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庶民のふりをして高校生活を送っていたら、カースト上位の彼女に浮気されて捨てられた。その後  作者: K4


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第5話「八月三日、月曜日」

月曜日の朝、庭のジムスペースでいつも通り三十分の汗を流し終えた頃、堂島が珍しく普段とは違う服装で書斎に現れた。運転手然としたダークスーツではなく、動きやすさを重視した、目立たない灰色のジャケット姿だった。


「本日は、外出のご予定がございます」


「外出?」


「先日ご決裁いただいた、新設の物流拠点でございます。現地の立ち上げ状況を、直接ご覧になっておかれた方がよろしいかと」


 俺は少し意外に思いながらも、頷いた。書類の上でしか見ていなかった現場を、この目で確かめる機会は、正直なところ多くない。普段の視察はすべて堂島や部下からの報告書を通してのものであり、実際に自分の足で現場に立つことは、この三年間でも数えるほどしかなかった。


「今回、あえて私を連れ出す理由は」


「旦那様からのご提案です。判断を下す立場にある者は、現場の空気を知っておくべきだと」


 父らしい、と思った。効率を重んじる一方で、現場を軽視することを何よりも嫌う人だ。その教えは、今の俺にも確かに根付いている。


「分かった。支度する」


 着替えたのは、佐藤蓮司でも一条蓮司でもない、第三の顔だった。動きやすいシャツにキャップを目深にかぶり、伊達眼鏡とは違うシンプルな黒縁の眼鏡をかける。堂島曰く、「視察担当の本社スタッフ」という体で通す予定らしい。鏡に映る自分を見て、俺は小さく息を吐いた。地味な高校生、一条グループの当主、そして今日限りの視察スタッフ――一日のうちに何枚もの顔を使い分けることに、今更ながら奇妙な感慨を覚える。


「お名前は、いかがいたしましょうか」


「適当でいい。一色、とでもしておけ」


「かしこまりました。一色様、ということで手配いたします」


 こうして偽名の上にさらに偽名を重ねる自分に、俺はどこか他人事のようなおかしみを覚えた。三年間、仮面をかぶり続けてきた身にとって、もう一枚増えたところで大した違いはない。


 車で一時間ほど走り、郊外に建てられたばかりの物流拠点に到着した。真新しい倉庫の壁面には、まだ塗装の匂いが微かに残っている。中に入ると、フォークリフトの音と、作業員たちの掛け声が響いていた。天井まで届く棚には、整然と荷が積まれ、想像していた以上に活気のある現場だった。


「案内役は、先日内示のあった責任者です」


 堂島がそう耳打ちした瞬間、こちらに向かって足早に歩いてくる男の姿が見えた。三十代半ばだろうか、日焼けした顔に、快活な笑みを浮かべている。


「本社からいらっしゃった視察の方ですね。お待ちしておりました。責任者の中村です」


 握手を交わしながら、俺は静かに現場を観察した。稼働状況、動線の設計、作業員たちの表情。数字の資料だけでは分からない、生きた情報がそこにはあった。作業員たちは皆、こちらを本社の視察担当としか見ておらず、遠慮のない視線で軽く会釈を返してくる。その何気ないやり取りひとつが、妙に新鮮だった。


「立ち上げから日が浅いですが、稼働率は」


「おかげさまで、想定の九割を超えています。人員配置についても、本社の采配のおかげで、経験豊富なメンバーを揃えていただけました」


 中村は誇らしげにそう語った。自分を選んだ「本社の采配」が、この場にいる視察スタッフの正体だとは、露ほども思っていないだろう。


「現場を見せてもらえるか」


「もちろんです。こちらへどうぞ」


 中村の案内で、倉庫内をぐるりと見て回った。ピッキング作業の動線、自動仕分け機の稼働状況、休憩スペースの配置に至るまで、どれも細やかな工夫が凝らされている。壁に貼られた安全目標のボードには、手書きの寄せ書きのようなコメントが並んでいた。


「あのボードは?」


「立ち上げ初日に、全員で書いたんです。照れくさいんですが、こういうのがあると、みんな気を引き締めてくれるので」


 効率だけを追い求めた無機質な現場とは、少し違う空気がそこにはあった。数字には表れない、この場所ならではの色というものが。


「今後、何か課題になりそうなことは」


「強いて言えば、繁忙期の人手不足でしょうか。ただ、今の体制なら十分に乗り越えられると考えています」


「無理はさせるなよ。現場が疲弊すれば、遅かれ早かれ数字にも跳ね返る」


 思わず口を突いて出た一言に、中村は少し驚いた顔をしたあと、深く頷いた。


「――肝に銘じます。本社の方にそう言っていただけると、心強いです」


 視察を終え、拠点を出る間際、中村が昼食に、と近くの定食屋の弁当を差し入れてくれた。堂島とともに車内でそれを広げながら、俺はしばらく無言で箸を進めた。屋敷で出される料理とは比べ物にならない、ごく普通の弁当だったが、なぜか妙に美味く感じられた。


「気に入られましたか」


「悪くない」


「今度、厨房の者にも研究させましょう」


「――そういう話じゃない」


 堂島の生真面目な返答に、俺は思わず苦笑した。数字と資料に囲まれた毎日の中で、こういう他愛のないやり取りが、案外貴重な息抜きになっているのかもしれない。


 弁当を食べ終える頃、堂島がぽつりと言った。


「いかがでしたか、本日は」


「悪くない。中村という男、現場を掌握できている。あの判断は、正しかったな」


「私も同感です。それに――蓮司様が『一色』として振る舞われる姿を、初めて拝見しました」


「どうだった」


「板についていらっしゃいました。もっとも、少々口を出しすぎてしまわれましたが」


 珍しく軽口めいた指摘に、俺は小さく息を吐いた。書類の上の決裁が、確かに誰かの生活と仕事を支えている――その実感を、久しぶりに肌で感じた一日だった。


 屋敷に戻ったのは、夕方過ぎだった。着替えを済ませ、書斎に入ると、堂島が改めて報告書を差し出した。


「桐生物産の件、監査契約の締結準備が予定通り進んでおります。来週には正式に着手される見込みです」


「引き続き、頼む」


「承知いたしました。なお、本日視察した拠点の件も、旦那様に簡潔にご報告しておきます」


「そうしてくれ」


「――それと、結衣様たちの旅行は本日で最終日とのことです」


 俺は特に反応せず、資料に目を落とした。彼らの三日間が終わろうとしている頃、俺の一日もまた、これで幕を閉じようとしている。


 夜、湯上がりに書斎の窓辺へ寄ると、スマートフォンに結衣のSNS更新の通知が届いていた。「楽しい旅行だった、また来年も行きたい」という一言に、加工された美しい海辺の写真が添えられている。何気ない投稿のはずなのに、どこか義務的な響きを感じたのは、気のせいだろうか。


 窓の外を見上げると、月が薄い雲に隠れていた。現場で見た中村の笑顔と、画面越しの結衣の笑顔――同じ「楽しさ」の表現でも、こうも質感が違うものかと、俺は静かに考えていた。数字を追うだけの毎日の中で、今日のような一日は、思っていた以上に俺自身を満たしてくれるものだったのかもしれない。


 八月三日、月曜日。数字の裏にある現場の温度を知った一日は、佐藤蓮司としての日常からは決して見えない、一条蓮司だけの財産になった。明日からはまた、書斎の中で数字と向き合う日々に戻るのだろう。それでも、今日という一日の手触りは、しばらく胸の奥に残りそうな気がした。

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― 新着の感想 ―
未練がないとか格好つけておきながら、なんで元カノ(仮)を連日チェックし続けてるんだろ? 効いてる?ねぇ効いてる?ってツッコミ入れる役がいたらよかったかもw
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