第9話「八月七日、金曜日」
金曜日の朝、いつも通り庭でトレーニングを終えて書斎に下りると、堂島の様子がどこか違っていた。タブレットではなく、代わりに一枚の紙を手にしている。
「おはようございます、蓮司様。本日の予定でございますが――」
紙を見せられ、俺は少し戸惑った。いつもならタブレットに整然と並んでいるはずの予定が、今日はどこにも見当たらない。
「珍しいな、紙とは」
「本日は、業務のご予定を一切入れておりません」
思わず、聞き返した。
「一切、というのは」
「文字通りでございます。旦那様からのご指示です。『たまには何も入れるな』と」
俺は少しの間、言葉を失った。三年間、こんな日は数えるほどしかない。父の指示だと言われても、にわかには信じがたかった。
「理由は」
「先日の決算報告会の折、橘様が旦那様に、それとなく蓮司様のご様子をお伝えになったようです。根を詰めすぎているのではないか、と」
橘の顔を思い浮かべる。会議の最後に漏らした「父の若き日を思わせる」という言葉。あれは、単なる感慨ではなく、ひとつの懸念でもあったのかもしれない。
「余計な気を回してくれる」
「橘様なりの、蓮司様への敬意の表れかと存じます」
堂島の言葉に、俺は小さく息を吐いた。悪い気はしなかった。むしろ、誰かが自分の状態を気にかけてくれているという事実に、少しだけくすぐったいような感覚を覚えた。三年間、数字と判断力だけを評価され続けてきた身にとって、体調や心情を気遣われるという経験は、思いのほか珍しいものだった。
「――分かった。今日は、お前の言う通りにする」
「ありがとうございます。それでは、少し出かけませんか」
堂島の提案は、意外なものだった。
「出かける? どこへ」
「車で一時間ほどの場所に、静かな湖がございます。旦那様が、蓮司様がまだ小さかった頃、何度か連れて行かれた場所です」
記憶を辿ってみたが、はっきりとは思い出せなかった。ただ、水面に反射する光の感触のようなものが、かすかに脳裏をかすめた気がした。
「覚えていないな」
「四歳の頃のことでございますので、無理もございません。当時の蓮司様は、水辺で夢中になって石を投げていらっしゃいました」
「お前がそれを覚えているのか」
「はい。あの日も、私が同行しておりましたので。旦那様は仕事の電話で忙しく、蓮司様のお相手をしていたのは、もっぱら私でございました」
どこか懐かしむような口調に、俺は少し意外な思いを抱いた。堂島にも、そうした遠い日の記憶があるのだと、当たり前のことに今更気づかされる。
三年間どころではない、もっと長い時間を、この男は俺のそばで過ごしてきたのだと、今更ながら実感する。
支度を整え、車に乗り込む。今日の堂島は、運転手然としたスーツではなく、少しラフなジャケット姿だった。休日の運転手、という体を装っているのだろう。ハンドルを握るその横顔は、いつもよりわずかに緩んで見えた。
「今日は、一色でもなく、佐藤でもなく、一条でもない。ただの蓮司でいい」
堂島がそう言って、静かにハンドルを切った。その一言に、俺は少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。三つの名前を使い分けることに慣れきっていた自分にとって、「何者でもなくていい」という言葉は、思いのほか新鮮に響いた。
湖に着いたのは、正午前だった。想像していたよりもずっと静かな場所で、観光客の姿もまばらだった。水面は鏡のように穏やかで、遠くの山並みをそのまま映し込んでいる。湖畔のベンチに腰を下ろし、堂島が用意してくれたサンドイッチを頬張る。屋敷の食事とは違う、素朴な味だった。
「美味いな、これ」
「近くのパン屋で、朝方買ってまいりました。蓮司様のお口に合うか、少し心配しておりました」
「杞憂だったな」
「光栄でございます」
堂島が、珍しく口元を緩めた。三年間の付き合いの中で、こんな表情を見せる回数は、数えるほどしかない。湖から吹く風が、時折頬をかすめていく。都会の喧騒とも、屋敷の静けさとも違う、どこまでも自然な音だけが、あたりを満たしていた。
湖畔には、地元の親子連れらしき一団が、釣りを楽しんでいた。父親らしき男が、子供に竿の扱い方を教えている。時折、子供の歓声が水面を渡って聞こえてきた。魚が釣れたのか、それとも仕掛けが絡まったのか、詳しいことは分からない。ただ、その屈託のない声だけは、はっきりと耳に残った。何気ない光景だったが、俺はしばらく、その様子から目が離せなかった。
「羨ましい、と思われますか」
堂島の問いに、俺は少し考えてから答えた。
「羨ましいというより……不思議な感覚だ。ああいう時間の使い方を、俺は知らないから」
「知らないことは、恥ではございません。これから知っていかれても、遅くはないかと」
「遅くはない、か」
卒業まで、あと半年あまり。それを「遅くはない」と言えるのかどうか、正直なところ判断がつかなかった。だが堂島の言葉には、根拠のない気休めではない、確かな重みがあった。
堂島の言葉に、俺は小さく頷いた。三年間、常に前を向き、効率を求め続けてきた。だが今日という一日は、何も生み出さない、何の決裁も伴わない、ただ「過ごす」だけの時間だった。それがこれほど贅沢なものだとは、正直、思ってもみなかった。
午後、湖畔を軽く散策したあと、俺たちは屋敷への帰路についた。行きとは違う道を通ったのか、車窓には見覚えのない田園風景が広がっていた。稲穂がまだ青い田んぼの向こうに、入道雲が高く立ち上っている。こうした景色を、これまでどれだけ見過ごしてきただろうかと、俺はぼんやり考えていた。
車内で、堂島がぽつりと言った。
「桐生物産の件、本日は特に動きはございません。監査は粛々と進んでおります」
「ああ、分かった」
短いやり取りだけで、その話題はそこで終わった。今日ばかりは、深追いする気にもなれなかった。
屋敷に戻ったのは、夕方過ぎだった。書斎に戻り、いつものように資料に手を伸ばそうとして、俺はふと動きを止めた。今日くらいは、これでいいのかもしれない。
代わりに、書斎の隅にある小さなラジオを久しぶりに手に取った。子供の頃、寝る前によく聴いていた記憶がある。埃を軽く払い、電源を入れると、懐かしい選局音とともに、聞き覚えのない曲が流れ始めた。特に意味もなく、それをしばらく聴き続ける。何かを判断する必要も、何かを決める必要もない時間が、こんなにも心地よいものだとは知らなかった。
窓の外を見ると、夕焼けが庭の木々を赤く染めていた。湖で見た親子連れの光景が、まだ瞼の裏に残っている。ああいう時間を、いつか自分も持てる日が来るのだろうか。今はまだ、想像することしかできない。
夜、堂島が休む前に、書斎まで顔を出した。
「本日は、いかがでしたか」
「悪くなかった。――ありがとう、堂島」
素直な礼の言葉に、堂島は一瞬だけ驚いたような表情を見せ、それから深く一礼した。
「もったいないお言葉です。また折を見て、ご用意いたします」
「ああ、頼む」
「ちなみに、次にお連れする際は、釣り竿も用意しておきましょうか」
思いがけない申し出に、俺は思わず小さく笑った。
「悪くない」
「かしこまりました。楽しみにしていてください」
堂島がそう言って部屋を出ていくのを見送りながら、俺は今日一日の記憶を、もう一度静かに反芻した。
八月七日、金曜日。何も決裁せず、何も判断せず、ただ一日を「過ごした」――そんな日が、俺の人生にもあり得るのだと、初めて知った一日だった。明日からは、また普段通りの日々が戻ってくるのだろう。だが、この一日の記憶だけは、これまでとは違う形で、長く胸の奥に残り続ける気がした。




