷いた。
「……ああ。半年も経たぬうちに再び降り下されるとは……世界がまた、大きく揺れ動こうとしているんだよ」
頭上高く——雲の切れ間から差し込む日差しが、金色の光粒子となって空間全体に降り注ぎ始める。
半年ほど前、この大陸各地に「異邦人」と呼ばれる者たちが一斉に降り立った際にも、全く同じ現象が起きていた。
現地の人々にとって、この光と大気の振動は「世界の理が書き換わる絶対的な刻の合図」として、肌身に恐怖と重々しさを伴って記憶されているものだった。
次の瞬間、地響きのような重厚な声が、特定の言語を超えた「概念」として、この大陸に生きるすべての者の精神に直接打ち込まれた。
『——これより、世界の理を刻む』
その声は、神の如き絶対的な威厳と圧迫感を伴っていた。
天の雷鳴のごとく腹に響き、魂を直接揺さぶる重々しい「世界の意志」そのものだった。
『異邦の血を惹き、この大地に降臨せし者たちへ告ぐ。並びに、この土を耕し、命を繋ぐすべての現世の民へ告ぐ』
『この世界は、玩具にあらず。命は一回にして、失われた魂が再び肉体に宿ることはない』
『然るに、異邦の一部なる者は理を軽んじ、大地の理を乱し、無差別に森を爆砕し、山を切り裂き、牙剥く凶獣を解き放ちて、血を通わせ生きる無辜の民の命を奪えり』
世界の宣言が重く響くたびに、私の脳裏にあの惨劇の夜が交錯する。
壊れた木柵の角で、エリスさんとミルカを守るために槍を突き立て、冷たい雪の上で息絶えたケイルの姿。
彼が遺した血の温もりと、残された村人たちの生々しい号泣。
南から入ってきた一部の外部プレイヤーたちが、単なるゲーム感覚の暴走で仕掛けた爆破石と乱伐。
その身勝手な破滅のしわ寄せが、どれほどの血と涙をこの世界に流させたか。
半年前、彼らをこの地に降臨させた大気の理そのものが、その不条理と罪過を明確に断罪しようとしていた。
『理を踏みにじり、無差別なる破壊と殺戮を撒き散らす不法者を、これより【逆徒】と定める』
『【逆徒】の印を刻まれし者には、いかなる庇護も与えられず。裁きの鉄槌は下り、世界の加護は失われん』
『現世のすべての領邦、騎士団、自警団、並びに正義を奉ずるすべての異邦者に命ず。これら【逆徒】を立ち止まらせることを許すな。命を脅かす無秩序なる不法者を討伐し、捕縛し、この大地より排除せよ』
『過ちを繰り返すなかれ。命を尊び、手仕事に汗し、土と共に生きる者のみが、この【神域】に留まる権利を得る』
『世界の宣言を、ここに結ぶ——』
ゴゴゴ……という地鳴りのような余韻を残し、金色の光粒子がゆったりと空へと溶けて消えていった。
静寂が、再び村を支配する。
吹き抜けた風が、凍てついた残雪の匂いを運んでくる。
「……半年前は異邦人の到来を告げる通達だったが、今回は奴らへの引導か」
見張り台から駆け下りてきた自警団長のバノックが、長弓を握りしめたまま、重々しい溜息とともに言葉を吐き出した。
「ああ」
グラック老人が大鎚を地面にどしんと突いた。
「自分勝手に山を荒らし、ケイルを死に追いやったあの罰当たりな野郎どもを『逆徒』と定めて叩き潰せという命だ。神の理も、見捨てるばかりじゃねえな」
頑固な農夫ヨハンが、地面に唾を吐き捨てて深く頷く。
「そうだ! 身勝手な道楽者どもは、とうとう世界そのものから見捨てられたんだ。自業自得だ!」
私は広場の全員の眼差しを見つめ返しながら、自分の防盾を構え直した。
半年前に彼ら異邦人を迎え入れた世界そのものが、今度は無法者たちの暴走を明確に断罪したのだ。
「ゲーム」という軽々しい枠組みを超え、命の不可逆性を背負って泥臭く生きる者だけが、この地に留まることを許される。
現実世界でノートを広げ、土作りの知識を仕込み、丸太を運んで防壁を築いてきた私の選択は、間違っていなかった。
手仕事の重みを知り、一回限りの命の重さを背負い、村人たちと共に生きる道こそが、この世界で私が生き抜くべき唯一の道だったのだ。
「ハル! マルタ! 自警団の巡回を二倍に増やすぞ!」
バノックが声を張り上げた。
「半年前と同じく、世界が動いた直後は何が起きるか分からん。天啓によって【逆徒】と定められた無法者どもは、追いつめられて狂乱し、この村へ逃げ込んでくる可能性もある!」
「おうよ!」
グラック老人が大鎚を構え、マルタが長弓の弦を鳴らす。
ヨハンやレン、エリス老女やミルカも、固い決意の眼差しで私とうなずき合った。
私は腰のナイフの柄を握り締め、真新しい木防盾を固く構え直した。
三月の風が、芽吹き始めた木の芽を揺らしていく。
半年前の降臨から続き、新たな理の刻まれた「神域の通達」を経て、村は悲しみを越え、無法者たちの脅威と向き合う「決戦と復興」の第三章へと、力強く歩み出していた。




