第5話 違法アプリ『アウェイク・バズ』
「……小林くん。本当に、それは『あなたの力』なんですか?」
静かな問いかけが、荒れ果てた教室の重苦しい空気を鋭く切り裂いた。
「は……? 何言ってんだよ、影原……!」
小林の口元が引きつる。衝撃波を纏わせた右手が、ぴくりと震えた。
「俺の力に決まってるだろ! このアプリは俺の潜在能力を引き出してくれたんだ! 俺は選ばれたんだよ!」
小林が握りしめるスマホの画面。そこに浮かぶ濁った蛍光グリーンの光と、渦を巻く不気味な目玉のアイコン。
先日、天宮凛を暴走させた原因を突き止めるべく、彼女の端末から抽出して徹底的に解析した、あの危険な拡張アプリと同じデザインだ。
「違いますよ」
自分はゆっくりと歩を進めながら、一切の感情を削ぎ落とした声で告げる。
近づくほどに、人工的な甘ったるい匂いと、金属じみた生臭さが鼻をついた。アプリの過剰負荷が、体液にまで影響を及ぼしている証拠だろう。
「『アウェイク・バズ』……それがそのアプリの名前ですね。脳内の神経伝達物質を強制分泌させ、過剰なドパミンで安全装置を解除しているだけです。一時的に異能の出力を跳ね上げる代わりに、使用者の精神は急速に崩壊する。……一種の違法能力ドーピングですよ」
「な……ッ!?」
「あなたのその右手、もう痺れて感覚がないでしょう? 瞳孔も開ききっている。アプリの過剰負荷に、あなたの体が耐えきれていない証拠です」
「黙れ……黙れ黙れ黙れぇッ! 俺をバカにするなッ!」
動揺を塗りつぶすように、小林が叫ぶ。
心理誘導、成功。動揺によって感情の制御が乱れ、能力の出力軸が大きくブレた。
「——今です、天宮さん」
自分が小さく囁くと同時に、戸口に立っていた凛の瞳が、蒼く澄んだ光を放った。
凛の手から放たれたのは、巨雷でも暴風でもない。光も音もない、目に見えないほど微弱な静電気ショック。電流がピンポイントで小林の頚椎に流れる。
「え……?」
小林は口を開いたまま、糸の切れた人形のように、その場でバタリと崩れ落ちた。
「……ふぅ。お見事です、天宮さん」
「……当たり前でしょ。私の出力を何だと思ってるの」
凛が額の汗を拭いながら教室に入ってくる。
自分はすかさず小林のスマホを拾い上げ、手元の小型端末と有線で接続した。
「ログ消去とアプリのフォーマットを頼みます」と声に出す。
『——了解。端末内の『アウェイク・バズ』を完全削除。バックドア経由で校内サーバーのログも書き換える』
イヤホンから、無機質な合成音が短く返ってきた。
「さて……次は現場の偽装ですね」
自分は教室の後ろ、壁に設置されている大型のスチール製清掃用具入れに目を向けた。
「天宮さん、手を貸してください。清掃用具入れが倒壊した事故にします」
自分は袖をまくり、ロッカーの側面に肩を当てて、ふんッと全力で体重をかけた。
……が、スチール製の重厚なロッカーは、ピクリとも動かない。女子平均以下の運動神経と筋力では、悲しいかな微動だにしない。
「……影原くん、何やってるの?」
「……テコの原理で動くはずなんですが。見ていないで手を貸してください」
「もう、仕方ないわね……」
見かねた凛が呆れたように隣に並び、片手でひょいと押し込む。
老朽化した固定金具が悲鳴を上げ、大型ロッカーが横を向くように派手に傾いた。
ドガァンッ!!
けたたましい金属音を立てて清掃用具入れが床に横倒しとなり、衝撃で観音開きの扉が跳ね開いた。中のデッキブラシやバケツ、モップが床を滑るように激しく飛び散る。荒れた机や散らばったプリントが、ロッカー横倒しの衝撃と二次被害によるものとして、説得力を持つ物理的痕跡へと塗り替わる。
「それ、テコの原理ですか?」
「……当たり前でしょ」
凛はそっぽを向いて、答える。
「……これで隠蔽は完了です。天宮さん、速やかに撤収しましょう」
防犯カメラ映像の改ざん完了。廊下の目撃者たちの意識は凛が逃がした方向へ誘導済み。
二人は気絶した小林をその場に残し、黄昏時の廊下へと滑り出すように姿を消した。
◇
二人が去り、しんとした教室。
静かに歩み寄る、カツン、カツンというヒールの足音があった。
現れたのは、養護教諭の神条冴子だった。
荒れ果てた教室、横倒しになった清掃用具入れ、そして床に転がる小林を一瞥すると、冴子は深いため息をついた。
「……なるほど。清掃用具入れの倒壊事故、ね」
冴子は倒れたロッカーの前に立つと、履いていたヒールでスチール製の側面をドガンッと力任せに蹴りつけた。
激しい金属音とともに、ロッカーの側面に大きな衝突痕が刻まれる。
「倒壊して床に激突したなら、これくらいの凹みがなきゃ不自然でしょう」と言いながら、完全にストレス解消にしか見えない蹴りを放つ。
ロッカーの倒壊をシミュレートして、机と椅子の位置を調整していく。さらに、気絶している小林の制服の背中に、ロッカーの錆と埃を雑に擦り付けた。
「さて、事故として職員室と警察に連絡と……ったく、あとで影原にはたっぷり説教ね」
◇
校門を出て駅へ向かう道すがら、自分は手元の端末画面を確認していた。
時計の針は、十六時三十五分を指している。
胸の中で静かにガッツポーズを作る。
これなら事情聴取も特別補習もない。帰宅して夕飯を食べ、仮眠を取り、二十四時の『アルカナ・レジェンズ』二周年大型アプデに余裕で間に合う。九万個のガチャ石と限定称号『開拓者』は守られた。
「影原くん、顔……すごく嬉しそうだけど」
「いえ、平和が守られて感極まっていただけです」
隣を歩く凛の視線の鋭さをかわし、自分は小林の端末から抽出した最終ログの解析結果に目を落とした。
フォーマット直前、小林の『アウェイク・バズ』が校内ローカルネットワークと同期していた通信ログ。そこには、小林以外のIDが三十以上も記録されていた。
小林一人ではない。この違法アプリは、すでに校内で感染するように広まりつつある。
誰が、何の目的でこんなアプリをバラ撒いているのか。
「影原くん? どうかしたの?」
「……いえ。何でもありません」
自分は端末をポケットに放り込んだ。
面倒な気配は察知したが、今の自分にはもっと優先すべき「締め切り」がある。
「天宮さん、自分は今夜二十四時から大事な用事がありますので、今日はこれで失礼します」
「えっ? 二十四時って……夜中じゃない。何するの?」
「世界を救うより重大なミッションです」
迫り来る新たな脅威の予感に小さくため息をつきつつも、自分は平穏とガチャを勝ち取った達成感とともに、黄昏の帰路を歩むのだった。




