第32話 生きるための牙
ケイルを送り出した煙が晴れたあとも、村を包む風にはどこか鉄と血の臭いが混じり続けていた。
広場に置かれた大鍋からは、昨夜討ち取った山クマの肉と、塩漬けの干し野菜を煮込んだ湯気が猛々しく立ち上っている。
グラック老人が大切りにした肉塊は、硬く引き締まり、噛みしめるほどに野性味のある脂と濃密な血の旨味が口いっぱいに広がった。
「食え、ハル。身体を温めて、肉を身につけなきゃ鍛練もクソもねえぞ」
バノックが木製の大皿に盛り付けた肉を押し出してきた。
「いただきます……」
熱いスープを口にし、肉を噛みしめる。
昨夜、私たちの命を奪おうと襲いかかってきた化け物の肉だ。
その生命を体内に取り込み、明日の血肉へと変えていく手触り。奪い、奪われ、喰らい合うことの生々しさが、咽喉を下っていく肉塊の重みとなって腹の底へズシリと沈んだ。
「……それにしてもよ」
向かいに座っていた木こりのヨハンが、手に持った木の匙を固く握りしめ、地を這うような低い声を出した。
「なんで冬眠中の熊や小鬼どもが、揃いも揃って北の山から雪崩れ込んできたんだ? いくら二月の寒波が厳しかろうと、長年この森で生きてきた獣が、こんな無謀な南下をするはずがねえ」
ヨハンの言葉に、大鍋を囲んでいた村人たちの空気が一変した。
エリス老女の傍らで小さくなっていた薬草摘みの少女・ミルカが、おびえたように肩をすくめる。
「……あいつらだよ」
頭に傷帯を巻いたレンが、血走った目で北の深山を睨みつけた。
「南から入ってきた『異邦人』の連中だ! 少し前に、北の鉱脈を探すとか言ってたろ!? 奴らが大勢で奥の深山に入り込んで、爆破石を打ち鳴らし、森の樹を無造作になぎ倒したんだ! 冬眠の穴を掘り返されて狂乱した獣どもが、そのまま弾き出されてうちの村へ押し寄せてきたんだよ!」
「……許せん」
グラック老人が、肉を突いていたナイフを木箱の縁に深々と突き立てた。
木肌が肉薄な音を立てて裂ける。
「自分たちの欲のために森を荒らし回って、収穫だけ掠め取ったら、溢れ出た災厄は知らんぷりか! その煽りを食って、なんで真面目に畑を耕して生きようとしていたケイルが死ななきゃならんのだ! あの外道どもめ……!」
グラック老人の怒号が広場に響き渡った。
自警団長のバノックもまた、無言のまま手にした木杯を指の力だけで軋ませていた。
自分たちの都合で山を荒らし、命の軽重など省みずに去っていった者たち。
彼らが撒き散らした身勝手な破壊のしわ寄せが、この土地に根を張り、静かに生きようとしていた人々の命を惨酷に奪っていったのだ。
その不条理と怒りが、村人たちの顔に深く刻まれている。
「……異邦人の中には、この世界の営みを軽んじている者が確かにいます」
私は広場の全員の視線をしっかりと受け止めながら、口を開いた。
「ですが、二度とあんな連中の気まぐれに村を、皆さんの命を脅かさせはしません。だからこそ……私を鍛えてください。二重木柵の修復と補強だけでなく、私自身が凶獣や外敵を打ち払う牙になります」
バノックが低く息を吐き出し、力強く立ち上がった。
「いい度胸だ、ハル。……怒りに任せて壁を叩いてもケイルは戻らん。だが、その怒りを弓を引く腕に、槍を突く足腰に変えることはできる。行くぞ、今日からお前に『殺し合うための術』を仕込む」
村の広場の一角で、過酷な実戦訓練が始まった。
「構えが甘い! 腰が浮いているぞ、ハル!」
バノックの怒号とともに、しごかれた木槍の柄が私の左脇腹を強烈に打ち払った。
「ぐっ……!!」
泥と残雪が混ざり合った地面にしこたま打ちつけられ、呼吸が止まる。
肋骨が歪むような激痛が走り、泥水が口の中へと入ってきた。
頭の中でどれだけ理屈を捏ねようと、実戦の暴力の前では何の役にも立たない。
泥を噛み、体幹を意識し、相手の目線と肩の揺れから攻撃の軌道を物理的に見極めなければ、一撃で命を奪われる。
「立ち上がれ! 山クマの爪は木槍の三倍速い! 懐に入られたら、ナイフを逆手に持ち替えて下から突く! 上体で押すな、膝の跳ね返りを使え!」
指導にあたる女性猟師のマルタが、自らの狩猟弓の弦をギリギリと引き絞り、容赦なく寸止めで私の眉間を狙う。
「恐怖で目を背けるな! 狙撃手を見るんじゃない、矢の飛んでくる『道』を見るんだ!」
「はぁ……はぁ……っ!!」
全身の筋肉が断裂しそうなほど悲鳴を上げ、手袋の中の皮が破れて血が滲む。
何度も泥まみれになりながら、私はバノックの突きを木防盾で受け止め、泥を蹴って前に出た。
ガシィン!!
激しい木撃音が響く。
完璧には防ぎきれず、腕の骨にジンジンとした痺れが残ったが、今度は倒れずに踏みとどまることができた。
「……ふん。筋は悪くない」
マルタが弓を収め、汗を拭いながら薄く口元を緩めた。
「本で得た知恵だけかと思ってたが、泥を食うことを恐れない男の顔になってきたね」
「ハル、これからは防壁の補強工事と並行して、毎朝この訓練を行う」
バノックが冷えた水筒を投げ渡してきた。受け取った手首が、疲労でガタガタと震えている。
「春が来れば、雪が解けて森の奥からさらに狂暴な連中が降りてくるかもしれん。……南の異邦人どもが何を撒き散らそうが、俺たちの村を踏み荒らさせはせん。ハル、お前のその手を、村を守る頑丈な『鉄の牙』に仕立て上げてやる」
「はい……! よろしくお願いします、バノックさん!」
冷たい水を喉に流し込むと、荒くなった呼吸とともに、身体の奥底から力強い熱が湧き上がってくるのを感じた。
泥臭い手仕事と知識。そして、自らの身体を血と汗で鍛え上げる実戦の力。
その両方を手に入れた時、私は初めてこの過疎村の真の「開拓者」となり、大切な人々を守り抜くことができる。
立ち上るクマの肉の湯気の向こうで、ヨハンとグラック老人が怒りを力に変えるように、破口した防壁へ新しい巨大な丸太を打ち込み始めていた。
二月の冷たい風が吹き抜ける中、過疎村は失った悲しみと怒りを抱きしめ、より強く、より泥臭く、春の足音に向けて歩み出していた。




