第8話「八月六日、木曜日」
第8話です。
木曜日の朝、いつも通り三十分のトレーニングを終えて書斎に下りると、堂島がいつもより早い時間から資料を準備していた。
「おはようございます、蓮司様。本日は十時より、執行役員会との中間決算報告会がございます」
「今日だったか」
「はい。筆頭執行役員の橘様をはじめ、主要五名がオンラインで参加予定です。事前資料は、すでにお手元のタブレットに送付済みでございます」
「目は通しておいた。北米事業の伸びが、想定より良さそうだな」
「はい。現地責任者の采配が功を奏しているとのことです」
半期の数字が出揃う時期だ。世界各国の拠点から上がってくる報告を突き合わせ、今期の着地見込みを確認する、年に数度の重要な会議だった。三年間、この種の会議に出るたびに、俺は「学生」という仮面を完全に脱ぎ捨てる。
朝食を済ませ、書斎のモニターの前に座る。十時ちょうど、画面に五つの顔が並んだ。中央に映る橘は、白髪交じりの初老の男で、一条グループ創業期から父を支えてきた古参の一人だ。両脇には、財務担当の女性役員や、海外事業を統括する若手の役員の顔もある。それぞれの背景には、各拠点のオフィスや自宅の書斎が映り込んでいて、時差のある国から参加している者もいるのが分かった。
「蓮司様、おはようございます。本日もよろしくお願いいたします」
「頼む」
報告は淡々と進んだ。北米事業の堅調な推移、東南アジア生産拠点の稼働率向上、欧州の為替影響――事前に堂島から受けていた報告と、大きな乖離はない。参加者それぞれが、担当領域の数字を簡潔に読み上げ、時折俺からの質問に答える。その受け答えの端々に、各人の実務能力の差が滲み出る。
「東南アジアの稼働率向上について、要因を詳しく聞かせてくれ」
「はい。先日視察いただいた新拠点の立ち上げが、想定以上に軌道に乗っております。現場責任者の中村氏のマネジメントが、非常に効果的だと分析しております」
中村の名前が、こんな形で経営陣の報告に上がってくるとは思わなかった。視察の際に感じた手応えが、数字となって裏付けられたことに、俺は密かな満足を覚えた。
だが橘が最後に付け加えた一言に、俺は思わず視線を上げた。
「なお、地方の中堅取引先を巡る不正会計の調査について、経営会議でも情報共有がなされております。金額規模はまだ小さいものの、念のため、皆様のお耳にも入れておきたく」
桐生物産のことだと、すぐに分かった。堂島を介さず、経営陣の耳にまで届き始めている――それだけ、案件としての重みが増しているということだ。
「橘。その件について、経営陣として何か意見は」
「特段ございません。蓮司様のご判断に、我々は従うのみです。ただ、規模の大小にかかわらず、不正は不正として正すべき、というのが一同の総意でございます」
「他の役員も、同じ考えか」
画面の中の他の役員たちが、それぞれ小さく頷くのが見えた。財務担当の役員が、控えめに口を開く。
「私からも一点だけ。地方経済への影響を最小限に抑える形での着地を、個人的には望んでおります。従業員の方々に罪はございませんので」
「その視点は、俺も同じだ」
短く答えると、役員は少しほっとしたような表情を見せた。数字だけを追う人間ばかりではない――そのことを、こうした瞬間に確認できるのは、悪くない発見だった。
「分かった。引き続き、静観する」
「承知いたしました。それと――」
橘が一瞬、言葉を選ぶように間を置いた。
「僭越ながら、蓮司様がこの件に向き合われる姿勢は、旦那様の若き日を思い出させます。旦那様も、判断を急がず、証拠を積み上げることを何よりも重んじる方でした」
思いがけない言葉に、俺は少し戸惑いながらも、短く応じた。
「そうか」
「出過ぎたことを申しました。失礼いたします」
橘は一礼し、逃げるように口を閉ざした。だがその一言は、会議が終わったあとも、しばらく俺の中に残り続けた。父の若き日、という言葉が、これまで漠然としか想像したことのなかった「父の高校生時代」というものを、初めて具体的に思い描かせた。父もまた、俺と同じように、誰かに正体を隠しながら、静かに証拠を積み上げていた時期があったのだろうか。
会議は一時間ほどで終わった。モニターが暗転した後、堂島が静かに口を開く。
「経営会議にまで話が及んでいるとは、正直、少々驚きました」
「そうだな。想定より、事の輪郭が早く広がっている」
「悪い兆候ではございません。むしろ、組織全体が慎重に動いている証左かと」
堂島の言葉に、俺は小さく頷いた。だが同時に、これまで自分一人と堂島だけで抱えてきた案件が、いよいよ自分の手を離れつつあるような感覚も覚えていた。橘の言葉も、まだ頭の片隅に残っている。父の若き日を思い出させる、という評価を、どう受け止めればいいのか、俺自身まだ測りかねていた。
午後、学園から一件の確認連絡が入った。先日届いた警備計画の草案について、学園側の担当者が「内容にご不明点はございませんでしょうか」と、形式的な確認を求めてきたのだ。堂島がそれに目を通し、簡潔な返信文を作成する。
「先方には、特に問題ない旨、伝えておきます」
「ああ、頼む」
「なお、この確認連絡自体、学園側が我々の反応をうかがっている面もあるかと思われます。あまりに無反応でも、あまりに細かく注文をつけても、かえって不自然に映ります」
「そのあたりの塩梅は、お前に任せる」
「かしこまりました。桐生物産の件、動きがあり次第、こちらからもご報告します」
「頼む」
こうした細かなやり取りの一つひとつが、俺の正体を守るための見えない防波堤になっている。それを支えているのが、目の前の男だということを、俺は改めて実感していた。
夕方、久しぶりに何の予定もない時間ができた。書斎の窓から見える庭には、夏の終わりを予感させるような、少し傾いた日差しが差し込んでいる。ソファに腰を下ろし、届いたばかりの決算資料を眺めながら、俺はしばらくぼんやりと過ごした。数字を追わない時間というのが、自分にとってどれほど貴重なものか、こうして手に入れて初めて気づく。
ふと、亡くなった母のことを思い出した。物心つく前に他界した人で、記憶らしい記憶はほとんど残っていない。ただ、父の書斎に飾られた一枚の写真の中で、母はいつも穏やかに微笑んでいる。今日のような、経営陣が動き出すほどの案件を前にしたとき、母ならどう考えただろうかと、益体もない想像をしてしまう自分がいた。
「蓮司様。何か、お考え事ですか」
いつの間にか隣に立っていた堂島が、静かに尋ねてきた。
「いや。少し、昔のことを思い出していただけだ」
「左様でございますか」
堂島はそれ以上何も聞かず、いつも通りの静けさで一礼し、書斎を後にした。この男の踏み込まない優しさに、俺はいつも救われている。もし今、母のことを話したところで、堂島は静かに耳を傾けてくれるのだろう。だが、それを言葉にすること自体が、まだ自分の中でうまく処理できていない感情なのかもしれなかった。
夜、明日の予定表に目を通しながら、俺はふと今日一日を振り返った。経営陣が動き出し、学園側の警備も固まりつつある。静かに進んできたものが、少しずつ表舞台に姿を現し始めている。この夏が終わる頃には、きっと何かが大きく変わっているのだろう。
父の若き日、という橘の言葉を、俺はもう一度反芻した。今度、機会があれば、父自身にその頃の話を聞いてみてもいいかもしれない。そんなことを考える自分に、俺は少し驚いた。今までなら、思いつきもしなかった発想だった。
窓の外では、夏の虫の声が、日中よりも一段と大きく響いていた。橘の言葉、母の写真、堂島の踏み込まない優しさ――今日一日で触れたいくつもの断片が、静かに胸の内で重なり合っている。誰にも言葉にしないまま、ただそれを抱えて眠りにつく夜が、この生活には多すぎるのかもしれない。
八月六日、木曜日。組織全体が、桐生物産の件に静かに向き合い始めた一日は、俺自身の中にも、これまでとは違う緊張感を残していった。




