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第29話 失われた命

鳴り響く警鐘と、夜の静寂を破る叫び声。

北の二重木柵の攻防は、一時間を超えて泥沼の死闘と化していた。


私たちが泥まみれになりながら掘り抜いた外堀と、そこに埋め込んだ無数の「逆茂木」、そして斜め四十五度に組んだ筋かいの補強構造は、狂乱した山クマや野猪の強烈な突撃をしっかりと受け止めていた。


しかし、背後の猛威に押し出されるように雪原を埋め尽くす小鬼(ゴブリン)の数は、私たちの予想を遥かに超えていた。


「ハル! 柵の第二区画、丸太の継ぎ目に小鬼どもが群がってる! 横から取り付かれるぞ!」


見張り台の頂上から、ケイルの切迫した叫びが飛ぶ。

矢を放ち続けているケイルの肩は疲労で激しく上下し、息は白く乱れていた。


「ヨハンさん、グラックさん! 第二区画の控え柱へ回ってください! 柵を内側から支えます!」


「おうよ! ハル、お前さんは外堀の縁を踏み外すなよ!」


農夫のヨハンが、かつて土木作業で鍛え上げた太い腕で木斧を握り直し、鍛冶屋のグラック老人と共に柵の補強部へとなだれ込む。

バノックの射つ長弓の弦音が夜気をつんざき、防壁にすがりつく小鬼の胸を正確に穿つ。


私が木製防盾を構え、柵の隙間から突き出される石斧を必死に弾き返していた、その時だった。


防壁の西端、まだ補強金具の打ち込みが完全に終わっていなかった「旧外柵の角」から、メリメリと嫌な破砕音が響いた。


「——なっ!?」


冬眠を叩き起こされ、傷つき、狂気に陥った巨大な山クマの一頭が、血走った目で斜面を強引に駆け登り、外堀の縁を跳び越えて二重柵の角へその巨体を叩きつけたのだ。


ドガァン!!


金具の補強が甘かった角の主杭が、悲鳴を上げて内側へと折れ曲がる。

壊れた木柵の隙間から、大量の雪と、狂乱した山クマ、そしてそれに乗じた数頭の小鬼たちが、村の内側へと雪崩れ込んできた。


「しまっ——! 突破された!!」


バノックが顔を蒼白にして叫ぶ。


突破された破口のすぐ先には、防衛戦の最前線に温かいスープと濡れ雑巾を運び、怪我人の手当てに当たっていたエリス老女と、その孫娘である薬草摘みの少女・ミルカ、そして村の若者レンがいた。


「エリスさん! ミルカ! 下がれ!!」


レンが叫び、手に持った松明を振りかざして山クマの前に立ちはだかる。

しかし、興奮し切った巨体は松明の火すら恐れず、丸太のような太い前脚を振り下ろした。


バゴォンッ!


「がはっ……!?」


レンの構えた木防盾が一撃で粉砕され、彼の身体が雪原へと吹き飛ばされる。

地面に叩きつけられたレンは、血を吐きながら動かなくなった。


「レン!!」


私は二重柵の通路を飛び出し、破口へと向かって全力で足をもつれさせながら駆け出した。

だが、狂乱したクマの咆哮が響き、その血走った眼光が捉えたのは、腰を抜かして動けなくなった少女ミルカと、彼女を庇うようにその前に覆いかぶさったエリス老女の姿だった。


「ミルカ、逃げなさい……!」


「おばあちゃん! いや、いやぁああっ!」


クマが巨大な前脚を大きく振りかざす。

爪が冷たく光る。間に合わない——私の叫びが喉でつかえた、その瞬間。


「やめろぉぉぉっ!!」


悲鳴のような叫びと共に、見張り台の梯子を飛び降りた影がひとつ、二人の前に滑り込んできた。


自警団の若い見張り役——ケイルだった。


ケイルは手にしていた一本の槍を、無謀にも山クマの首筋へと突き立てた。

浅く刺さった槍の痛みに、クマの太い腕が二人を逸れ、ケイルへと向く。


「ケイル! 下がるんだ!!」


私は左腕の防盾を掲げ、少しでもクマの気を引こうと雪を蹴って割り込もうとした。

しかし、ケイルは逃げなかった。

自分が一歩でも退けば、後ろにいるエリスさんとミルカが押し潰されることを、彼は理解していたのだ。


「ここから……先へは……通さねえ!!」


歯を食いしばり、足を踏ん張るケイル。

次の瞬間、クマの巨大な前脚が横なぎに振るわれた。


ドグシャァッ!!


私の目の前数メートルの位置で、生身の人間が、圧倒的な暴力によって打ち砕かれる凄惨な破壊音が響いた。


防盾を構えて割り込もうとした私の視界を、弾き飛んだケイルの身体が掠めていく。

ケイルはまるで糸の切れた人形のように宙を舞い、十メートル先の二重木柵の丸太へと激しく強打された。


ズシン……。


雪の上に落ちたケイルの体は、奇妙な角度に折れ曲がり、ぴくりとも動かない。

胸からは赤い血が溢れ出し、白く凍てついた雪原を瞬く間に真っ赤に染め上げていく。


「ケイルゥゥゥッ!!」


私の叫びと、ヨハン、グラック老人の怒号が重なった。


視界が真っ赤に染まるような感情の中、私はそのまま狂乱する山クマの懐へと飛び込んだ。

クマが振り返りざまに放った爪が私の防盾を削り、腕に激痛が走るが、構わず前傾姿勢のまま上体を滑り込ませる。

腰のナイフを逆手に握り直し、全身の体重と背筋の力をすべて乗せて、クマの柔らかい喉元へ刃を深く突き立てた。


グガアアアァァッ!!


暴れるクマの巨体を、上空から駆けつけたバノックの矢が目の隙間を射抜き、グラック老人の大鎚がその脳天を粉砕した。

巨木が倒れるような音を立てて山クマが崩れ落ち、残った小鬼たちも、村人たちの憤怒の猛攻の前にことごとく討ち果たされていった。


防衛線に、不気味な沈黙が戻ってきた。


だが、誰も歓声を上げなかった。


私は荒い息を吐きながら、ナイフを握りしめたまま雪の上に横たわるケイルのもとへ膝から崩れ落ちるように駆け寄った。

エリス老女が、震える手でケイルの頭を抱きかかえている。


「ケイル……! ケイル、しっかりしなさい! ケイル!」


ミルカが号泣しながら、彼の破れた衣服の上から血を止めようと、必死に布を押し当てる。


「ケイルさん! 目を開けてください! ケイルさん!」


私も膝をつき、彼の胸元に素手を当てた。

冷たくなっていく皮膚。手袋を外した掌越しに伝わってくるのは、徐々に小さく、弱くなっていく鼓動の感触だった。


どこを見回しても、「死亡通知」や「リスポーン」を示すシステム表示など一切浮かび上がらない。

目の前に存在するのは、ただ血の匂いと、急速に生命の温もりが失われていく、生身の少年の肉体だけだった。


「ケイル……頼む、息をしてくれ……!」


バノックが膝をつき、無骨な手でケイルの手を強く握りしめた。

その強面の自警団長の目から、大粒の涙がぼろぼろと溢れ落ち、血に染まった雪へと落ちていく。


「俺が……俺が見張り台から降ろさなければ……! すまない、ケイル……すまない……!」


ケイルの瞼が、かすかに震えた。

血の泡を唇からこぼしながら、彼は濁っていく瞳で、自分を抱きかかえてくれているエリス老女とミルカ、そして私の顔を見つめた。


「……えりす……さん……。みるか……無事……か……?」


「無事だよ! あんたが守ってくれたんだよ! だから、もう喋っちゃダメだ、ケイル!」


エリス老女の号泣が夜空に響く。

ケイルは、かすかに安心したような、幼い笑みを口元に浮かべた。


そして——彼の胸の上下が、静かに止まった。


私とバノックが触れていたケイルの手から、すっと力が抜ける。

目を見開いたまま、動かなくなったケイルの瞳には、二度と光が宿ることはなかった。


「あああああぁぁぁぁっっ!!」


意識を取り戻したレンが抱きつき、ミルカが顔を伏せて号泣する。

頑固な農夫ヨハンは、歯が折れるほど強く噛み締めながら、夜空に向かって拳を突き上げて絞り出すような声を漏らした。


私は、自分の血と泥に汚れた手を見つめたまま、金縛りに遭ったように動けずにいた。


——この世界には、二度目がない。


ログアウトすれば現実へ戻れる私たち(プレイヤー)とは違う。

この世界で生まれ、この土を耕し、家族を愛して生きてきた現地の人々(NPC)にとって、死とは絶対的で、二度と取り戻せない「不可逆の終わり」なのだ。


あたたかかったケイルの手足が、冬の冷気によって急速に冷えていく。

彼が最後に遺した体温と、残された人々の生々しい号泣が、私の胸を鋭く抉り抜いていた。


本当に、これはただの仮想空間(ゲーム)なのか?


命の重さ、失われた痛みの深さが、あまりにも生々しすぎた。

私は雪の上に横たわるケイルの亡骸の前で深々と頭を下げ、固く拳を握りしめながら、溢れ出る感情をただ静かに噛み締めていた。

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