第4話 日常を脅かす不自然な暴風
金曜日の放課後、終礼のベルが鳴った瞬間、自分は胸の中で小さく勝利のポーズを決めた。
今週も何事もなく切り抜けた。あとは速やかに下校するだけだ。
普段の自分なら、放課後は静かに帰宅して、日課のゲームを少し触る程度だ。だが今夜ばかりは、わけが違う。
今夜二十四時。大人気スマホゲーム『アルカナ・レジェンズ』の二周年超大型アップデートが解禁される。
自分は一周年を過ぎた頃にこのゲームを始め、それから三百六十五日、一日もログインを欠かしていない。定期テストの前日も、四十度の熱にうなされた夜も、指だけは動かし続けた。貯め込んだ無料ガチャ石は、ちょうど九万個。天井分の三百連だ。
さらに二十四時からは、一時間限定の全ユーザー協力型レイド『終焉の巨神』が開催される。討伐すれば、限定称号『開拓者』が手に入る。
完璧なスケジュールだ。帰って夕飯を食べ、仮眠を取り、二十四時に備える。……はずだった。
鞄に教科書を詰めかけたところで、視界の端に違和感が引っかかった。
教室の最奥、窓際の席。普段は誰とも目を合わせない男子生徒、小林健太が、画面に吸い付くような必死さでスマホを操作している。
親指のスワイプが異様に速い。背筋は不自然に伸び、口元には下卑た笑みが張り付いていた。視線の揺れ、浅い呼吸、張った胸。何かを手に入れて、誰かに見せつけたくてたまらない顔だ。
予測できたのは、そこまでだった。直後、最悪のトラブルが幕を開ける。
「おい小林ー。今日の掃除、代わってくんね? これからカラオケ行くからさ」
サッカー部の派手な男子グループのリーダー格が、いつものノリで小林の肩を叩く。普段の小林なら、「あ、うん、いいよ……」と弱々しく頷く場面だ。
だが今日は違った。
「……触るなよ、ゴミどもが」
教室の空気が凍りつく。
「あ? なんだお前、今なんか言ったか?」
「触るなと言ったんだよ、ゴミ屑どもがぁッ!」
小林が右手を一閃させた。
ズドン、と鼓膜を殴る破裂音。目に見えるほどの空気の歪みが、教室を駆け抜ける。
「きゃあああっ!?」
「な、なんだこれ!? 机が!」
窓ガラスがビリビリと震え、机が薙ぎ払われ、教科書やプリントが吹雪のように舞い上がった。クラスメイトたちがパニックを起こし、悲鳴とともに教室を逃げ惑う。
自分は倒れた机の影で目を見開いた。
間違いなく異能だ。しかも、中学生の初期覚醒としては高ランク相当の衝撃波。
まずい。冗談ではない。
頭の中で、超高速の計算が回り始める。
教室での異能暴走。通報は免れない。警察と異能対策班が到着すれば、クラス全員が重要参考人だ。端末は証拠品として一時提出、事情聴取は深夜まで続く。……二十四時に、間に合わない。
一年かけて積み上げた九万個のガチャ石が。限定称号『開拓者』が。
小林くんのイキり暴走ごときに、台無しにされてたまるか。
——カチリ。
頭の中でスイッチが切り替わり、思考から雑音が消えた。
廊下側に目をやる。騒ぎを聞きつけた生徒会役員、天宮凛が戸口に立っていた。パニックの渦の中で、凛だけが冷静に室内を見渡し、自分と視線を合わせる。
真っ直ぐな視線が、無言で問いかけてくる。指示を、と。
自分は周囲に気づかれない程度に、顎を数ミリ引いた。生徒を廊下へ。誰も近づけるな。そして、あなたはそこで待機を。
それだけで、凛は完璧に意図を察した。
「生徒会です! 落ち着いて、廊下の奥へ避難してください!」
通る声で逃げ惑う生徒たちを廊下へ誘導し、野次馬を押し戻す。最後に凛自身が戸口を塞ぐように立ち、いつでも異能を放てる位置で静かに構えた。
よし。前衛は配置についた。
自分は腰を抜かした気弱な生徒のふりのまま、小林のほうへじりじりと這い寄る。左手はポケットの中、ブラインドタッチで端末を叩いた。
教室の防犯カメラを、過去の映像に差し替え。廊下の窓越しに撮影している生徒のスマホ録画を、一時フリーズ。
イヤホンから、無機質な合成音が返る。
『——了解。三秒でジャック完了』
その間も、自分は小林の観察を続けていた。
おかしい。衝撃波は小林の指の動きに合わせて飛んでいる。机は倒れたが、人には一人も当たっていない。発現直後の中学生が、そこまで正確に制御できるはずがない。
そして、小林が握るスマホの画面。濁った蛍光グリーンの光が明滅し、隅に渦を巻く目玉のようなアイコンが見える。凛の端末に入っていた、あの出所不明のアプリと同じ紋様だ。
なるほど。自力の覚醒ではない。外部のアプリで、異能を不自然に押し上げられているな。
自分は怯えたふりで声を震わせ、机の陰から呼びかけた。
「こ、小林くん……っ! す、すみません、頼むから落ち着いてください……! 自分、話を聞きますから……!」
情けない命乞いの低姿勢。小林は衝撃波を纏った手をこちらに向け、恍惚の笑みを浮かべた。
「……影原、だっけ。お前も、俺と同じ教室の端っこ側だったよな。ハハッ、そんなお前が俺にビビってんのか。いい気味だ! もう俺は違う。このアプリで、『選ばれた人間』になったんだよ!」
やはりアプリか。収穫だ。
自分は伏せた顔の下で、温度のない笑みを浮かべた。
外堀は埋まった。防犯カメラは改ざん済み、録画は無力化済み、廊下は凛が押さえている。
さあ、小林くん。自分には、今夜二十四時という絶対に譲れない締め切りがあるんだ。手短に終わらせてもらうぞ。
自分はゆっくりと顔を上げた。声から怯えが消える。
「……小林くん。本当に、それは『あなたの力』なんですか?」
静かな一言が、荒れた教室の空気を切り裂いた。




