第31話 葬送の煙
防衛戦が明けた翌朝、北の空はどこまでも透き通るような薄青色に晴れ渡っていた。
降り積もった薄雪は朝日に照らされて眩しく輝き、昨夜の激闘が嘘であったかのような静けさが村を包んでいる。
だが、北口の防壁の足元に刻まれた無数の爪痕と、二重柵の破口を覆う真新しい血液の痕、そして村外れの小高い丘から立ち上る一本の細い煙が、昨夜の凄惨な激闘の痕跡と失われたものの大きさを残酷なまでに物語っていた。
冷え切ったぼろ屋を出た私は、足重く村外れの小高い丘へと向かった。
丘の上には、泥と血で汚れた作業着を着た村人たちが集まっていた。
木こりのヨハン、大工・鍛冶屋のグラック老人、薬草摘みのエリス老女と孫娘のミルカ。そして、バノックに次ぐ射撃の名手である女性猟師のマルタや、頭に傷帯を巻いた若者のレンの姿もあった。
中央には、過疎村の古い風習に従い、乾燥させた薪と香木を組み上げて作られた火葬の煙床が置かれていた。
その上に横たえられているのは、昨夜、エリス老女とミルカを守るためにその身を投げ出した自警団の青年——ケイルだった。
生前に彼が愛用していた粗末な革鎧と、穂先の折れた槍が胸元にそっと抱かされている。
安らかな眠りについたかのようなケイルの横顔は、昨夜まで見張りの交代時に「ハルさん、寒いですね」と気さくに笑いかけていた素朴な青年の顔そのものだった。
「ハル……来たか」
自警団長のバノックが、ゆっくりと振り返った。
その目は赤く腫れ上がり、昨夜から一言も眠っていないことが一目で解るほど疲憊していた。
「……ケイルはな、ハル。この村で一番怖がりな奴だったんだ」
バノックは手にした松明の炎を見つめたまま、絞り出すような低い声で語り始めた。
「夜番の時も、風が木々を揺らす音だけでビクビクしててな……。それなのに、最後の最後に、あんな無茶をしやがって……!」
バノックの喉が、くっ、と詰まる。
「ハルさん」
女性猟師のマルタが、自らの長弓を固く握りしめながら口を開いた。
「ケイルが体を張らなきゃ、破口から雪崩れ込んだクマに全員やられてた。あいつの命懸けの足止めがあったからこそ、ハルが懐に飛び込んでナイフを刺し、バノックとグラックで息の根を止められたんだ。……あいつと、あたしたち全員で、あの恐ろしい化け物を打ち倒したんだよ」
「……ああ。そうだ、マルタ」
バノックが静かに松明の火を薪の底へと差し入れた。
パチパチ……と薪がはぜる音が響き、乾燥した香木に火が燃え移る。やがて太い一筋の白い煙が、青澄んだ冬の空へと真っ直ぐに立ち上り始めた。
エリス老女とミルカが、涙を拭いながら静かな賛美歌を歌い始める。
死者の魂を北の星へと送る歌声が、冬の風と重なり合っていた。
火葬の煙床のすぐ傍らには、昨夜みんなで死力を尽くして討ち取った、巨大な山クマの解体作業の痕跡があった。
グラック老人とヨハンが夜を徹して皮を剥ぎ、肉を削ぎ切り、骨と脂を切り分けたものだ。
「ハル、見ろ」
頑固な農夫ヨハンが、血のついた大鍋と、厚く塩漬けにされた大量の肉塊を指し示した。
「このクマの肉があれば、村全員が残りの冬を越せるだけの蓄えになる。厚い毛皮は次の冬の防寒着になり、削り出した骨は頑丈な道具の柄や矢の鏃に使える。……脂は、夜警の灯火を灯す油になるんだ」
グラック老人が大鎚を地面に突き立て、低く深みのある声で言った。
「わしらを死に追いやろうとした化け物だったが、倒した以上は貴重な恵みだ。ケイルが命を懸けて守り、みんなの手で倒したこの命に……感謝して頂く。これが、この土地で生きるってことだ」
血と塩で揉まれた極上の毛皮と、山盛りの肉。
昨夜の死闘の末に勝ち取った恩恵が、そこには確かに存在していた。
ただ悲劇に打ちひしがれるだけではない。押し寄せる脅威と戦い、自分たちの手で勝利を掴み取り、その恵みを力に変えて明日を生き抜く。
荒涼とした過疎村の人々の、力強くたくましい生の営みがそこにあった。
立ち上るケイルの煙と、解体されたクマの恵みを見つめながら、私の胸の奥に熱い塊が込み上げてきた。
——スローライフという甘えは、もう捨てる。
今日まで、私はどこかでこの世界を手探りの「知識と作業」の延長として捉えていた。
現実世界で仕入れた知識で防壁を修復し、畑を耕す。その「手仕事」だけで平和に暮らせると思い込んでいたのだ。
だが、違った。
押し寄せる脅威から命と恩恵を守り抜くためには、指示を出すだけの安全な存在でいてはダメだ。
私自身が武器を握り、村人たちと共に前線に立ち、敵を討ち倒せる「戦士」にならなければならない。
私は固く拳を握りしめ、バノックとマルタの前に歩み出た。
「バノックさん、マルタさん。私に……武器の扱い方と、狩りの戦い方を叩き込んでください」
ふたりが驚きに目を細める。
「ハル……? お前は土木や開拓の知識を出してくれれば十分だ。戦うのは自警団の仕事で——」
「いいえ! 昨夜、私はケイルさんが命を懸けて戦っている時、知識があっても自分の力で彼を助け出すことができなかった。壁を作るだけじゃダメなんです。私自身が戦って勝てる力を身につけなければ、大切な人も、掴み取った恵みも守れません」
私の固い言葉に、静寂が広がった。
女性猟師のマルタが、ふっと口元に力強い笑みを浮かべた。
「いい覚悟だ、ハル。本気なら容赦しないよ。弓も槍も、身体に血と泥を染み込ませて覚えるんだ。あたしたちと一緒に、どんな獲物も返り討ちにしてやろう」
バノックもまた、深々と首を縦に振り、力強く私の肩を叩いた。
「分かった、ハル。今日からお前を自警団の正式な一員として鍛え上げる。……倒した獣の肉を食い、力をつけろ。二度と仲間を死なせず、すべてを勝利で護り抜くために!」
風が吹き抜け、ケイルの火葬の煙を空の彼方へと運び去っていく。
悲しみを乗り越え、勝利の恩恵に感謝し、明日を生きるための力に変える。
手のひらに残る重いタコと命の温もりを噛み締めながら、私は村の復興と、戦士としての過酷な一歩を力強く踏み出した。




