第27話 守りの要
二月の終わりを告げる風は、わずかに角が取れ、ぬるい湿り気を帯び始めていた。
だが、北の深山から漂ってくる異様な沈黙は、むしろ日を追うごとにその密度を増していた。
無謀な開拓によって冬眠の穴を掘り返され、凶暴化した野生動物や小鬼の残党が、解けかけた残雪を押し分けていつ南下してきてもおかしくない。
補強された二重の木柵と外堀の前に立ち、私は今朝も北の森を見つめていた。
頭の中に浮かぶのは、ログインする前に現実世界で熱心に目を通してきた、古い山城の防衛構造や野戦陣地の図解だ。
——いくら二重の壁と堀を作っても、敵の接近をいち早く察知し、夜間の死角を潰す「目」がなければ、防壁はただの木くずと化す。
「ハル! 頼まれてた丸太と太い麻縄、運んできたぞ!」
レンが泥のついた作業着のまま、肩に太い角材を担いで駆け寄ってきた。
その背後には、大鎚と鉄釘の入った袋を提げたグラック老人と、長弓を肩にかけたバノックの姿もある。
「ハル、今日で防衛工事の仕上げだな」
バノックが引き締まった顔で立ち止まり、北側の森を見据えた。
「ああ。見張り台の設置と、外堀の底への『逆茂木』の配置、そして夜番の巡回ルートの再構築だ。これで村の防衛線は完成する」
「よし。ハル、どう組むのが良いと思う?」
私は雪の上に落ちていた枝を拾い、地面に簡単な線を描いた。
「単なる梯子付きの足場じゃなく、三本の太い丸太を組んだ、三脚構造の櫓にしようと思います。高さは五メートル。これ以上高いと冬の強い吹き降ろしで揺れて弓が難しくなりますし、低いと森の視界が遮られます」
「ふむ……五メートルか。ちょうど梢の並びを越えて、北の谷筋まで見通せる高さだな」
グラック老人が雪の上の図面を覗き込み、眉をひそめながらも深く首を頷かせた。
「筋かいの角度も悪くない。金具の接合部に少しあそびを持たせておけば、風のしなりを逃がせる。よし、ワシが鉄具の仕込みを打ってやる。小僧、丸太の長さを揃えてノコを入れろ!」
「はい、グラックさん!」
作業が始まった。
五メートルの丸太を三本組み合わせて交差させ、頂部を太い麻縄で幾重にも縛り上げる。
現実で予習してきたロープの結び方を思い出しながら手袋越しに縄を締め上げていくが、そう簡単にはいかない。一度目はグラック老人に「甘い! そんな縛り方じゃ大風一発で崩れるわ!」と叱られ、解いて結び直すハメになった。
汗が額を伝い、冷たい冬風にさらされて目元がシパシパと痛む。
手先のタコが擦れ、腕の筋肉が重く強張る。
頭の中の知識を、この手足で泥と汗に塗れながら一つひとつ形にしていく。
「グラックさん、これでどうでしょうか……!」
「……ふん。今度はしっかり締まったな。よし、足を広げて地穴に据えるぞ! バノック、引き上げの手を貸せ!」
「おう!」
掛け声とともに、太い三本足の丸太がゆっくりと起き上がる。
バノックの力強い引き上げと、レンの踏ん張り、そして私の押し支えが一つになり、ずしりと重い手応えとともに、見張り台の骨組みが北口の土手の上に突き立った。
接地面の穴に大石を詰め込み、グラック老人の打った鉄杭でしっかりと根元を固定する。
踏み板となる割板を数枚打ち付け、強固な手すりを巡らせると、かつての過疎村には存在しなかった「守りの要」が姿を現した。
「すごい……! 本当に見張り台ができちゃったよ!」
レンが歓声を上げ、素早く梯子を駆け上っていった。
櫓の頂上から北の森を見渡したレンが、興奮気味に手を振る。
「ハル! バノックさん! すげえよ! 森の奥の谷筋まで丸見えだ! これなら、遠くから獣が近づいてきてもすぐに解るよ!」
「よし、降りてこいレン。次は外堀の底だ」
バノックが声を張り上げ、私たちの視線は二重木柵の手前に掘り抜いた外堀へと向けられた。
堀の底には、グラック老人が鍛冶場で先端を鋭利に削り上げた、無数の「逆茂木(先端を尖らせた木杭)」を斜めに突き立てて埋め込んでいく。
もし小鬼や狂暴化した獣が外柵を突破して堀へ飛び込んでも、この鋭い木杭の群れが突撃の勢いを完全に殺す仕組みだ。
「ハル」
作業の合間、掘り起こした土の山に腰を下ろして冷えた水を飲んでいると、バノックが歩み寄ってきた。
「見張り台だけじゃねえ。夜間の見張り体制も、お前が提案してくれた『二時間交代の三人組』で回すことに決めたぞ」
「……三人組みで大丈夫そうですか? 村の人数を考えると、負担が大きすぎるかとも思ったのですが」
「いや、三人で正解だ。二人だと一人が寝落ちしたり、怪しい音を聞き逃した時に確認が遅れる。三人なら、一人が知らせに走り、一人が弓を構え、一人が合図の鐘を鳴らせる。理にかなっている」
バノックが無骨な手で私の肩を力強く叩いた。
「この村は長年、ただ過去の悲劇に怯えて、死を待つように佇んでいた。……だが、お前が来てから変わった。水路が繋がり、畑に芽が吹き、そして今、自分たちの手で防壁と見張り台を作り上げた」
「バノックさん……」
「今夜から、俺が最初の夜番に立つ。この村は、もう二度と誰にも踏み躙らせん」
その言葉には、かつて諦めに支配されていた過疎村の自警団長としての顔ではなく、この土地と家族を守り抜く「一人の生きる男」の強い誇りが宿っていた。
日没が近づき、西の空が深く濃い茜色へと染まっていく。
完成した防壁の上に登り、風を受ける。
手作業で打ち込んだ筋かいの木柵、堀の底に並ぶ尖った杭、そして高く聳え立つ見張り台。
そのすべてが、私たちが流した汗と、手探りで重ねてきた工夫の結晶だった。
ふと見下ろすと、広場の向こうでエリス老女や村の子供たちが、温かな夕食の準備をしながらこちらへ手を振っているのが見えた。
掌に残る皮の強張りと、体の底から込み上げる心地よい疲労感。
泥臭く、命の肌触りを噛み締めながら守り抜くべき「生の営み」が、確かに目の前に広がっていた。
北の森から吹き抜ける風が、見張り台の木組みをヒュウと鳴らす。
災厄の足音は、確実に近づいているのかもしれない。
しかし、私たちの胸にあるのは怯えではなく、泥臭く仲間とともに迎え撃つための、強固で静かな覚悟だった。




