第6話「八月四日、火曜日」
第6話です。
庭のジムスペースで三十分の汗を流し終え、シャワーを浴びる。着替えを済ませて書斎に下りると、堂島がタブレットを片手に待っていた。
「おはようございます、蓮司様。本日は、月に数回の『家庭教師の日』でございます。十時より、相馬先生がいらっしゃいます」
「ああ、今日だったな」
「加えて、旦那様より一点ご伝言を預かっております。桐生物産の件、監査の進捗次第では、地元自治体を巻き込んだ調整が必要になる可能性があるとのことです」
「まだ先の話だろう」
「はい。あくまで念頭に置いておいてほしい、という趣旨のご伝言でございます」
俺は短く頷き、朝食のテーブルに着いた。地元自治体を巻き込む、という言葉の重さを、頭の片隅にひとまず置いておく。まだ確定でもない話に、今から気を揉んでも仕方がない。
相馬は、大学の非常勤講師を務める傍ら、一条家の依頼で不定期に「佐藤蓮司」の学習指導を担当している人物だ。もっとも、教えている内容そのものは、俺にとってはとうに知り尽くしたものばかりで、指導というよりは確認作業に近い。
十時ちょうど、応接間に案内された相馬が、いつも通り柔らかな笑顔で挨拶をした。丸眼鏡に、いつも同じ紺色のカーディガンを羽織った、飾り気のない人だった。
「こんにちは、蓮司さん。今日は数学と英語の予定でしたね。この前渡した課題、進み具合はどうですか」
「一通りは終わらせました」
「さすがです。真面目に取り組んでくれて、私も教え甲斐があります」
テーブルに教材が並べられる。定期試験の過去問、応用問題集。相馬はそれを一問ずつ丁寧に説明していくが、正直なところ、俺にはすでに解法が見えている問題がほとんどだった。
「この応用問題、少し難しいですが……分かりますか?」
「――多分、こうですよね」
俺は解答用紙に、あえて七割程度の完成度で式を書き込んだ。合っているが、最後の詰めが甘い。相馬が見れば「惜しい」と評価するくらいの、絶妙な出来栄えだ。
「おお、いいところまで来てますね!ここの符号だけ、もう一度確認してみましょうか」
相馬は嬉しそうにそう言って、丁寧に解説を続けた。ホワイトボード代わりのノートに、几帳面な字で途中式を書き加えていく姿には、教えることそのものへの純粋な愛情がにじんでいた。俺は素直に頷きながら、内心で小さく苦笑する。全力で解けば満点は容易い。だが、それをやれば「地味で目立たない佐藤蓮司」という設定が崩れる。ちょうどいい場所に居続けるための、これもまた計算の一部だった。
英語の長文読解に移ると、相馬は時折、本題から逸れた雑談を挟んだ。
「蓮司さんは将来、どんな仕事に就きたいとか、考えたりします?」
不意の問いに、俺は一瞬、返答に詰まった。すでに答えは決まっている――というより、選ぶ余地すらない未来だ。それを、この場でどう答えるべきか。
「……まだ、はっきりとは」
「そうですよね、高校生ですもんね。焦らなくて大丈夫ですよ。でも、蓮司さんはなんでも要領よくこなせそうだから、どんな道に進んでも大丈夫だと思います」
相馬は屈託なく笑い、話を本題に戻した。その屈託のなさが、今はどこか眩しく感じられた。要領よくこなせる理由も、進むべき道がすでに決まっていることも、彼女は何ひとつ知らない。
長文の中には、たまたま「家業を継ぐ」という表現が登場した。相馬は特に気にする様子もなく、その一文の文法構造を淡々と解説していく。だが俺の意識は、少しだけそこに引っかかっていた。家業を継ぐ、という他人事のような響きの言葉が、自分の人生そのものを指しているという事実に、時折こうして不意打ちされる。
「蓮司さんは、伸びしろがありますね。もう少し勉強に力を入れれば、上位も狙えると思いますよ」
「……ありがとうございます。考えておきます」
考える必要などないのだが、そう答えるしかない。相馬のまっすぐな期待に、少しだけ後ろめたさを覚えながら。
二時間ほどの指導を終え、相馬を見送ったあと、堂島が茶を運んできた。
「相馬先生は、毎回熱心でいらっしゃいますね」
「ああ。……ああいう人が担当で、正直助かってる」
「と、申しますと」
「変に勘繰らない。ただ純粋に、生徒の成績を伸ばしたいと思っている。それだけの人だ」
「なるほど。世の中には珍しい部類の人物かもしれません」
堂島の淡々とした相槌にも、どこか同意めいた響きがあった。裏の事情を知らないからこそ生まれる、まっすぐな善意。それを利用している後ろめたさと、それに救われている感覚が、俺の中では奇妙に同居していた。
昼食を挟み、午後は久しぶりに海外拠点からの連絡が少ない、静かな時間になった。堂島が、桐生物産の件について簡潔な報告を持ってきたのは、そんな折だった。
「監査契約の締結手続きが、予定より一日前倒しで進んでおります。明日、正式に着手される見込みです」
「早いな」
「第三者機関側の都合と伺っております。特段、こちらから急がせたわけではございません」
「分かった。引き続き経過を見せてくれ」
「承知いたしました。なお、朝方お伝えした旦那様のご伝言についても、監査結果が出次第、あらためてご相談させていただくとのことです」
「――堂島。お前は、桐生物産の件をどう見ている」
不意の問いに、堂島は一瞬だけ間を置いた。
「一介の使用人が申し上げることではございませんが……不正の程度によっては、そこで働く多くの方々の生活にも影響が及びます。判断を誤らぬよう、慎重に進めるべきかと」
「その通りだな」
堂島の言葉に、俺は静かに頷いた。桐生蓮個人への感情はどうあれ、事が大きくなれば、無関係な人間まで巻き込むことになる。その重さを、俺はまだ完全には受け止めきれていない。
堂島が退室したあと、俺はしばらく窓の外を眺めていた。夏の日差しが、庭の芝生を白く照らしている。監査の着手が一日早まったことに、深い意味はないのかもしれない。だが、静かに積み上がってきたものが、いよいよ動き出す予感だけは、確かにあった。
午後の遅い時間、書斎に一人になると、俺は珍しく手を止めて、椅子の背にもたれかかった。相馬の「将来、どんな仕事に就きたいか」という何気ない問いが、まだ胸の奥に小さく引っかかっている。答えなど、生まれたときから決まっていたはずなのに、今更そんな問いに動揺する自分がいることが、少し意外だった。
夕方、久しぶりに何もすることのない時間ができた。書斎の本棚から、昔読んだ経営学の古い本を一冊取り出し、ぱらぱらとめくる。父に薦められて読んだのは、確か中学に上がったばかりの頃だった。当時は意味も分からず読んでいたページの一つ一つが、今では驚くほど自然に頭に入ってくる。
ふと、ページの端に鉛筆で書き込まれた、幼い自分の字が目に留まった。「なぜ社員を大切にするのか」という一節の横に、「?」とだけ書かれている。あの頃はまだ、数字と人がどう繋がっているのか、実感として分かっていなかったのだろう。先日視察した物流拠点での中村の顔が、ふと脳裏をよぎった。今なら、あの問いに、自分なりの答えを返せる気がした。
三年間で、俺は随分と遠くまで来た。地味な高校生を演じる技術も、経営者としての判断力も、どちらも磨かれてきた自覚がある。ただ、相馬のような、裏表のない善意にまっすぐ触れる機会は、この生活の中でひどく少ない。誰かに何かを教わるとき、俺は常に「教える側」として振る舞うことに慣れきっていた。今日のように、素直に教わる側でいられる時間は、思っていた以上に貴重なものなのかもしれない。
夜、明日の予定表に目を通しながら、俺はふと相馬の言葉を思い出していた。「伸びしろがありますね」――その言葉の意味するところを、彼女はきっと一生知ることがないのだろう。
窓の外で、遠くから花火の音が微かに聞こえた気がした。どこかの町内会が、小さな夏祭りでもやっているのかもしれない。結衣たちが夢中になっている「最高の夏」とは違う、ごく普通の人々のささやかな夏の音。それを聞きながら、俺はしばらく、椅子に座ったまま動けずにいた。
八月四日、火曜日。誰かのまっすぐな善意に触れた一日は、静かなようでいて、俺の中に小さな棘のような感覚を残していった。




