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第33話 春の息吹と誓い

二月の終わりを告げる冷たい風の中に、ふっと湿り気を帯びた土の匂いが混じり始めていた。


北の深山を覆っていた分厚い残雪が、わずかな日差しを受けて静かに解け出し、外堀の底へと糸のような細い水筋となって滴り落ちていく。

二重木柵の西端——あの惨劇の夜に破られた破口は、グラック老人の鉄具とヨハンが伐り出した太いナラの丸太によって、以前にも増して強固に塞ぎ直されていた。


「ハル! 腰を落とせ! 次が来るぞ!」


バノックの怒号が響く。


私はぬかるんだ泥を踏みしめ、全身の体重を乗せて左腕の木防盾を斜め上方へ突き出した。


ガシィンッ!!


バノックが繰り出した木槍の突きが、甲高い衝撃音とともに防盾の表面を激しく滑る。

ずしりと腕骨に響く重い衝撃。

だが、今の私はもう後ろへ吹き飛ばされはしない。泥を蹴った右足のかかとで地を噛み、体幹を絞り込んで衝撃を地面へとそのまま逃がしていた。


「——そこだ!」


反動を利用して上体を滑り込ませ、右手に握った木製ナイフをバノックの喉元数センチ下へと突き出す。


「……ほう」


バノックが槍を止め、汗に濡れた髭を揺らして薄く笑った。

脇で見守っていた女性猟師のマルタが、自らの長弓の端で地面をポンと叩く。


「前よりずっと足腰が据わってきたね、ハル。ナイフの刃筋もブレてない。泥を食いながら身体に叩き込んだ動きは、そう簡単には崩れないよ」


「……はぁ、はぁ……ありがとうございます、マルタさん、バノックさん」


私は荒い息を吐きながら、血と皮の擦り剥けた手袋越しに自分の拳を見つめた。


ケイルを失ってからの数週間。

毎朝の過酷な実戦訓練と、日中の防壁補強工事、そして夜警。

泥と血の匂いに塗れながら全身を追い込んできた手応えが、確かにこの身体に「生きるための牙」として刻まれ始めていた。

知識や手仕事だけでなく、自らの手で武器を取り、村人たちと肩を並べて前線に立つ戦士としての覚悟が、筋肉の強張りと共に定着しつつあった。


そこへ、広場の方から慌ただしい足音が近づいてきた。


「バノックさん! ハル! ルミナリアからの使者だ!」


息を切らせて走ってきたのは、傷が癒えた若者のレンだった。

その後ろから、馬に乗ったルミナリア領主府の使者と、二名の武装した騎士が重々しい装甲の音を立てて北口へと姿を現した。


領主の使者が馬上で羊皮紙の巻物を広げ、朗々とその内容を読み上げ始めた。


「——辺境の村の住民、並びに異邦の開拓者たちへ告ぐ! アークライト王国ルミナリア領主・エルハルト伯爵の名において通達する!」


使者の声に、作業を中断したグラック老人やヨハン、エリス老女やミルカたち村人がぞろぞろと集まってきた。


「直近の寒冷期において、北の深山および領内各地の開拓地において、爆破石を乱用し、無秩序に森林を伐採して生態系を荒らし回った無法者(ならずもの)の一群が存在する。彼らが解き放った山クマや小鬼の暴走により、多くの村々が甚大な被害を受け、貴き領民の命が失われた!」


使者は視線を落とし、刻印された朱色の蝋封を示した。


「これを鑑み、領主府はこれら自然の法規と村の秩序を乱す無法者を『逆徒』と断定。本日より領内全域において『無法者討伐の通達』を発布する! 他者の生活基盤を脅かし、爆破や略奪を繰り返す不法者に対しては、自警団および開拓者の武力行使による捕縛、ならびに討伐を正式に許可する。討伐・捕縛に応じた者には、領主府よりしかるべき懸賞金と資材の供給を約すものである!」


通達が読み上げられると、広場に静かな衝撃と、重々しいどよめきが広がった。


自分たちの身勝手な欲望で森を荒らし、ケイルの命を奪う原因を作った無法な外部プレイヤーたち。

この世界は彼らの暴走を放置せず、領主府の武力介入と「討伐対象」としての明確なペナルティを課すという意思を示したのだ。


「……討伐令、か」


木こりのヨハンが、手に持った大斧を強く握りしめながら呟いた。


「自分勝手に山を荒らしてケイルを殺した奴らが、今度は『追われる側』になるってわけだな。自業自得だ……!」


「ふん」


グラック老人が太い腕を組み、鼻を鳴らした。


「懸賞金なんぞどうでもいい。だが、もしあの連中がまたこの村の防壁を脅かそうと近づいてきたら……ワシらの打ち込んだ鉄杭と大鎚で叩き出してくれるわ!」


使者たちが通達の羊皮紙を村の集会場の掲示板に貼り付け、去っていくのを見送りながら、バノックが私の肩に太い手を乗せた。


「ハル。領主府が動いても、俺たちのやるべきことは変わらん。自分たちの村は、自分たちの手で守る」


「ええ……分かっています、バノックさん」


雪解けの水が、外堀の木杭を濡らしながら静かに流れていく。


使者の去った広場で、エリス老女とミルカが解体したクマの肉を削ぎ切り、塩漬けの樽へと丁寧に納めていた。

毛皮はグラック老人の手でなめされ、次の冬を防ぐための分厚い防寒衣へと姿を変えつつある。

ケイルが遺した命と、私たちが死闘の末に掴み取った恩恵が、確かにこの村の明日を繋ぐ糧となっていた。


私は破口を完全に塞ぎ終えた二重木柵の上に登り、北の森を見渡した。


残雪の梢の隙間から、ほんのりと膨らみ始めた木の芽が見える。

冬の過酷な寒波と悲劇を乗り越え、村はゆっくりと、だが確実に「春」を迎えようとしていた。


手仕事と知識。

泥に塗れて肉を喰らい、身につけた戦士としての牙。

そして、理不尽な無法者たちに屈せず、この土地で命を繋いでいく村人たちとの強い絆。


(ケイル……見張っていてくれ)


私は静かに胸の中で語りかけた。


お前が守ったこの村を、この仲間たちを、私は自らの手で守り抜く。

どんな災厄が押し寄せようと、どんな無法者が立ち塞がろうと、泥臭く、強く、人と共にここで生きていく。


湿り気を帯びた春の風が、見張り台の木組みを優しく揺らした。

第二章の過酷な冬が終わりを告げ、新たな命の息吹とともに、私たちの『神域』での戦いと暮らしは、次なる局面へと続いていく。

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