第28話 鳴り響く警鐘
二月の最後の夜は、雲が低く垂れ込め、月明かりすら届かない深い闇に包まれていた。
昼間のぬるい湿気は影を潜め、漆黒の空から再び細かな氷の粒が舞い降り始めている。
ぼろ屋の暖炉の火を小さく落とし、私は毛皮の防寒着を固く締め直して外へと出た。
今夜は、完成した見張り台を運用する初めての夜警だった。
村の北口へ向かうと、新設された二重の木柵の足元で、自警団のバノックと若手のケイル、そして最古参の農夫であるヨハンが松明の火を囲んで待っていた。
三人の白い息が、夜の闇に淡く浮かんでは消えていく。
「ハル、時間通りだな」
バノックが手にした長弓の弦の張りを確かめながら、低く重い声で言った。
その腰には磨き抜かれた狩猟斧が下げられ、目元には熟練の猟師特有の鋭い警戒心が宿っている。
「はい、バノックさん。引き継ぎに来ました」
「よし。今夜からは三人一組の交代制だ。俺とケイル、そしてハルが最初の見張り班だ。ヨハンは一度引き揚げて、一刻あとに替わりとして来てくれ」
「ふん……」
頑固な面持ちのヨハンが、手に持った太い薪をくべながら低く鼻を鳴らした。
かつて村の開拓の失敗を知り、新しい試みには常に「無駄だ」と諦めを見せていたヨハンだったが、防壁の土木工事でハルが泥まみれになって石を運ぶ姿を見て以来、無言で作業に加わるようになっていた。
「ハル、無茶はいかんぞ。わしらが昔建てた柵とは比べものにならんほど頑丈だが……自然の牙ってのは、人間の都合なんぞ待っちゃくれん」
「分かっています、ヨハンさん。気をつけて見張ります」
ヨハンが短く頷いて闇の奥へ引き揚げていくと、バノックが見張り台の梯子へと手をかけた。
「ケイル、お前は見張り台の上だ。矢筒を三つ持て。ハルは二重木柵の狭い通路から外堀の逆茂木を注視しろ。俺は土手の上で弓を構える。何があっても三人で連絡を取り合うぞ」
「は、はい! 任せてください、バノックさん!」
自警団の若い見張り役であるケイルは、レンの幼馴染だ。少し臆病なところがあるが、真面目で視力は村一番に鋭い。
ケイルは矢筒を背負い、五メートルの櫓の上へと素早く登っていった。
私はランタンの火を小さく絞り、二重木柵の通路へと歩みを進めた。
ザッ、ザッ、と積もった薄雪を踏みしめる自分の足音だけが静寂に響く。
グラック老人が鍛冶場で叩き上げた鉄金具の冷たい質感を確かめ、土の中に深く穿たれた主杭を一本ずつ押してみる。
ぐらつきはない。
手作業で組み上げた控え柱の構造は、夜の強風を受けてもビクともせず、確かな手触りで村を護っていた。
だが——巡回を始めて一時間が過ぎた頃だった。
風向きが静かに変わった。
北の深山から吹き下ろす冷気が、微かな「焦げた煤の匂い」と、濡れた毛皮の獣臭を運んできた。
私は立ち止まり、ランタンの火を覆い隠して息を殺した。
……静かすぎる。
いつもなら風にそよぐ梢の擦れ合う音や、夜行性の小動物が雪を蹴る音が聞こえるはずの森が、死んだように静まり返っている。
その沈黙を切り裂くように、頭上高くから裏返った叫び声が響き渡った。
「バノックさん! ハルさん! 森の奥から……何か来る!!」
見張り台の上のケイルだ。
「谷筋の樹木が倒れてます! 一頭や二頭じゃない……群れだ! 小鬼と、でかい山クマも混ざってる!」
ケイルの悲痛な叫びが終わるか終わらないかのうちに、櫓の頂上に吊るされた青銅の鐘が乱打された。
カン! カン! カン! カン!
夜の静寂を切り裂いて村中に鳴り響く、不吉な警鐘。
次の瞬間、北の森の闇から、地鳴りのような重低音が響き渡った。
ズズズ……と地面を揺らす足音。
無謀な開拓に追われ、狂乱した野生動物と小鬼たちの集団が、雪を押し分けて怒涛の勢いで押し寄せてくる。
「ケイル、鐘を鳴らし続けろ! ハル、外堀の縁へ! 突撃を受け止めるぞ!」
バノックの叫びとともに、見張り台から弓の弦音が弾けた。
ヒュン! ガツッ!
闇を切り裂いた一矢が、先頭の小鬼の胸を貫き、雪原へと転倒させる。
だが、異変によって追いつめられた群れの勢いは止まらない。
目を血走らせた巨大な山クマと数頭の野猪が、第一陣として二重木柵の手前の外堀へと猛スピードで突っ込んできた。
ドガァン!!
凄まじい衝撃音が響き渡る。
しかし、クマの巨体は外堀の縁を踏み外すと、そのまま堀の底へと滑り落ちた。
グギャアアアッ!
痛切な悲鳴が夜の空気を引き裂く。
堀の底に斜めに敷き詰められていた無数の逆茂木が、クマの自重と突撃の勢いを完全に受け止め、その肉体を深く貫いたのだ。
堀が突撃の第一波を止めた。
泥まみれになって掘り抜いた外堀と杭の陣地が、見事に機能を果たした瞬間だった。
「ひぃっ……効いてる! 外堀で止まったぞ!」
見張り台の上で、ケイルが震える手で二本目の矢を番えながら叫ぶ。
「油断するな、ケイル! 小鬼どもが堀の縁を迂回して木柵に手をかけている! 狙撃しろ!」
バノックの怒号が飛ぶ。
堀を潜り抜けてきた小鬼たちが、手にした石斧や棍棒を叩きつけ、二重木柵へと群がってきた。
ドシン! ドシン!
木肌が激しく軋み、メリメリと悲鳴を上げる。
普通なら一瞬で押し倒される猛烈な質量と圧力。
だが、私とグラック老人が斜め四十 h五度に組み込み、鉄金具で土中に固定した控え柱が、衝撃をそのまま地面へと逃がしていた。
木柵は撓みながらも、決して倒れない。
「ハル! ケイル! 持ちこたえろ!」
背後から、松明と鉄槌を手にしたグラック老人と、木斧を持ったレン、そして斧を抱えたヨハンたちが雪を蹴って駆けつけてきた。
「ヨハンさん! グラックさん!」
「ふん、見張り台の鐘が聞こえて黙っていられるかよ!」
頑固な農夫ヨハンが、かつて開拓で培った腕力を込めて、柵の隙間から突き出してきた小鬼の石斧を木斧で強烈に弾き返した。
「ハル! お前さんの作ったこの柵、びくともせんぞ! 昔の脆い柵とは大違いだ!」
「ヨハンさん、油断は禁物です! 二重柵の隙間に入り込んだ奴らを撃退します!」
「おうよ!」
グラック老人の大鎚が唸りを上げ、ケイルが櫓から正確に狙撃を重ね、ヨハンとバノック、レンが前線を維持する。
二月の冷たい氷雪が吹きすさぶ中、私たちは自分たちの手で作り上げた「守りの要」に背を預け、過疎村の絆と手仕事を懸けた、最初にして最大の死闘へと足を踏み入れていた。




