第16話 土の再生
整えられた十坪ほどの小さな区画に、秋の深まりを告げる冷たい風が吹き抜けていた。
私が耕し終えた畑の表面は、腐葉土と炭の灰が丹念に混ぜ合わされたことで、しっとりとした深い黒褐色へと生まれ変わっている。
指先を差し込むと、かつての手首を痛めるような硬質な拒絶感は消え去り、空気を孕んだ柔らかな粒子が優しく包み込んでくれた。
土壌の物理的な改良は、これでひとまずの完成を見た。
次に行うべきは、この生きた土に命の芽を託す「種まき」と、畑の生命線となる「水路の修繕」だった。
「ハル、これを持ってきたぞ」
朝の冷気が残る中、作業の準備をしていた私の元へレンが歩み寄ってきた。
彼の手には、小さく丸められた麻布の包みが大切そうに抱えられている。
包みが開かれると、そこには黒ずんだ小さな粒や、皺の寄った歪な種子がいくつも並んでいた。
「村の古老たちに話したら、奥の蓄えから分けてくれたんだ。『寒さに強い根菜と、葉物の種だ。あいつが本気で土を育てるつもりなら、試してみるといい』って」
「……ありがたい。村の皆さんのお大切な種ですね」
「ああ。この村じゃ、種一つ無駄にすることは命を捨てるようなものだからな。みんな、お前の手仕事を見て託す気になったんだ」
受け取った種の軽さと、そこに込められた村人たちの切実な重み。
指先で冷たい黒土に浅い溝を掘り、種と種の間隔(株間)を適切に空けていく。
一粒ずつ溝へ落としては、上から優しく土を被せ、指の腹で軽く押さえて圧着させる。
密にしすぎれば根が互いに押し合って育たず、浅すぎれば風や鳥に奪われ、深すぎれば発芽のための小さな芽が土の重みに押し潰される。
現実に培ってきた農学の知識と手さばきを確かめるように、私は丁寧に種を土へと埋めていった。
種まきを終えると、次は水路の作業だ。
村の裏山から湧き出る細い清流は、かつて村全体を潤していたはずだった。
だが、長年の手入れ不足と過去の豪雨による崩落で、水路の石組みは崩れ、途中で泥と枯れ葉が詰まって浅い水溜まりと化していた。
水が滞れば、畑へ引き込むことができないばかりか、害虫が湧いて衛生環境を悪化させる原因にもなる。
「水路の石組みを直すには、まず川底の泥を掻き出さないとな」
私はグラック老人から借りている古クワと、木製の頑丈なスコップを手に取り、水路の詰まり部分へと向かった。
レンも自前の木鍬を抱えてついてきてくれる。
水路に足を踏み入れると、地下水独特の刺すような冷たさが、粗末な革靴越しに足首へ押し寄せてきた。
呼吸が思わず白く弾ける。
泥と落葉が硬く凝集した水路の底へスコップを打ち込み、力任せではなく、水流の力を利用するように泥を掬い上げて外へ放り出していく。
ガツン、と手応えが手に響いた。
水路の側壁を形作っていた大きな平石が、土砂の重みで内側へと倒れ込み、水流を完全に堰き止めていた。
「レンさん、この石をテコで持ち上げます。向こう側に当て木を挟んで手伝ってもらえますか」
「わかった! 丸太を持ってくる!」
二人の呼吸を合わせる。
倒木の枝を頑丈なテコとして石の隙間に差し込み、全身の体重をかけて押し下げる。
背筋と太腿の筋肉が強烈に緊張し、手のひらの硬くなったマメにぐっと力が加わる。
メリメリと音を立てて大きな石が持ち上がり、レンが素早くその隙間に角材を叩き込んだ。
その瞬間——溜まっていた濁った水が一気に勢いを増し、大きな音を立てて下流へと流れ出した。
ザザーッと途切れていた水の道が繋がり、滞っていた泥が押し流されていく。
澄んだ水流が、私たちが補修した石組みの隙間をサラサラと音を立てて満たしていった。
「流れた……! 流れたぞ、ハル!」
レンが子供のように声を上げて喜び、泥だらけの手で私の肩を叩いた。
水路の開通を聞きつけたのか、村の広場の方からゆっくりと歩いてくる人影があった。
自警団の猟師・バノックと、鍛冶場のグラック老人だ。
二人は足元を流れる澄んだ水と、綺麗に組み直された側壁の石組みを、静かな眼差しで見つめていた。
「……素人の細工にしては、筋が通っている」
バノックが腰の斧に手を置いたまま、不器用な低い声でつぶやいた。
「水流の傾斜を殺さずに泥を抜いてある。これなら、大雨が来ても村の家々に水が溢れ込む心配もない」
グラック老人もまた、膝を折って水路の冷たい水に手を浸し、小さく頷いた。
「異邦人。お前が作っていた畑と、この水路……神の呪いでも土地の祟りでもなく、ただの手入れ不足だったというわけか」
「土地も水も、放っておけば滞るだけです。人が手を入れ、循環させてやれば、必ず応えてくれます」
私が泥を拭いながら答えると、二人の老人は顔を見合わせ、言葉少なに吐息を漏らした。
過去の失敗とトラウマから「新しいことを試さず、ただ静かに衰退を受け入れる」ことを生き残るための術として選んできた過疎村の住人たち。
だが、目の前で鮮やかに蘇った水路と、ふんわりと解された黒い畑は、彼らの諦念の中に眠っていた「生きる意欲」を、確かに呼び覚ましつつあった。
「……グラック。村の倉庫に眠っている古い農具の鉄頭、打ち直してやるか」
「フン、余計な手間を増やしおって。……おい異邦人、明日鍛冶場へ来い。お前の手の大きさに合わせた専用の備中クワを打ってやる」
グラック老人は背を向け、不機嫌そうに去っていったが、その背中はどこか晴れやかだった。
バノックもまた、静かに頷くと私に背を向けて詰所の方へと戻っていった。
夕刻。
補修を終えた水路から引いた綺麗な水が、小さく整えられた私の畑の脇をサラサラと音を立てて流れていく。
黒い土の下には、村人から託された命の種が、静かに目覚めの時を待っていた。
私の手は、泥と擦り傷で汚れ、爪の間には黒い土が落ちきらずに残っている。
だが、この泥臭い両手こそが、この過疎村の人々と私を繋ぐ、何よりも強固な信頼の証だった。
茜色の夕闇が村を包み込み、ぼろ屋の煙突から細い煙が立ち上り始める。
私は新しく作られた水のせせらぎに耳を澄ませながら、過疎村に満ち始めたちいさな復興の兆しを、深く、深く胸に刻み込んでいた。




