第26話 絆の陣形
寒の底を越え、二月の終わりが見え始めても、過疎村を取り巻く空気は依然として緊張に満ちていた。
森の深部から逃げ出してきた冬眠中の野生動物や小鬼たちの騒動から、数日が経過していた。
北の森林から漂ってくる不気味な静寂と、微かに風に乗る焦げた煤の匂いは、災厄の波が一度きりでは終わらないことを無言のうちに告げている。
朝一番、冷気に白く息を吐き出しながらぼろ屋を出た私は、防寒着のポケットの中に忍ばせた一冊の小さな羊革のノートの感触を確かめた。
——このノートには、昨夜ログアウトしている間、現実世界の自室で徹夜気味に調べ上げた知恵が詰まっている。
現実のインターネットや電子図書館のアーカイブを漁り、『伝統木造建築の基礎』や『中世山城の土木防衛図鑑』といった専門書のページをめくり、手書きで図面や寸法の計算を書き写してきたのだ。
画面上のコマンド一つで頑丈な防壁が建つような都合の良いシステムなど存在しないこの世界で、生身の人間として村を守るには、こうして泥臭く知識を頭に叩き込んで臨む以外に道はない。
村の北口の境界線へ向かうと、そこにはすでに自警団のバノックと、木斧を手にしたレン、そして大鎚を肩に担いだグラック老人が顔を揃えていた。
「ハル、来たか」
バノックが手招きし、足元に広がる泥と雪の混ざり合った地面を顎でしゃくった。
「今日から村の防壁強化に取りかかる。春になって雪が本格的に解ければ、森を追い出された害獣や肉食獣の残党が、この過疎村を狙って南下してくるのは確実だ」
「はい。外堀の掘り直しと、木柵の二重化ですね」
私はノートを取り出し、昨日現実で頭に叩き込んできた「筋かい(控え柱)構造」の図解と数値を、雪の上に木の枝で慎重に書き描いて見せた。
本で読んだだけの知識をそのままぶつけるのではなく、村の現実に合わせて応用できるか、手探りで確かめながら言葉を紡ぐ。
「バノックさん……丸太を単に垂直に埋めるだけでは、大型獣の突撃を受けた時に根元から折れる危険があります。本で読んだ土木技術の受け売りですが、垂直の主杭の背後に、四十五度の角度で『斜め材(控え柱)』を噛ませてはどうでしょうか。接地部分には大きな石を敷き詰めて基礎を固めます」
バノックが眉をひそめ、雪の上の図面を覗き込んだ。
「ほう……倒れ込もうとする衝撃を、斜めの木と土の中の石へ逃がすわけか。……ハル、お前はどこでそんな専門的な木工の構造を仕込んできたんだ?」
「……昔、古い本を読んで独学でメモしておいた知識です。理屈はこうですが、実際の施工は皆さんのお知恵を借りないと上手くいきません」
「フン、謙遜するな」
傍らで大鎚を担いでいたグラック老人が、頑丈な鉄金具の詰まった木箱を足で突いた。
「理屈が通っておる。ワシが炉で打ってきたこの鉄製L字金具と引き抜き防止の鉄杭を使えば、その斜め材をガッチリ固定できるはずだ」
作業はすぐに始まった。
表土は凍結して硬化しているため、鉄くわを叩き込んでもガツンと手首が痺れるだけで一向に進まない。
私はノートにメモした「凍土の切り崩し手順」を思い出し、まずグラック老人の打った鉄コテで目地を入れ、割れ目を作ってからスコップを突き立てた。
少しずつ、泥と氷の混ざった土が削れていく。
万能とは程遠い、一歩一歩の地道な試行錯誤。
角度の計算がズレて控え柱が噛み合わなくなれば、グラック老人に「バカ者、ノコギリの入れ方が浅いわ!」と怒鳴られながら、何度も木肌を削り直して微調整を繰り返した。
「ハル! こっちの溝の深さ、これで大丈夫か!?」
「レンさん、もう少し深く掘らないと石床が安定しません! ノートの寸法だと、大人の肘の高さまで下げる必要があります!」
「了解! よし、もういっちょ掘るぞ!」
汗が吹き出し、それが直後に冬の冷たい風で冷やされていく。
腕の筋肉がパンパンに張り、腰に鈍い痛みが走る。
現実で図面を読み込んできたとはいえ、実際にこの重い丸太を持ち上げ、冷えた土を掘り進める肉体労働の重みは、私の予想を遥かに超えていた。
だが、私一人では絶対に完成させられない構造物が、バノックの力強い丸太運びと、グラック老人の正確無比な鉄杭打ち、そしてレンの泥だらけの奮闘によって、一歩ずつ確かな形となって組み上がっていく。
昼過ぎには、エリス老女をはじめとする村の女性たちが、温かいスープの入った大きな鍋を持ってやってきた。
「みんな、寒い中本当にお疲れ様だねぇ」
土手に腰を下ろし、湯気の立つ木コップを受け取る。
干し肉の旨味が染み出たスープを口に含みながら、私は完成しつつある防壁の横顔を見上げた。
「ハル」
バノックが無骨な手で自分のノート(羊皮紙のメモ)を丸めてポケットに仕舞う私を見て、静かに声をかけてきた。
「お前、毎夜眠りにつく前や、あっちの世界(現実)にいる間も、ずっとこの村のために防壁や農具の工夫を考えていてくれたんだな」
「……え?」
「手帳の落書きや図面を見れば解る。生半可な気持ちで書いたもんじゃねえ。お前がどれだけ時間をかけて、この村を守るために頭を悩ませてきてくれたか……ワシらにはちゃんと伝わってるよ」
バノックの言葉に、胸の奥がじんわりと熱くなった。
スマートにこなすチート能力など何もない。
ただ、現実世界で必死に資料を読み込み、ノートに書き写し、手探りで泥に塗れて試行錯誤を繰り返す。
その泥臭い「準備と努力のプロセス」そのものを、バノックたちはしっかりと見ていてくれたのだ。
「……ありがとうございます、バノックさん。でも、私だけの力じゃありません。皆さんが居てくれたから、この図面が本物の壁になりました」
「よし! 食ったら後半戦だ! 日があるうちに東口の柵まで固定を終わらせるぞ!」
日が西の山並みへと傾く頃。
村の北口と東口には、グラック老人の鉄金具と、私が現実で調べ上げた筋かい構造、そして村人全員の汗によって補強された、強固な二重の木柵と外堀が完成していた。
夕暮れ時の冷気が強まり、強風が防壁を叩く。
だが、補強された構造体は、ピシリとも揺らぐことはなかった。
現実に持ち帰った知識と、この世界で流した汗。
その二つが重なり合って生まれた本物の防衛陣地を前に、私は手に残るタコの感触を確かめながら、どんな試練が訪れようともこの過疎村を守り抜く手応えを、深く胸に刻み込んでいた。




