第7話「八月五日、水曜日」
第7話です。
水曜日の朝、庭のジムスペースでいつも通り汗を流し終えた頃、堂島の表情が心なしか引き締まっているのに気づいた。
「おはようございます、蓮司様。本日、桐生物産の件で正式に動きがございます」
「監査が始まるんだったな」
「はい。第三者監査法人による正式な調査が、本日午前中より着手されます。対象は、下請け企業との資金の流れ、および公共案件の入札関連書類一式です」
「監査団の規模は」
「公認会計士三名、調査補助員二名の計五名体制です。桐生物産側には『定期的な業界監査の一環』として通知されており、こちらからの働きかけであるとは伝わっておりません」
「発覚するリスクは」
「限りなく低いと判断しております。監査法人は独立した第三者機関であり、依頼主が一条グループであることは、契約上も外部に漏れない仕組みになっております」
「徹底しているな」
「三年間、そのために整えてきた仕組みですので」
朝食の席に着きながら、俺はその報告を静かに受け止めた。動き出したものは、もう止まらない。証拠が積み上がるのを待ち続けたこの一か月あまりの時間が、ようやく次の段階へと進む。
「監査法人からの一次報告は、いつ頃になる」
「早くとも一週間はかかる見込みです。書類の量が膨大なため」
「分かった。焦らず、正確な調査を優先させろ」
「承知いたしました」
書斎に移ると、堂島がもう一件、別の資料を差し出した。
「学園から、二学期の行事に関する警備計画の草案が届いております。先日、旦那様からお話があった件です」
草案には、体育祭・学園祭それぞれの当日の来場者動線、外部業者の出入り管理、緊急時の連絡体制などが、細かく記載されていた。表向きは一般的な安全対策に見えるが、行間には「特定の生徒の身元を絶対に露見させない」という意図が透けて見える。写真撮影の制限区域や、来賓対応の動線まで、これほど細かく詰められた計画を見るのは初めてだった。
「学園側は、まだ俺の正体を疑ってはいないんだな」
「はい。あくまで『一条グループ関係者が在学している』という事実のみが、経営層のごく一部に共有されているに過ぎません。個人の特定には至っておりません」
「校長は、この草案の内容を知っているのか」
「表面上の警備強化の理由としてのみ、簡単な説明を受けているはずです。ただ、あの校長のことですから、深く理解しているかは疑わしいところです」
堂島にしては珍しい、皮肉めいた物言いだった。校長が学内の異変から目を背け続けていることを、堂島もまた把握しているのだろう。中村のような現場を掌握する人間もいれば、校長のように目の前の事実から逃げ続ける人間もいる。同じ「責任者」という肩書きでも、その中身は天と地ほど違う。
「それでいい。この草案、目を通しておく」
資料を受け取り、ページをめくっていく。文面は事務的だが、一つひとつの項目に、学園側の緊張感がにじんでいた。三年目にもなれば、化けの皮が薄くなる――父の言葉が、また頭をよぎる。担当者名の欄には見覚えのない事務員の名前が並んでおり、学園側がこの件をごく限られた人間だけで進めていることが窺えた。
午前中の残りは、欧州法人からの四半期見通しの確認に費やされた。為替変動を織り込んだ収益予測、原材料価格の高騰リスク、いくつかのシナリオ分析。担当者から送られてきたレポートには、悲観・中立・楽観の三パターンの見通しが並び、それぞれに具体的な対応策が付記されていた。数字の羅列を追ううちに、時計はあっという間に正午を回っていた。
昼食後、少しだけ時間ができたので、俺は書斎の窓辺に立ち、庭を眺めた。結衣たちの旅行はすでに終わり、SNSの更新頻度も落ち着いてきている。桐生の投稿には、今度は部活の練習風景が並んでいた。「夏の大会に向けて頑張るぞ」というキャプションに、いつもの調子のよさが滲んでいる。額に汗を浮かべながらボールを追う写真は、素直に見れば好青年のそれだった。だからこそ、その裏で進んでいる調査のことを思うと、俺の中に妙な感慨が生まれる。
その足元で、羅針盤が静かに積み上げてきたものが、今日、初めて外部の目に触れる形で動き出した。そのことを、桐生自身はまだ知らない。
午後、堂島が改めて監査の初動状況について報告に来た。
「監査法人からの第一報が届きました。想定通り、下請け企業側の帳簿に、複数の不自然な仕訳が確認されているとのことです」
「想定通り、か」
「はい。ただし、これが桐生物産本体の指示によるものか、下請け側の独断によるものかは、まだ判別できません」
「それを見極めるのが、今回の監査の本質だろう」
「仰る通りです。監査法人には、憶測での断定を避け、あくまで客観的な事実の積み上げに徹するよう、改めて念を押しております」
「いい判断だ」
「恐れ入ります」
堂島の報告は、いつも通り淡々としていた。だが、その淡々とした口調の奥に、慎重な緊張感が滲んでいるのを、俺は感じ取っていた。
「桐生蓮という生徒個人への感情は、この件には一切関係ない。あくまで、不正があったかどうか。それだけを見ろ」
「承知しております。私情を挟むことは、一切ございません」
堂島の答えに迷いはなかった。だが俺自身は、その言葉をなぞりながら、心のどこかで小さな引っかかりを感じていた。「その他大勢くん」と嘲笑われた記憶は、まだ消えていない。私情を挟まないと言い聞かせながら、完全に切り離せているかと問われれば、正直なところ自信がなかった。
もし今回の監査で、桐生物産本体の関与が明確になれば、その先に待っているのは、単なる経営上の判断ではなく、桐生蓮という一人の人間の人生を揺るがす結果になるかもしれない。それを望んでいるのか、望んでいないのか。自分の中でさえ、答えははっきりしなかった。
「――難しいものだな」
思わず漏れた独り言に、堂島が静かに反応した。
「蓮司様らしからぬ迷いですね」
「そう見えるか」
「ええ。ですが、迷うということ自体、悪いことではないと存じます。判断を急がず、慎重に見極めようとされている証ですから」
堂島の言葉に、俺は小さく頷いた。慰められているのか、諭されているのか。おそらく、その両方なのだろう。
夕方、書斎の窓の外で、蝉の声が徐々に弱まり始めていた。夏の盛りも、少しずつ終わりに近づいている。二学期が始まれば、また学校での日常が戻ってくる。佐藤蓮司として、何も知らないふりをして、あの教室に戻る日が。
夕食を終え、湯を浴びてから、俺は改めて書斎に戻った。堂島が、遅い時間にもかかわらず、まだ何件かの決裁書類を整理していた。
「まだ仕事か」
「明日の分の下準備でございます。お気になさらず」
「無理はするなよ」
「蓮司様にだけは言われたくないお言葉ですね」
珍しく軽口をこぼす堂島に、俺は思わず口元を緩めた。こういうやり取りができる相手がいることを、当たり前だと思ってはいけないのかもしれない。三年間、この男だけは、佐藤蓮司としての俺と一条蓮司としての俺、その両方を等しく見てきた唯一の存在だった。
夜、明日の予定を確認しながら、俺はふと、今日届いた警備計画の草案を思い出していた。学園祭、体育祭――華やかな行事の裏側で、俺の正体を守るための緊張感が、静かに張り巡らされている。その構図もまた、結衣たちには一生知られることのないものだった。
窓の外に目をやると、夜空にはまだ雲ひとつなく、星が瞬いていた。今日という一日で、静かに眠っていたものが、ようやく動き出した。その先に何が待っているのか、正直なところ、まだ俺自身にも見えていない。ただ、後戻りできない一歩を踏み出したという実感だけは、確かにあった。
八月五日、水曜日。桐生物産を巡る歯車が、初めて外部の目に触れる形で動き出した一日。静かな夏の午後の裏側で、確かに何かが変わり始めていた。




