第4話「八月二日、日曜日」
日曜日の朝は、いつもより少しだけ遅く始まった。とはいえ、七時半に起きるのが「遅い」と感じる時点で、世間一般の高校生の休日とはかけ離れているのだろう。
目覚めてすぐに、庭に面したジムスペースで軽く汗を流す。三十分ほどのトレーニングは、この三年間、休日でも欠かしたことがない。地味な高校生を演じるためには猫背も伊達眼鏡も必要だが、いざという時に弱々しい身体では、一条家の当主として示しがつかない。表と裏、どちらの顔を保つためにも、この習慣だけは譲れなかった。
シャワーを浴び、身支度を整えてから、スマートフォンを開く。結衣のSNSにはすでに旅行二日目の投稿が並んでいた。朝日をバックにした自撮り、ホテルの豪華な朝食、そして昨夜遅くまで盛り上がったらしい花火の動画。「昨日は最高すぎた」というコメントに、桐生が「今日も一日中一緒な」と返している。コメント欄では、武田や遠藤らしき名前が「いいなー」「俺も混ざりたかった」と羨ましがっていた。
俺はそれを一瞥し、画面を閉じた。彼らの二日目が始まったのと同じ時刻に、俺の二日目もまた、いつも通りの静けさの中で始まっていた。
朝食を終え、書斎に向かうと、堂島がすでに待機していた。
「おはようございます、蓮司様。本日は、九時より会長――旦那様とのオンライン面談が予定されております」
「父上が?」
「はい。定例のご報告に加え、二学期以降の潜入計画について、いくつか確認したい事項があるとのことでした」
珍しい話ではない。月に一度か二度、父との面談は入る。だが「二学期以降」という言葉に、俺はわずかに眉をひそめた。何か、こちらの知らない動きがあるのかもしれない。
九時ちょうど、書斎のモニターに父の姿が映し出された。海外の視察先にいるのか、背景には見覚えのない洋風の内装が広がっている。窓の外の光の角度から見て、時差のある国にいることは想像がついたが、あえて尋ねはしなかった。
「蓮司。変わりないか」
「変わりありません」
父の声は、いつも通り抑揚に乏しい。だがその一言一言には、有無を言わせない重みがある。堂島とはまた違う種類の威圧感だった。
「桐生物産の件、報告は受けている。憶測で動くな、というのがうちの流儀だ。よくやっている」
「堂島の指導です」
「謙遜はいい。お前の判断だということは分かっている」
父はそう言うと、少しだけ話題を変えた。
「二学期からの学園祭、体育祭といった行事について、学園側から警備計画の見直し要請が来ている。表向きは治安上の理由だが――お前の正体が露見するリスクを、向こうも今更ながら警戒し始めたということだろう」
「今更、ですか」
「三年目ともなれば、化けの皮が薄くなるのも道理だ。念のため、行事の前には堂島から詳細な計画を共有させる。お前は普段通り、平凡な生徒として過ごせばいい」
「分かりました」
「もうひとつ。桐生物産の件、規模が大きくなれば地方経済への影響も無視できない。判断を急ぐ必要はないが、いずれ避けては通れない話になる。覚悟だけはしておけ」
「――分かりました」
覚悟、という言葉の重さを、俺はまだ正確には測りかねていた。桐生蓮個人への感情と、その背後にある無数の従業員たちの生活は、別の問題だ。頭では分かっていても、その境界線を、いつか自分の意志で引かなければならない日が来る。
短いやり取りだったが、父との会話にはいつも、無駄がない。用件を告げ、確認を取り、それで終わる。情に流されるところを、俺は一度も見たことがなかった。
面談を終えると、堂島が静かに口を開いた。
「旦那様は、口には出されませんが、蓮司様のことを気にかけていらっしゃいます」
「そうか」
それ以上、何も言わなかった。父の愛情の形が、そういうものであることは分かっている。今更、確かめる必要もない。
午前中の残りは、国内物流子会社からの追加資料の確認に費やした。昨日決裁した人事案件について、現場からの反応がいくつか届いている。おおむね好意的な内容で、堂島も安堵の色を見せていた。
「昨日の判断、現場からも歓迎の声が上がっているようです。特に、新拠点責任者への内示については、現場からの信頼も厚いとのことで」
「そうか。なら良かった」
資料の合間に、来期の設備投資計画にも目を通した。新設予定の物流拠点、自動化ラインの導入コスト、投資回収の見込み年数。数字だけを見れば無味乾燥な資料だが、その裏には何百人もの生活がぶら下がっている。決裁の重みを、俺はもう身体で覚えていた。
その流れで、堂島が別件の資料を差し出した。
「こちらは、二学期の学業成績に関する調整案でございます。佐藤蓮司としての学業記録は、目立たぬ範囲で中位を維持する方針でよろしいでしょうか」
「ああ、それでいい。目立ちすぎても、埋もれすぎても面倒だ」
「かしこまりました。家庭教師陣には、その旨あらためて周知いたします」
地味な生徒であり続けるためには、成績ひとつにも計算が要る。誰にも気づかれないよう、ちょうどいい場所に居続けること――それもまた、三年間で身につけた技術のひとつだった。
昼を過ぎた頃、堂島が改めて桐生物産の件について報告に来た。
「外部の第三者機関による正式な監査契約が、来週にも締結される見込みです。これにより、公共案件入札に関する調査が、より本格的な段階に入ります」
「まだ、確定ではないな」
「はい。監査結果が出るまでは、いかなる判断も控えます」
「発注元の自治体側の反応は」
「現時点では感知されておりません。監査は極めて静かに進めております。念のため申し上げますが、監査対象はあくまで資金の流れであり、桐生物産の日常業務そのものに影響が出ることはございません」
「それでいい。表沙汰にする段階じゃない」
堂島の答えはいつも変わらない。だが「来週」という具体的な期限が示されたことで、静かに積み上がってきたものが、少しずつ輪郭を持ち始めているのを感じた。
午後は、久しぶりに何の予定も入っていなかった。書斎の窓辺に立ち、庭を眺める。結衣たちは今頃、二日目の観光を満喫しているのだろう。俺には、その隣に立つ権利も、望みも、最初からなかった。
ソファに腰を下ろし、珍しく仕事以外の本を手に取ってみたが、数ページも読まないうちに、意識は自然と桐生物産の件へと戻っていった。仕事以外に没頭できるものを、俺はもう長いこと持っていない。休むということの意味さえ、いつからか分からなくなっている気がした。
夕方、堂島が紅茶を運んできた。湯気の立つカップを机に置きながら、彼は珍しく世間話めいたことを口にした。
「蓮司様は、学生の休日というものを、どのように想像しておられますか」
不意を突かれた問いに、俺は一瞬答えに詰まった。
「――さあな。友人と出かけたり、家でだらだら過ごしたり、その程度だろう」
「左様でございますか。私には、少々羨ましくも思えます」
堂島がそんなことを言うのは珍しい。だがそれ以上、深追いする様子はなく、彼はいつも通りの静けさで一礼し、書斎を後にした。
ただ、父の言葉が、頭の片隅に残っていた。「三年目ともなれば、化けの皮が薄くなるのも道理だ」――それは、この生活の終わりが、確実に近づいていることを示す言葉でもあった。
八月二日、日曜日。世間では旅行の二日目に過ぎないこの日も、一条蓮司の日常としては、静かに、しかし着実に、次の季節への布石が積まれていく一日だった。
窓の外では、蝉の声が絶え間なく響いていた。結衣たちの笑い声も、堂島の静かな足音も、父の抑揚のない声も、すべてが遠くの喧騒のように感じられる、そんな夜だった。




