第3話「八月一日、土曜日」
夏休みに入って、最初の土曜日。
結衣のSNSは、朝の八時からすでに賑わっていた。「今日から二泊三日、海!」というキャプションとともに、真っ白なキャリーケースと、これ見よがしに広げられた水着の写真が並んでいる。コメント欄には桐生の名前もあった。「俺も後から合流するわ、待ってて」――そんな軽いやり取りが、何十件も積み重なっていく。武田や遠藤らしき名前も見え隠れし、絵文字だらけの盛り上がりが続いていた。
俺はベッドの上でそれを一度だけ眺め、画面を閉じた。羨ましいとは思わない。ただ、彼らが「今日」という一日に注いでいる熱量の総量に、少しだけ驚いただけだ。俺の一日には、こういう類いの浮ついた熱は、最初から入り込む余地がない。
カーテンを開けると、夏の朝の光が部屋いっぱいに差し込んだ。学校がある日となんら変わらない時間に目が覚めるのは、もう身体に染みついた習慣だ。休みの日だからといって、緩める余裕は俺には与えられていない。
身支度を整え、書斎に下りる。すでに堂島がタブレットを手に待っていた。
「おはようございます、蓮司様。本日のご予定、改めてご確認を」
「ああ」
「午前中は東南アジア生産拠点からの月次報告の確認、正午より香港法人代表・林様がご来訪。昼食を兼ねての面談となります。夕刻には、桐生物産の件で追加のご報告がございます」
「分かった」
短いやり取りだけで、一日の骨組みが決まる。もう何百回と繰り返してきたやり取りだ。
朝食は、庭に面したテラスで簡素に済ませた。トーストと、淹れたてのコーヒー。窓の外では、庭師が丹精込めて手入れした木々が、夏の日差しを受けて濃い緑を湛えている。この景色を、結衣たちは一生見ることがないだろう。そのことに、優越感も、寂しさも湧いてこない。ただの事実として、そこにあるだけだ。
食事を終えると、そのまま書斎に戻り、本格的に仕事へ入った。
午前中は、タイとベトナムの生産拠点から届いた月次報告に目を通す作業に費やされた。現地責任者からの英文レポートは、数字の羅列が中心だが、その裏に潜む微妙な異変を見逃すわけにはいかない。ページをめくるたび、原材料の調達コスト、稼働率、労務管理の指標が、淡々と俺の前を流れていく。
その中で、原材料の調達コストがわずかに上振れている箇所を見つけた。前月比で二パーセントほどの差だが、慣れた目には引っかかる数字だった。
「この項目、現地の調達担当に照会してくれ。理由が納得できるものかどうか」
「かしこまりました。本日中に確認をとります」
堂島はそう答えると、静かにタブレットにメモを打ち込んだ。こうしたやり取りを何十件も繰り返すうちに、時計の針は正午に近づいていた。
林氏の到着は、時間ぴったりだった。恰幅のよい壮年の男が、堂島に案内されて応接間に姿を現す。
「蓮司様、お久しぶりです。夏だというのに、相変わらずお忙しそうで」
流暢な日本語に、時折英語のフレーズが混じる。長年、国際的なビジネスの場を渡り歩いてきた人間特有の、柔らかくも隙のない話し方だった。握手を交わし、そのまま昼食の席へ移る。
テーブルに運ばれてきた料理に手をつけながら、話題は主に第四四半期の物流再編案に及んだ。林氏は自らのタブレットを取り出し、香港港湾の混雑状況や、代替ルートの検討案を丁寧に説明してくれる。俺はそれに目を通しながら、いくつかの質問を挟んだ。
「この代替ルートのコスト増分は、どの程度まで許容できる想定だ」
「現状の試算では、二割増までなら、遅延リスクとのバランスで十分に見合います。蓮司様のご判断次第ですが」
「代替ルートの現地パートナーは、信頼できるのか」
「過去五年の取引実績は良好です。ただ、今回の規模となると初めてになりますので、初回は監査を厳しめに入れることをお勧めします」
林氏の説明は具体的で、無駄がなかった。数字と根拠を並べたうえで、最終的な判断は必ず俺に委ねる。その距離の取り方が、この男との仕事を長く続けられている理由のひとつだった。
やり取りを重ねるうち、林氏がふと箸を止め、こちらを見た。
「――それにしても、蓮司様の判断力には、いつも驚かされますよ。この歳で、我々の何倍も先を読んでいらっしゃる」
そう言って笑ったあと、少しだけ声のトーンを落とす。
「とはいえ、学生である時間も、大切になさってくださいね。私はもう、戻れませんから」
社交辞令なのか、本音なのか。判然としないその言葉が、なぜか妙に耳に残った。俺は曖昧に頷いただけで、それ以上の返事はしなかった。学生である時間――その言葉が指すものが、俺にとっては教室で武田に荷物を持たされたり、大木に理不尽に怒鳴られたりする時間だということを、この男は知らない。知る必要もない。
林氏を見送ったのは、午後三時過ぎだった。玄関先で深々と頭を下げる林氏の背中を見送りながら、堂島が静かに口を開く。
「林様は、蓮司様のことを本当に買っていらっしゃいますね」
「そうだな」
短く答え、書斎に戻る。午後の時間は、理事会向け資料の確認と、いくつかの決裁案件の処理に費やされた。判子ひとつ、署名ひとつが、どこかの国の何千人もの雇用に直結する。その重みに、今更慣れることもないが、動じることもない。
資料の中には、国内の物流子会社からの人員配置に関する稟議もあった。新設する倉庫拠点の責任者候補が三名、経歴とともに一覧になっている。堂島が横から補足する。
「この三名の中では、二番目の候補が現場経験・マネジメント経験ともに突出しております。ただ、給与水準の折り合いが少々難航しているようで」
「妥当な範囲なら通せ。人を安く買い叩いて、後で高くつくのは目に見えている」
「かしこまりました。その方向で調整いたします」
こうした細かな判断の積み重ねが、結局は一条グループ全体の血流を支えている。地味で目立たない仕事だが、疎かにすれば、どこかで必ず歪みとなって表れる。それを、俺はこの三年間で嫌というほど学んできた。
合間に、少しだけ休憩を挟んだ。中庭に面したソファに腰を下ろし、目を閉じる。遠くから、蝉の鳴き声が微かに聞こえてきた。学校の校庭でも、同じ蝉が鳴いているのだろうか。ふと、そんな益体もないことを考えている自分に気づき、小さく息を吐いた。
夕刻、堂島が改めて報告に訪れた。
「桐生物産の件でございますが、下請けの資材加工会社に見られた不自然な資金移動の一部が、桐生物産本体が受注する公共案件の入札に関わっている可能性が浮上しております」
「可能性、か」
「はい。現時点ではあくまで状況証拠の域を出ません。憶測で動くつもりはございません。客観的な裏付けが揃うまでは、静観いたします」
堂島の口調には、いつも通り迷いがなかった。焦って動けば、それは一条家の流儀に反する。証拠が積み上がるのを、ただ待つ。それだけのことだ。
「引き続き、頼む」
「承知いたしました」
スマートフォンを見ると、結衣のSNSにはまた新しい投稿が増えていた。夕焼けの海をバックにした写真に、「最高の一日だった!」というキャプション。写真の中の結衣は、屈託なく笑っている。かつて、その笑顔を隣で見ていた時間があったことが、今ではひどく遠い記憶のように感じられた。
俺はそれを一瞥し、画面を閉じた。
窓の外では、日が少しずつ傾き始めている。今日という一日だけでも、俺と彼らの間には、埋めようのない距離があった。それでいい、と思う。もとより、同じ場所に立つつもりなど、最初からなかったのだから。
夜、書斎の明かりの下で、俺は明日以降の予定表に目を通しながら、ふと手を止めた。夏休みは、まだ始まったばかりだ。この先も、こうした一日が積み重なっていくのだろう。結衣たちの「最高の夏」とは違う形で、俺の八月もまた、確実に動き続けていく。
窓の外に目をやると、庭の向こうに星がひとつ、二つと瞬き始めていた。誰かと並んでそれを眺める時間など、俺には縁のないものだ。分かっていたはずのことを、なぜか今夜だけは、少しだけ噛みしめるように確かめてしまった。
八月一日、土曜日。世間では夏休みの序盤に過ぎないこの日も、一条蓮司の一日としては、いつも通りの密度で過ぎていった。




